2017年3月12日日曜日

堀田善衛『ゴヤ』(115)「版画集『戦争の惨禍』」(3)「この「私がこれを見た」という詞書は、この版画集全体の副題であってもよく、またこの画家、ゴヤの全生涯のそれであってもふさわしいものである。 時代の証言者としての芸術家、という、存在のあり様は、ここに全的に成立しているのである。」

戦争という、最大規模での人間狂気の抉出にあたって、従って版画集『戦争の惨禍』を構成するについて、ゴヤは並みの作家以上の、細心の配慮と根廻しをしてかかっている。・・・

序文にあたる第一番・・・、第一群(ニー一九番)・・・は、ゲリラとフランス軍との戦いとその悲惨をまとめ、第二群(二〇-二七番)はその結果の悲惨、第三群(二八-三〇番)はこの戦争の内戦としての悲惨な性格、第四群(三一-三九番)は死体陵辱と死刑執行の悲惨、そうして四一番からはじまる第五群とのあいだに、先に記した怪獣と女性(四〇番)を配して、後に来るものへの伏線としているのである。
ゴヤ『戦争の惨禍』41

 ゴヤ『戦争の惨禍』42「すべてあべこべだ」

ゴヤ『戦争の惨禍』43「これもまた」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』44「私がこれを見た」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』45「これもまた」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』46「それは悪い」

ゴヤ『戦争の惨禍』47「かくて(掠奪が)起った」

かくて、四一番から四七番にいたる、いわば「私がこれを見た」シリーズとでも言うべきものがはじまる。四一番は、この戦時中のサラゴーサの病院火事のときの景と言われ、「彼らは焔のなかを逃げまどう」と詞書されている。四二番、四三番は「すべてあべこべだ」、「これもまた」と詞書されていて、人々を救い慰めるべき修道士や修道女たちまでが、われ先に逃げ出してしまい、地に仆れた人をさえもかまいつけもしないという様相を描き出している。

先の版画集『気まぐれ』にあれほど頻繁にあらわれていた聖職者批判が、今回の『戦争の惨禍』においてはここにはじめて、しかも一層痛烈な、現実の目撃証拠として描き出される。・・・なおこの第五群中の四二、四三、四四、四五番の四枚は、おそらくフエンデトードス村への帰郷中に敵軍の接近を伝え聞いた村人たちの避難を「私がこれを見た」(四四番)、「これもまた」(四五番)として描き出したもののようである。四五番のそれでは、女たちのうちの一人は左手で赤ン坊を抱え、脇の下にフライパンをさし込み、右手にはニワトリを一羽つかまえ、足許には豚が駈けている。そうしてもう一人の女は、子供を肩車にして背負っている。また三人目は、あまりに大きな荷物を背負っていて男とも女とも判然としない。
あわてて子供だけをひっかついで来た女性と、いわば落着いてフライパンにニワトリと豚までを持ち出した女性との対比などは、やはり実見にもとづくものであることを証ししているであろう。
この「私がこれを見た」という詞書は、この版画集全体の副題であってもよく、またこの画家、ゴヤの全生涯のそれであってもふさわしいものである。
時代の証言者としての芸術家、という、存在のあり様は、ここに全的に成立しているのである。

四六、四七番は、フランス軍の教会襲撃、そうして略奪の図である。詞書は簡単明瞭に「それは悪い」、「かくて(掠奪が)起った」、である。

これで第五群がおわり、四八番から六四番までの一七枚は、一八一一年から二一年にかけて、マドリード市民の二万人が飢え死にをしたり病死をしたりした”飢えの年”の描出であるが、この件については先に詳しく述べたので、ここではくりかえさないことにする。・・・
しかもこの第六群は一七枚が使われていて、ここに描き出されているものは、一社会なのだ。たとえば六一番に描かれているものは、警官によって飢えた者たちと富める者とが隔離されている一つの社会像なのである。
*
*

0 件のコメント: