2018年3月4日日曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート4 (明治20年~22年)

修善寺寒桜 千鳥ヶ淵緑道 
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明治20年
前田卓(19歳)最初の結婚、そして離婚
明治20年3月26日、卓(19歳)は最初の結婚をする。相手は、玉名都高道村(現玉名市岱明町高道)の豪農の長男、植田耕太郎、卓より7歳年上で、父案山子や兄下学らと共に活動していた民権家であった。

加藤豊子「熊本の自由民権家 前田案山子とその周辺」によれば、植田は、明治19年7月の旧改進党山鹿親睦会に下学とともに玉名郡を代表して出席している。そこでは、私議憲法案を調査する委員を選ぶための協議が行われた。さらに結婚の年(明治20年)10月、福岡県太宰府で開かれた旧九州改進党の秋期親睦会にも、案山子や下学らとともに出席。11月に東京で開かれた「有志大懇親会」にも、案山子や下学らとともに出席している。
しかし、それ以後は、案山子周辺だけでなく九州の民権運動から、植田新太郎の名前は消える。つまり、卓との結婚前後にだけ、彼は玉名郡の民権家のリーダーの一人として登場したということになる。

そこから想像できるのは、有望そうな青年が案山子の目に止まり、ちょうど適齢期の娘の婿にという話になった。そしてその引き立てによって、リーダー的な立場となり、華々しい活動をした。けれども長続きしなかった、ということであろう。はたして植田に、民権家としての強い信念があったのかどうか疑問が残る。
そして、明治21年11月、卓は植田と離婚する。

蒲池正純「『草枕』のモデル考」によれば、植田は卓と分かれてのち三度結婚と離婚をくり返している。そのうち二度は同じ女性との間であった。さらに内縁関係の女性もいて、子供をもうけているという。植田の民権運動離れが離婚の直接の原因と推測されるにしても、もともと卓との結婚は続くはずがなかったと思われる。

明治21年
この頃の漱石
明治21年5月、第一高等中学校予科一級の時の作文「討論 - 軍事教練は肉体鍛錬の目的に最善か?」で、軍事教練において「われわれは、奴隷か犬のように扱われるのであります」と書き、さまざまなスポーツ競技や野外でのゲームこそ、最高の喜びと楽しみと快適さを与えてくれ、「われわれにとって最善の訓練」だと主張している。
自由主義を尊び、反国家主義・反権力・反権威の姿勢が見える。

明治22年
妹槌(17歳)と宮崎滔天(18歳)
明治22年初夏、槌と滔天は出会う。
その頃、滔天は、遅れてきた自由民権少年から熱烈なキリスト教徒となり、その教えにも疑問をもって、その春に長崎で出会った奇妙なスエーデン人イサク(アイザック・ベン・アブラハム)に傾倒していた。長崎県知事が、外務大臣大隈重信と内務大臣松方正義宛に出した「端典国人アブラハム帰化の義伺」(明治22年5月23日付)にアイザック・ベン・アブラハムの名がある。

イサクは、世界を放浪し、脱文明と原始回帰を主張する老人であった。滔天は、その思想に共鳴し、彼の教えを広める学校を熊本に作ろうと、資産家である前田下学に持ちかけ、前田家の本宅に連れてきた。大広間で村民相手の授業が行われたが、裸足で家の内外を歩き、排泄も田畑の所構わずというアナーキーで自由気ままなイサクの生きざまは、たちまち村民に見放された。
その間に、槌と滔天は激しい恋に陥った。

滔天は、「世のため人のため生きよ」と教え続けた両親の心に従い、自由民権派の「植木学校」を作り、その後西南戦争で戦死した長兄八郎に続こうと、使命感に突き動かされて走り続けていた。彼は、人生を賭けるべき道を求めて、自由民権にキリスト教にと右往左往はしたが、一つに思いを定めると、たちまち周囲を巻き込み、突き動かす力を持っていた。東京でキリスト教に入信するとすぐさま郷里に帰り、母親や兄を入信させるほどであった。
父案山子はこの恋愛に強く反対したが、自由恋愛主義者のイサクが二人を煽った。二人は、秘かに婚約し、明治25年夏に結婚する。

(つづく)




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