2017年9月11日月曜日

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月3日(その2) 葛飾区、北区の証言 「荒川の船橋(渡し)のあたり、赤羽寄りに20~30名の死体が浮いているのを目撃した。朝鮮人の死体だと言われたのを覚えている。また、上野駅でトラック一杯の血まみれになった朝鮮人を見た。」

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月3日(その1) 足立区、荒川区、江戸川区、大田区の証言 「.....小松川にて無抵抗の温順に服してくる鮮人労働者200名も兵を指揮し惨ぎゃくした。婦人は足を引張りまたを裂き、あるいは針金を首に縛り池に投込み、苦しめて殺したり、.....」
より続く

大正12年(1923)9月3日

〈1100の証言;葛飾区〉
M
〔堀切の荒川の中で〕ヨシの間を泳いで逃げる朝鮮人を在郷軍人が舟を出して竹槍で刺し殺した。川の両側には軍人が立っていた。見物人が「竹槍で刺しちゃった。いやだなあ」。その頃、在郷軍人が通る人通る人を調べていた。四ツ木で朝鮮人が殺されたのだという話を農民から聞いた。
〔略〕小菅の監獄に兵隊が詰めていた。テンカツ(菖蒲園近く、相撲取りの別荘)にも兵隊がいて、夕方ピストルの音が聞えた(朝鮮人が殺されたという話だった)。3日頃から3、4日は続いた。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『聞き書き班まとめ』)
『いはらき新聞』(1923年9月4日)
「怒りに怒れる民衆 鮮人殴り殺さる 汽車の中で兇暴の行為」
昨夜8時水戸着の列車は避難民を満載し列車の屋根にまで乗れるほどなるが、同車には亀有より4人の不逞らしき鮮人乗込み、1名は乗車場にて民衆のため殴り殺され、残りの鮮人は車内にまざれ込み荒川沖まで暴行をなしつつ来れる報に土浦にて取調1名を下車せしめたるも無抵抗なりしと。他は見当らなかった。 

『いはらき新聞』(1923年9月5日)
(3日午後10時20分亀有にて)亀有駅付近は3日午後7時頃より消防組、青年団、在郷軍人はいずれも日本刀、手槍、猟銃等を携え武装して街路々々を警戒し、また佐倉歩兵第五七連隊の一部は、出動して夜暗に全く戦時同様の歩哨線を張って警戒している。この如き想像も及ばぬ状態は全く不逞鮮人の一団と社会主義者の一味が協力して火事泥棒を働く結果で、〔略〕金町付近に出没した鮮人は井戸に毒を入れ、また火を放たんとするので、遂に7名ほどが惨殺したとのことであるが、三河島辺にも鮮人の死屍が所々に横わっていて、この嘘のような事実が現実に首肯されているとのことである

『東京日日新聞』(1923年10月28日)
「大震災当時に挙げた県民の善行美事
進んで鮮人を保護した二合半領の自警団鎮静後鮮人が謝意を表しに来た 只遺憾だったのは府下自警団の暴行」
早稲田村では9月2日夜鮮人保護を決議し村長斉藤重三郎・軍人分会長加藤武次郎・青年団長中村義男の諸氏が同村の中川改修工事に来ている鮮人18名を大字幸房に纏め他へ難を避けさせる準備中、9月3日未明に対岸の東京府下水元村から自警団が殺到し鮮人保護に任じていた大字書房区長松□繁蔵氏を殴打し右18名を奪い取って水元村大字猿ヶ俣で全部惨殺したとの事で、前記彦成と早稲田との鮮人を殺害した東京府下の自警団員十数名は目下東京地方裁判所に検挙取調べ中であるけれども、二合半領の各村は何(いず)れも鮮人保護の挙に出たのだから1名も検挙されたものはない。ただ隣郡南埼玉の潮止村煉瓦職工三角三次1名が対岸の東京府下に出かけて右暴威を振るった自警団に与したため検挙されただけの事で、無論これは二合半領各村の自警団には関係がないのである。

〈1100の証言;北区〉
木村東介〔美術収集家〕
〔3日〕汽車が徐行のまま赤羽駅を過ぎて荒川土手にさしかかった頃、異様な人込みを見てしまった。それは、14、5歳の朝鮮少年を高手小手にいましめて、土手に引っぱってゆくいきり立つ400~500人の日本人の群集である。たかがたった一人の少年ではないか? それを400~500人の群集が、大捕物でもしたように土手に引きずって行く群集心理。もしこの中に少年を助けようとする勇者がいだとしたら、その人はその場で裏切り者として滅多斬りにされるほど人々の心は興奮し、殺気に燃え立っている。
(木村東介『上野界隈』大西書店、1979年)

