2022年10月31日月曜日

横浜北仲 イタリアンのお店THE YOKOHAMA BAYでランチ 46階からの眺望 横浜美術館周辺の紅葉の始まり(モミジバフウ、ケヤキ) 2022-10-31   

 10月31日(月)、晴れ

今日は、横浜市庁舎の向かい、ザ・タワー横浜北仲というビルの46階にあるイタリアンのお店THE YOKOHAMA BAYでランチ。

46階からの眺めは抜群で、遠く富士山も望める。が、なんと! レストランのある46階には、レストランを利用しなくても360度が見渡せる環境になっていた。この辺りは散歩でもよく行くところなので、これからはチェックポイントにしよう。

写真は全てスマホ撮り。









▼46階からの眺め



▼遠く富士山が見える

▼横浜美術館周辺の木々が鮮やか
ランドマークタワー側のモミジバフウ
美術館前のケヤキ
横浜駅側のモミジバフウ
(メタセコイアの紅葉はまだでした)



〈藤原定家の時代165〉寿永3/元暦元(1184)年1月20日(③) 乳母子の今井兼平と主従二人だけになってしまったあと最期を迎える義仲(『平家物語』巻第9「木曾最期」)   

 

国芳〈粟津ヶ原大合戦義仲ノ四天王今井四郎兼平力戦して寿永三年正月三十三才にて英名をとどむる〉


寿永3/元暦元(1184)年
1月20日(③)

『平家物語』の記述(史実ではない)

巴と別れた義仲が粟津にたどり着いた時、軍勢は5騎。読み本系『平家物語』は、義仲、今井兼平、手塚別当、手塚太郎、多胡家兼(家包とも)と記している。彼らは、逃げているのではなく、範頼本隊の中に突っ込んでいるため、進めば進むほど戦いは厳しくなる。その後、手塚太郎は離れて見えなくなり、手塚別当は討死にした。多胡家兼は、敵方に知る人も多く、殺さないように生け捕られる。最後に残った今井兼平は、義仲自害の時間を稼ぐため、音声も高く名乗りを上げ、弓戦で足止めをした。義仲(31)は、兼平を気にしながら後ろを振り返ったところを、兜の内側に矢を射こまれ落馬し、相州三浦の住人石田次郎為久に討取られる。義仲の最期を見届けた兼平(33)は、太刀を口にくわえたまま自ら落馬し、自害。

〈乳母子(めのとこ)の今井兼平と主従二人だけになってしまったあと最期を迎える義仲(『平家物語』)〉

「今井の四郎、木曾殿、主従二騎になッて宣(のため)ひけるは、「日来(ひごろ)はなにともおぼえぬ鎧(よろひ)が、今日(けふ)は重うなッたるぞや」。今井四郎(いまゐのしろう)申しけるは、「御身(おんみ)もいまだつかれさせ給はず。御馬もよわり候はず。なにによッてか、一両の御着背長(おんきせなが)を重うほおほしめし候べき。それは御方(みかた)に御勢(おんせい)が候はねば、臆病(おくびやう)でこそ、さはおぼしめし候へ。兼平一人(かねひらいちにん)候とも、余(よ)の武者千騎(むしやせんき)とおぼしめせ。矢七つ八つ候へば、しばらくふせぎ矢仕(つかまつ)らん。あれに見え候、粟津(あはづ)の松原(まつばら)と申す、あの松の中で御自害候へ」とて、うッてゆく程に、又あら手(て)の武者、五十騎ばかり出できたり。」(巻第9「木曾最期」)

「「君はあの松原へいらせ給へ。兼平は此(こ)の敵(かたき)ふせぎ候はん」と申しければ、木曾殿宣ひけるは、「義仲都にていかにもなるべかりつるが、これまでのがれくるは、汝(なんじ)と一所(いつしよ)で死なんと思ふ為なり。所々(ところどころ)でうたれんよりも、一所(ひとところ)でこそ打死(うちじに)をもせめ」とて、馬の鼻をならべてかけむとし給へば、今井四郎馬よりとびおり、主の馬の口にとりついて申しけるは、「弓矢とりは、年来日来(としごろひごろ)いかなる高名候へども、最後の時不覚(ふかく)しつれば、ながき疵(きず)にて候なり。御身は、つかれさせ給ひて候。つづく勢(せい)は候はず。敵(かたき)におしへだてられ、いふかひなき人の郎等(らうどう)に、くみおとされさせ給ひて、うたれさせ給ひなば、「さばかり日本国(につほんごく)にきこえさせ給ひつる木曾殿をば、それがしが郎等のうち奉(たてま)ッたる」なンど申さん事こそ口惜しう候へ。ただあの松原へいらせ給へ」と申しければ、木曾、「さらば」とて、粟津の松原へぞかけ給ふ。」(巻第9「木曾最期」)

今井はすぐ前で、「あなたは、まだお疲れになってはおりませぬ」、「味方がいなくなったので、臆病になって、そう思し召すのでしょう」と言って、義仲を諭し力付けたが、ここでは、「あなたはもうお疲れになっております」と言う。絶望的な状況になったことを覚悟した今井の、義仲に対する配慮、武将として朝日の将軍の名に恥じない最期を遂げさせたいとする心づかいが表現されている。
「木曾殿は只(ただ)一騎、粟津(あはづ)の松原へかけ給ふが、正月廿一日、入相(いりあひ)ばかりの事なるに、うす氷ははツたりけり、ふか田ありとも知らずして、馬をざツとうち入れたれば、馬の頭(かしら)も見えざりけり。あふれどもあふれども、うてどもうてどもはたらかず。今井がゆくゑのおぼつかなさに、ふりあふぎ給へる内甲(うちかぶと)を、三浦石田(みうらのいしだ)の次郎為久(じろうためひさ)おッかかッて、よツぴいてひやうふつと射る。いた手(で)なれば、まツかうを馬の頭(かしら)にあてて、うつぶし給へる処に、石田が郎等二人(ににん)落ちあうて、つひに木曾殿の頸(くび)をばとツてンげり。太刀のさきにつらぬき、たかくさしあげ、大音声をあげて、「此の日ごろ日本国(につぽんごく)に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、三浦の石田の次郎為久がうち奉ッたるぞや」となのりければ、今井四郎いくさしけるが、これを聞き、「今は誰(たれ)をかばはむとてか、いくさをもすべき。これを見給へ、東国の殿原(とのばら)、日本一(につぽんいち)の剛(かう)の者の自害する手本(てほん)」とて、太刀のさきを口にふくみ、馬よりさかさまにとび落ち、つらぬかッてぞうせにける。さてこそ粟津(あわづ)のいくさはなかりけれ。」(巻第9「木曾最期」)
その後、巴御前は、頼朝に捕われる、和田義盛に妻として貰いうけられ、義盛滅亡時、越中石黒で出家という。