中村晃一郎
9月3日に東京へ見に行った。赤羽から十条あたり一面の田圃の畦道の彼方を40~50名の一隊が歩いていた。同乗していた制服の警官が語っているのを聞いた。”あれは朝鮮人を連行している警官の一隊で、赤羽工兵隊へ連行して処刑するらしい。東京、横浜一帯では、井戸へ毒を投込んだから、日本人は皆殺しになるそうだ。だから朝鮮人は皆殺してしまうんだ”。
又、荒川の船橋(渡し)のあたり、赤羽寄りに20~30名の死体が浮いているのを目撃した。朝鮮人の死体だと言われたのを覚えている。また、上野駅でトラック一杯の血まみれになった朝鮮人を見た。
(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会編『かくされていた歴史 - 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会、1974年)

藤沼栄四郎〔社会運動家、南葛労働会創設者〕
私の妻の妹は赤羽で朝鮮人の夫婦者2家族を同居させており、その人たちは何処にも行かず家にいたが、3日ごろ憲兵と制服の巡査が来て連れ出したので、後を見送っていると、赤羽の土堤の上に4人を立たせ、憲兵がドスで4人の首を切り落し川の中へ突き落した。
(『労働運動史研究』1963年7月「震災40周年号」、労働旬報社)

波木井晧三〔演劇評論家〕
〔3日未明〕突然、人々が騒然と〔飛鳥〕山の頂上の方へバラバラと駆け登って行く足音に目を覚まされた。人心騒然としている時だけに、私も何事かと人々の後について、山の頂上の方へ駆け登った。「ああ、あれは三河島だ・・・」と言う人の声に、遥か田端や三河島方面の夜空が真っ赤に炎で映えて、遠くに半鐘の声にまじって騒然たる異常な叫び声が風に乗って伝わってくるのだ。「あれは不逞鮮人が焼き打ちしているんだ。今にこっちの方へも押しかけてくるから、気をつけろよ」と、群衆の中から叫ぶ人がいる。「なに、鮮人か。ひどいことをしやあがる」と、怒気を含んだ声が反射的に聞こえてきた。群集はこの無気味な警告に騒然としだした。「ここも無事ではないのか」何か遥か遠方の火事が、次第に飛鳥山へまで飛び火してくるような不安に包まれた。私はすぐ心配顔の父母たちの所へ戻って、「三河島で、朝鮮人が焼き打ちを起こしたって言うんですよ。ここまでは遠いから、来やしませんよ」と言ったものの、今にも不逞の朝鮮人が襲って来たら、どんな惨事が起こるか分らず、そんな不安の状態でいる間に、そろそろ夜明け近くなった。
(波木井晧三『大正・吉原私記』青蛙房、1978年)

海軍「火薬廠爆薬部震災事項に関する報告書」(1923年9月〕
①大正12年9月3日
海軍火薬廠爆薬部 海軍省副官殿
本日赤羽、川口方面の鮮人約400名当部方面に襲来の情報に接したるため、別紙の通り陸軍省高級副官苑警戒援助を依頼すると同時に、工場員を二分し昼夜内部より警戒に努め居り候 右報告す (了)
大正12年9月3日
海軍火薬廠爆薬部 陸軍省高級副官殿
警戒援助之件
本日赤羽、川口方面の鮮人約400名当部方面に襲来の情報に接したるため、別紙の通り赤羽工兵隊に援助を依頼すると同時に、中山騎兵大尉に依頼の上、滝野川町在郷軍人並に青年団の応援を受けつつあるも、尚応分の御援助方御配慮相煩度
右依頼す (終)
大正12年9月3日
爆薬部 赤羽工兵隊御中
鮮人約400名板橋、赤羽、川口方面より当部方面に向って襲撃せんとする情報に接し候処、当部に於ても全力を尽して警戒防に努め居り候も、如何せん当部に於ては全員200余名に過ぎざるのみならず、防カ微弱且つ防具の設備もなく困難致居り候に付、特に応援方御配慮を煩わされ度右御依頼す (終)

②大正12年9月3日
海軍火薬廠爆薬部 海軍高級副官殿
報告第二報(大正12年9月3日午後2時)巣鴨町在郷軍人会よりの情報
鮮人約数名自動車にて横浜を出発したり目的は滝野川海軍火薬廠爆破部を爆発せんとするにあり (了)

③大正12年9月3日
海軍火薬廠爆薬部 海軍省副官殿
第三報 第一信 朝鮮婦人約60名日本婦人の服装をなし飲料井水戸に毒薬を投ずるの企てあるを聞く
第二信 今朝8時陸軍火薬製造所に於て爆発を企てたるを聞きたり
第三信 滝野川商工学校裏に於て鮮人が放火の企てたるを発見し未然に消火したるを聞きたり
第四信 本日午後3時近衛歩兵第一連隊32名的野大尉引率当部に到着〔略〕
第五信 赤羽工兵隊将校以下21名只今到着、当部警戒配備任に付けり
第六信 本日午後3時鮮人約2名染井墓地付近に現われ、手相弾を携帯し居るを発見したるもその後行方不明
第七信 平塚より帰来せる商人西浦長太夫よりの報告によれば、平塚海軍火薬廠はほとんど全滅、但しその死傷の程度不明也

④大正12年9月3日
海軍火薬廠爆薬部 海軍省副官御中
第四報 第一信 本日午後1時巣鴨警察署より巣鴨付近にて爆弾発見の旨当爆薬部へ通報有之、直に調査の結果左の通り一、外貌暗灰色 有径85糎 重量488瓦 容積178cc 比重2.74(塩剤2.33 過塩剤2.54)
第二信 一、8時45分鮮人1~2名滝の川学園庭内に入込み捜索を依頼し来る
第三信 9時15分飛鳥山方面より斥候らしきもの当方に向いたる旨通報あり
第四信 9時20分駒込橋約100名の鮮人通過、飛鳥山に2名の鮮人入りたるの報あり
第五信 今夜当爆薬部の警戒配備左の如し 当爆薬部職工約60名、赤羽工兵隊より応援の将校以下21名を以て廠内を警戒、青年団並に在郷軍人団を以て外部の警戒配備に任ぜり
第六信 防配備の実力は頗る僅少にして薄弱の感あり、一層の応援隊を希望す (終)
⑤大正12年9月3日
海軍火薬庫爆薬部 海軍省副官
第五報 第一信 当部の現在防備の任にある幹部員 濱野主計大尉 美川造兵中尉 石中特務中尉 外に 陸軍士官学校数官騎兵大尉 中山保留 赤羽工兵大尉 工藤達一
第二信 9時50分赤羽工兵隊の兵士5名到着、残一個小隊当部に向け徒歩にて来つつあるを聞く
第三信 白米 約拾俵(4石) 右警戒員糧食配給のため支給を要す (終)

⑥号外4号 大正12年9月4日
海軍火薬廠爆薬部 海軍省副官御中
第六報 第一信 滝の川学園方面にある警戒者の報告によれば鮮人若干名当部を襲わんとする形勢ありと
第二信 午前1時爆薬部付近にある人家に鮮人漸次集合しその数11名に達せり、取調べたる所性質共温順にして同家に於て新聞配達を職業とせるものの由なるも、その数漸次増加するにより将来の危険を慮り、気の毒ながら1時45分自動車により王子警察署に護送し保護を依頼せり
第三信 1時45分本郷方面に火災あるを発見せり
第四信 昨夜8時5分赤羽工兵隊へ通信並に海軍省、陸軍省への報告書類送達、鮮人の護送等を全からしめ得たるは、本自動車の能く有効に且つ敏活に作動し得たるによることと信ず 該自動車所有者 群馬県高崎市赤阪町75満島惣吉氏 運転手 鮮人朴済元 (運転手素行)性温順、主家に奉公すること約4年、実直にして表裏なく良く勤務し主人の敬愛を受く、妻は日本人を嫁り、今回の鮮人に対する様の懸念なきものと認む
第五信 昨夜来只今までに於げろ情報(午前3時) 大略前報告にあるごとき色々なる流言蜚語多く、これに対し相当の警戒に努めつつあるも、何等その挙に出でたることなし、然りといえども当分その変に応ずるの準備をなし置くは必要あることと認む
第六信 目下当部職工昼夜交替二直配置勤務に服せつつあるも、陸軍の応援隊完備の暁には工場を閉塞し、職工出業を停止する予定 9月4日午前3時〆 (終)

⑦号外5号 大正12年9月4日午前8時
海軍火薬廠爆薬部 海軍省副官殿
第七報 夜明と共に在郷軍人団及青年会の応援警戒を解く 日出後は人心平静にして異状なし、職工は昼番27名、夜直約50名なり 本日陸軍部隊一中隊増援の筈なるも、現状にて応急防備の配置差支なし