兵500余で河内に出陣し行家を討つため長野城攻撃の樋口次郎兼光も、縁故のある武蔵源氏児玉党に降伏。児玉党は、自分たちの勲功と引き替えに兼光助命を義経に願い出、義経もまた院の御所に奏上し、一旦は認められるが、側近の公卿・殿上人・局の女房たちが反対し死罪となる。
義仲旗下の海野・望月・藤沢・祢津・泉・臼井など、頼朝旗下に入る。
鎌倉に人質の義仲嫡男義高は、大姫や木曾から来た海野幸氏により鎌倉を逃れるが、武蔵入間河原で堀親家の郎党に討たれる。
「蒲の冠者範頼・源九郎義経等、武衛の御使として、数万騎を卒い入洛す。これ義仲を追討せんが為なり。今日、範頼勢多より参洛す。義経宇治路より入る。木曽、三郎先生義廣・今井の四郎兼平已下軍士等を以て、彼の両道に於いて防戦すと雖も、皆以て敗北す。蒲の冠者・源九郎、河越の太郎重頼・同小太郎重房・佐々木の四郎高綱・畠山の次郎重忠・渋谷庄司重国・梶原源太景季等を相具す。六條殿に馳参し、仙洞を警衛し奉る。この間、一条の次郎忠頼已下の勇士、諸方に競走す。遂に近江の国粟津の辺に於いて、相模の国住人石田の次郎をして義仲を誅戮せしむ。その外錦織の判官等は逐電すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
「仍って人を遣わし見せしむるの処、事すでに実なり。義仲方軍兵、昨日より宇治に在り。大将軍美乃の守義廣と。而るに件の手敵軍の為打ち敗られをはんぬ。東西南北に散りをはんぬ。即ち東軍等追い来たり、大和大路より入京す(九條川原辺に於いては、一切狼藉無し。最も冥加なり)。踵を廻さず六條末に到りをはんぬ。義仲勢元幾ばくならず。而るに勢多・田原の二手に分かつ。その上行家を討たんが為また勢を分かつ。独身在京するの間この殃に遭う。先ず院中に参り御幸有るべきの由、すでに御輿を寄せんと欲するの間、敵軍すでに襲来す。仍って義仲院を棄て奉り、周章対戦するの間、相従う所の軍僅かに三四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ちをはんぬ。長坂方に懸けんと欲す。更に帰り勢多手に加わらんが為、東に赴くの間、阿波津野の辺に於いて打ち取られをはんぬと。東軍の一番手、九郎の軍兵加千波羅平三と。その後、多く以て院の御所の辺に群参すと。法皇及び祇候の輩、虎口を免がれ、実に三宝の冥助なり。凡そ日来、義仲が支度京中を焼き払い北陸道に落つべし。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身梟首せられをはんぬ。天の逆賊を罰す。宜しきかな。義仲天下を執るの後、六十日を経る。(藤原)信頼の前蹤(ぜんしよう、平治の乱のときのこと)に比べ、猶その晩(おそ)きことを思う。」(「玉葉」同日条)。


つづく


今日 Twitter 日本法人を解雇された皆さんへ #OneTeam ;「これは不当解雇であり、法廷で争うべきことです。労働者の庇護が日本ほど手厚くないアメリカでも、訴訟が起こっています。」 / マスク氏の大規模解雇でツイッター混乱 社員提訴 広告主も撤退(毎日) / Twitter社員「時代のおしまい」 解雇開始、日本でも(日経) / 米ツイッター、大量解雇始まる 企業に広告休止の動きも(時事) / ツイッター買収のマスク氏 全従業員の半数を解雇 対象社員にメールで通知(テレ朝) / マスクがTwitterの所有者になってからマーケティング部門責任者、顧客担当部門責任者、中核技術部門責任者、商品部門責任者らが辞任したほか、世界第5位の広告代理店、IPGが顧客にTwitterでの広告出稿を一時停止するように勧めました。、、、Twitterはエグゼクティブリーダーのほぼ全員を失ったことになります / 「陰謀論」早くもTwitterで拡散 買収劇のイーロン・マスク氏、数時間後に削除 ペロシ下院議長宅襲撃事件めぐり(東京) / トランプ氏「ツイッターは私なしでは成功しない」(テレ朝) / トランプ前米大統領が、イーロン・マスク氏による米ツイッター買収を歓迎しました。マスク氏は、アカウントが凍結されたトランプ氏のツイッター復帰を容認する考えを示しており、実現すれば、2024年の米大統領選などに影響を及ぼす可能性がありそうです / マスク氏解任のツイッター幹部3人、解職手当は総額1.22億ドル=調査会社(ロイター) / イーロン・マスクがツイッターを買収後、人種差別や反ユダヤ主義、LGBT差別、女性差別などのツイートが急増。買収成立後から12時間の間に、N-Word(黒人差別用語)を含むツイートは500%近く増加 / イーロン・マスク氏がツイッターの買収を完了し、CEOらを解雇したとのこと。今後、ツイッターの方向性が大きく変わることになると思います(尾形聡彦) / マスク氏、ツイッターを「参加自由の地獄絵図」にはできない(ブルームバーグ)      

 

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2022年10月30日日曜日

〈藤原定家の時代164〉寿永3/元暦元(1184)年1月20日(②) 延慶本『平家物語』(「宇治川先陣」)に見る宇治川合戦

 

『宇治川合戦図屏風』 東京富士美術館蔵

寿永3/元暦元(1184)年

1月20日(②)

〈延慶本『平家物語』(「宇治川先陣」)に見る宇治川合戦(史実ではない)〉

前年(寿永2年)11月20日辰刻(午前8時前後)、関東軍は軍兵6万余を二手にわけ、範頼を大将とする3万5千余騎が瀬田へ、義経を大将とする2万5千余騎が宇治に向かった(軍勢の数は誇張されている)。なお、延慶本・覚一本共に、義経・範頼は鎌倉から進軍して、義仲が平等院に立てこもったという噂を聞き、義経は範頼と分かれて伊賀方面から宇治に向かったことになっている。しかし、実際は、義経は伊勢に滞在していて、伊賀を経て宇治に向かった。

一方の義仲の軍勢は分散していた。樋口兼光は行家を攻めるために500余騎で河内に向かっており、今井兼平は500余騎で瀬田に、志太義広は300余騎で宇治に向かった。京都に残る義仲の軍勢は100騎に過ぎず、火急の場合は、後白河を具して西国に向かう準備をしていた。

兼平と義広は、それぞれ瀬田川・宇治川の両方に掛かる橋の橋桁を引き、向こう岸には、乱杭を打ち、大綱を張り、逆茂木(さかもぎ)を繋いで流し掛け、関東軍を待った。橋桁を引くとは、橋桁に渡されている板を外して、橋を通行不能にすることで、外された板は楯としても利用された。乱杭は、川底に不規則に杭を打つことで、さらに杭には綱を張り巡らす。それが大綱であり、小網もある。逆茂木は棘のある樹木を束ねたもので、それを杭に繋いで水面に漂わせる。

これらは、大河を隔てた対戦では当時ふつうに行われていた防衛処置で、いずれも敵の軍勢、特に騎兵の進行を阻止するためのものであった。騎兵主体であったこの頃の戦闘は、敵の騎兵の進行を阻止することが防衛のためには重要であった。

陸上戦では、楯を何枚も並べ連ねた掻楯(かいだて)や逆茂木・堀(空堀)・土塁・柵などが設置された。こうした敵の騎兵の進行を阻止するための施設や設備に、敵に矢を射掛けるための櫓(やぐら)などを設置した臨時の防衛施設のことを当時は城郭といった。したがって、治承・寿永期の城郭は近世城郭のような堅固なものではない。騎兵主体の戦闘では堅固な常設の城郭は必要ない。そして、こうした臨時の防衛施設を設置するために、また攻撃側はそうした施設を破壊するために、非戦闘員である工作員などが必要となってくる。

当時の騎兵は弓箭(ゆみや)を佩帯(はいたい)し、それを主要兵器とする騎兵である。

義経軍は宇治川に臨んだ。しかし、宇治川は防衛施設が施されていただけでなく、おりしも水かさが増していた。また川端は狭く、2万5千余騎の軍勢のすべてが川に臨めなかった。そこで、義経は、「雑色(ぞうしき)」や「歩行走(かちばしり)ノ者」達を集め、軍勢すべてが川に臨めるように、川端にならぶ300余の民家を、家財を取り出させたうえで焼き払うことを命じた。これにより、老人・女性・子供・病人などの逃げ遅れたり、動けない者が焼け死んだという。

様々な目的で戦場周辺の民家を焼き払うという行為は珍しいことではなかったらしい。治承4年12月、南都攻めの重衡は、夜中の明かりを求めて周辺の民家を焼き払わせた。その火が折からの強風に煽られて興福寺や東大寺に引火し、南都焼き討ちという結果となる。また、覚一本(巻9)によれば、義経は、一ノ谷合戦の前哨戦の三草山合戦では、平氏軍を夜襲する際に、重衡と同じく明かりを求めて進軍路に沿った民家を焼き払っており、「三草山の大松明」として有名。屋島合戦でも、屋島の対岸の牟礼・高松の民家を焼き払ったことは延慶本・覚一本(巻11)にも『吾妻鏡』文治元年(1185)2月19日条にもみえる。