⑧第八報 第一信 午前9時左の事項を告示せり 海軍火薬廠爆薬部告示 向原在住民の姓名及財産に対する危害防止並に海軍用爆薬庫間接警備のため、左記各項に基き国民警察を組織すべし一、各戸16歳以上の男子1名宛を派出すべし 二、民警部は爆薬部警戒員と常に気脈を通すべし 三、右各員は本日午後1時爆薬部西方エビス亭前広場に集合すべし (異筆)「警戒は充分なりと」
第二信 当部警戒のため東京市内を通過して午後3時50分到着せられたる陸軍歩兵学校教導連隊付重信中尉の談によれば、井戸或は火薬庫等の所在地に色々の符牒を用いてその所在地を暗示したる形跡あり、又井水に毒薬を投じ或は民家に放火する等、秩序ある行動の下に画策を講じつつあるものの如し
第三信 陸軍歩兵教導隊51名午後5時30分到着し、昨日来警備中の赤羽工兵隊30名と交代す、目下の所歩兵隊51名にて当部の警護は充分なりと認めらる〔略〕

⑨号外7号 大正12年9月4日 記入開始7時、終10時20分
海軍火薬廠爆薬部 海軍省副官御中
第九報 第一信 午後3時半鮮人用のものらしさ刃渡1尺2寸位青竜刀一口当部前武蔵野女学校門に接し隠閉しあるを発見押収したり
第二信 午後7時折戸養育院前に2ヵ所放火あり直に消止む(庚睦会員の実地検聞報告) (終)

⑩号外第八号 大正12年9月5日 記入開始午前2時 終同9時
海軍火薬廠爆薬部 海軍省副官御中
第一〇夜(ママ) 第一信 午前2時15分染井第三陸会よりの報告 上駒込714番地路道角に於て発見几白墨文字にて地上約2尺位の下見板に記載 4日午後11時 発見者理事 立川通雄 (右記号は直に抹消せしむ) 第二信 関東戒厳司令官命令〔自警団の届出、誰何禁止、武器禁止・・・・・以下第三~五信省略〕

⑪号外第九号 大正12年9月5日
海軍火薬廠爆薬部 海軍省副官御中
第一〇報 (第六~七信省略)・・・・・第八信 午後9時海軍火薬廠爆薬部守備隊長歩兵大尉石黒貞蔵氏の名に於て、左の如き「自警団許可之証」を火薬廠付近の各民衆自警団へ交付せり 《自警団可之証 (場所 会又は団体名) 右は盗難火災予防の為自治区域内の巡邏を許可し、且所要の棍類を所持することを許可す 注意一、通行人の検問を許さず、不審の行動あるものを発見せば直に最寄軍隊憲兵又は警察に通報すること 二、本許可証の有効期限は関東戒厳令施行期間とす 大正12年9月5日 板橋地区警備隊 海軍火薬庫守備隊長歩兵大尉石黒貞蔵》〔略〕 (終)
(防衛研究所所蔵→北区史編纂調査会編『北区史(資料編)現代I』北区、1995年より抜粋)"

加藤五郎〔当時第六高等学校生徒〕
〔3日か〕田端の交番の前で○○が不穏の挙に出でんとして在郷軍人学生等に発見され、瀕死の状態になるまで殴打されていたのを見た。また〇〇15、6人逮捕され自動車で警官に護衛されながら送られるのを見た。この地方は井戸に激薬を投じたから飲料水に困っている。
(「不忍池に死体浮ぶ 不逞徒の跳梁を目撃して」『山陽新報』1923年9月5日)

吉村藤舟〔郷土史家〕
〔3日夜〕「さァ大変だ。田端は放火線に入っちゃった。」と、いっている所へ、どやどやと家の若い連中が帰って来た。そしててんでが日本刀だの、大きな樫の木の太刀だのを持ち出し、書生は白の鉢巻など締めていました。
「放火区域ということがどうして知れるのです」と、私が尋ねますと、
「奴等にはちゃんと暗号があって、昼の間にその印をつけて行くのです。○にトの印は爆弾投下、口にトは井戸水に毒を入れることです。ここには○にトの印がついていますから」と、白い鉢巻をしていた男がこういった。これから、4人の男が、家の周囲をぐるぐる回って警戒しはじめた。もう、あたりは殺気立って、どこかで、ワッ、ワッと鬨の声を上げているのが闘える。それで湯島から来ておられる末の嬢さんなどは恐がって、ワイワイ泣かれるそれを女2人が無理に寝かしつけている所へ、表から町の救護団員が走って来た。
「佐々木さん。皆出て下さい。奴等が50人乗り込んだそうですから・・・」
この声で、裏だの、横手にいた家の連中が帰って来た。「さァ面白くなった。留守を願いますぜ」と、奥田君までが年甲斐もなく後鉢巻なんかして、長い日本刀を差して出て行った。もう来次第に皆殺しにするという。恐ろしい馬鹿な考えに皆が気をいらだたしているのです。私は皆が出て行った後で、椽端に立って下の様子を見ました。
(吉村藤舟『幻滅 - 関東震災記』泰山書房仮事務所、1923年)