民家を焼き払い、川端が広くなったところで、義経は高い櫓を作らせ、そこに登って軍勢に指示を与えた。まず軍勢のなかの「水練(すいれん)」・「河立(かはだち)」・「潜(かづき)」の上手に、「セブミ(瀬踏)」をして、川の状態を知らせる(河の浅瀬や水流の穏やかな箇所を探る)ことを促した。更に、瀬踏をする者は裸で無防備なので、敵の攻撃を逸らしてかれらを守り、自由な瀬踏を行わせるために、橋桁を外した橋を渡る者を募った。

まず、平山季重(すえしげ)が馬を下り、橋桁を渡った。続いて佐々木定綱・渋谷重助(しげすけ)・熊谷直実・直家親子の4人がこれに続いた。

敵はかれらに対して「入江ノ葦刈ガアシヲタバネテツクガゴトシ」(延慶本)と矢を射掛けてくる。季重等5人は橋を渡るのに精一杯で反撃はできない。しかし、かれらは甲胃で身を守り、ほどなく対岸に辿り着き、反撃を開始した。義仲の郎等藤太左衛門兼助(とうたざえもんかねすけ)が射落とされたのを皮切りに次々と射られていく。

こうして敵が橋を渡った者達を相手にしている間に、義経側の水練のうち「天下一ノ潜ノ上手」という佐々木の都等鹿嶋与一が水中に潜り、敵の乱杭や逆茂木を取り除き、大綱・小網を切断した。

これで、渡河の準備は整ったが、積極的に渡河しようとする者がいない。そこに畠山重忠が進み出ると、次々と進み出る者が現れた。そうしたなかで飛び出しのは梶原景季と佐々木高綱であった。両人は鎌倉を発つ前に頼朝からそれぞれ薄墨、生飡(いけずき)という名馬を賜っていた。景季も生飡を所望したが適わず、高綱に与えられた。その生飡で川を渡り、先陣を取ったのは高綱であった(宇治川先陣争い)。

かれらに続いて全軍が川に入った。このように騎兵が集団で渡河することを「馬筏」というが、延慶本では、馬筏で渡河する際に敵から射掛けられる矢に対する防御の方法とか、渡河中の馬の扱いなどについての心得を、先陣を行く高綱が全軍に下知する。

こうして義経軍は馬筏で宇治川を渡った。義仲軍もさかんに矢を射掛けてくるが、多勢に無勢、義仲軍は崩れて京都の方へ落ちていく。それを追い、義経軍も入京する。


つづく


2022年10月29日土曜日

鎌倉散歩 若宮大路のイチョウ 鶴岡八幡宮の源氏池・平家池 2022-10-29

 10月29日(土)

土曜日、好天、七五三お祝い、、、と条件が重なった今日の鎌倉。覚悟して出かけたものの、スゴイ人出だった。何よりも、往復の横須賀線、座れないのにゲンナリ。歳のせいかな!

気持のいいお天気だったですよ。

▼二の鳥居前、ホテルメトロポリタンまえのイチョウ




▼鶴岡八幡宮 源氏池、平家池


▼いよいよシーズン最後のハイビスカスかな。今日は二つ咲いてくれた。

「戦前日本の映画検閲―内務省切除フィルムからみる―」(国立映画アーカイブ) / 『サイレント・カット場面集 邦画』 / 『サイレント・カット場面集 洋画』 / 『落花の舞』[前・中・後篇]検閲切除場面       

 

自民の要求首相丸のみ 官邸「拒めば政権が沈みかねない」 経済対策、一夜で4兆円積み増し(西日本新聞) ← 政権維持しか頭にない! / 岸田首相に萩生田政調会長が高級ステーキ店で直談判「経済対策は党主導で」目論む“旧統一教会問題”からの信用回復(FLASH) / 「禁じ手には禁じ手で返した」経済対策決定の裏側 自民・萩生田氏:朝日 / (社説)経済対策決定 財政規律の喪失を憂う(朝日);〈次世代に借金を押しつける無責任さに愕然とする。東日本大震災後でも補正は10兆円台。感染拡大を防ぐため「例外中の例外」だった昨年度の規模を維持しては理屈が立たない。政策の優先順位や将来負担を脇に置き、膨らませれば支持が得られるとの発想なら次元の低さに呆れる〉                       



 