王子響察署
9月1日午後4時、突如として鮮人放火の流言管内に起り、更に2日以降に至りては、毒薬の撒布・爆弾の投擲・殺人・掠奪等、あらゆる暴行の状態を伝えたり。これに於て民衆の恐怖と激昂とは、やがて自警団の設置となり、彼等は戎(じゆう)・兇器を携えて鮮人の逮捕に没頭し、2日深更までに本署に同行し来れる者百余名に上りしが、3日午前5時頃に及びては、町村の要所に関門を設けて通行人を訊問し、いやしくも挙動不審なる者は、その鮮人と、同胞たるとを問わず、ことごとくこれを本署に拉致し、はなはだしきは制服を着用せる警察官をも誰何するに至れり。而して署員の戒諭に対して反抗して曰く、「今や警察力は不備の状態に在るを以て、自衛上不逞鮮人の逮捕を為すのみ、然るにこれを咎むるは何ぞや」とて命を用いざるの有様なれば、治安保持の上に於て仮借すべきにあらざるを思い、3日戎・兇器の携帯、交通遮断、流言の流布等を厳禁する旨、各自警団に通告してこれを戒めたりしが、幾もなく警視庁よりもまたこれが通牒に接したり。然るに名を自警団に仮り、不良の行動に出づるものあり、就中、尾久町方面に於ける土工親分20名の如きは、2日以来南足立郡江北村西新井村の農家14戸より食料品を強奪せるを始め、或は、掠奪・窃盗を為し、或は物資配給所を襲撃し、或は殺人を為す等、純然たる暴徒なりしを以て、翌3日直にこれを検挙すると共に、巡察隊を組織して非違の警戒に努むる中、秋田県人某等の鮮人と誤認せられて、田端自警団員の為に、将に危害を加えられんとするを救助し、府下寺島村の職工某等が六連銃及び槍を携えて、王子町字下十条慂を徘徊中同地の自警団と衝突し、将に大乱闘を惹起せんとせるを鎮撫せり。曾々9月5日警視庁の命に依り、自警団の徹底的取締を為すや。民衆は却て警察を非難し、戎・兇器の携帯を強要して巳まず、殊に数百名の自警団の如きは、本署に来りて喧騒を極め、不穏の言辞を弄したれども、説諭再三に及びて漸くその意を諒せしが、爾後命に背く者に対しては毫も容赦せず。流言所犯者及び悪自警団の領袖、並に博徒親分数名を検挙せり。その後鮮人に関する流言の概ね訛伝なるを知るや、「曩日(のうじつ)の流言は、社会主義者の放てるものにして、陰謀の手段に供せんとするなり」と云えるが如き蜚語新に生じ、主義者の身辺また危険なるを認め、更に彼等を検束して保護を加え、又収容せる鮮人に対しては、或は就職の途を講じ、或は身元引請人に交付する等、その意を安んずるに努めたり。
(『大正大震災誌』警視庁、1925年)

『下野新聞』(1923年9月1日)
「帰来した青年団 情況報告」 (本県青年団活動報告)
(第一班)〔略〕3日午前2時岩淵に到着夜営した。然るに同地に鮮人が既に侵入し暴動起り、軍隊の活動で20余名を捕縛、現行犯2名を銃殺し尚数名の潜伏の模様ありしを以て一同厳重に警戒し徹宵した。
当時東京は一面紅空を呈し、時々銃声や爆発の音がドンと聞え物凄く、午前5時一同出発徒歩で赤羽王子間にさしかかるや警備の軍隊より宣告があった、「王子から東京は鮮人盛んに暴行を働きつつあり。もし鮮人を発見した時はぶち殺せ」と命じた。尚「井戸の水に毒薬投入されあるから一切飲むな」と命じた。〔略〕牛込下谷当りは青年団抜剣して実弾を打ちつつ警備した。

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月3日(その3) 江東区/永代橋・越中島付近/大島の証言 「9月3日大島7丁目に於て、鮮人放火嫌疑に関連して支那人及び朝鮮人300名乃至400名3回にわたり、銃殺または撲殺せられたり。」
につづく







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