〈藤原定家の時代163〉寿永3/元暦元(1184)年1月15日~20日 義仲、征夷大将軍に任命 行家、反義仲挙兵するも、義仲が派遣した樋口兼光に敗れる 宇治川合戦(義仲、義経に敗れ、勢多へ敗走)      

 



寿永3/元暦元(1184)年

1月15日

・源義仲、征夷大将軍に任命される。この間、義仲軍より行家が離れ、源氏では信太義広のみとなる。

1月16日

・義仲が近江に派遣した郎従の報告では、「敵勢数万に及ぶ、あへて敵対に及ぶべからず」と(「玉葉」)。都は大騒動となる。13日には「九郎の勢僅か千余騎」という報告であった。新手の範頼軍や「武田の党」の一条忠頼(武田信義の子)などが加わっている。義経軍も、伊勢の平信兼、伊賀平氏の支援、安田義定などの軍事貴族が参加し強化されていた。

「去る夜より京中鼓動す。義仲近江の国に遣わす所の郎従等、併せて以て帰洛す。敵勢数万に及び、敢えて敵対に及ぶべからざるの故と。今日法皇を具し奉り、義仲勢多に向かうべきの由風聞す。その儀忽ち変改す。ただ郎従等を遣わし、元の如く院中を警固し祇候すべし。また軍兵を行家の許に分け遣わし追伐すべしと。凡そ去る夜より今日未の刻に至るまで、議定変々数十度に及び、掌を反すが如し。京中の周章喩えに取るに物無し。然れども晩に及び頗る落居す。関東の武士少々勢多に付くと。」(「玉葉」同日条)。

1月16日

・源行家、和泉で反義仲の挙兵。河内石川城へ拠る。義仲、樋口兼光600余を河内に派遣。19日、石川城攻め落とされ、行家は敗走(高野に逃亡)。

兼光は、京都に戻る途中で義仲が上洛軍に討たれたことを聞き、義経に降参。兼光の降参は、配下にいた武蔵国の豪族庄四郎高家が義経の軍勢に属した兄弟と話し合って実現した(『平家物語』)。兼光の軍勢に属した信濃国の千野光弘は降参に応ぜず、武門の名誉を重んじた死の前進を選び、義仲滅亡後の京都に向かって軍勢を進める。

1月17日

・廣常弟の天羽庄司上総直胤・千葉常清、復権(「吾妻鏡」)。

1月19日

・義仲軍は、樋口次郎兼光が行家攻撃のため河内出陣とはいえ、入洛時5万の兵は僅か1千程となる。義仲は、近江勢多(今井四郎兼平7~800)・宇治(根井小弥太行親・楯親忠・進親直・志太義広・楯親忠500)・淀(信太義教300)に派兵。法皇御所(五条内裏)警備は那波弘澄100。

平信兼や伊勢の在地武士の援軍を得た義経軍は、1月半ばに京に向けて進軍開始。

総大将範頼(大手軍3万5千余又は8千、武田信義・千葉常胤)、美濃から琵琶湖沿いに近江・瀬田川から京を攻める。

搦手義経・中原親能(搦手軍2万5千余又は1千、安田義定・佐々木高綱・梶原景時)、伊勢国鈴鹿郡から加太(かぶと)越えで伊賀国柘植・倉部に進み、そこから大和街道本道に入り、伊賀上野を通り、南山城から北上する計画(まず、後白河と後鳥羽の身柄の確保を目的とする)。(『源平盛衰記』巻第35「義経範頼京入」)

このルートは、伊賀国北部に展開する小松家家人の平田家継(平貞能の兄)の勢力圏を通っており、家継が義経軍に参加したかどうかは定かではないものの、義経の進軍を支援したことは確実である。

1月20日

・宇治川合戦。義仲軍、宇治川を要害にして、橋板を外し、川綱を張るが破られる。

『平家物語』による(史実ではない)

義経に従う大将軍は安田義定・大内惟義、侍大将は畠山重忠、長野重清、三浦義連、梶原景時・景季、熊谷直実・直家、佐々木高綱、渋谷重助(重資)、糟谷(糟屋)有季ら。義仲軍は宇治川の橋を引いて岸に乱杭をうち大網を張って逆向木を繋いで迎撃。義経は、川岸が狭いため川端の在家を焼払う。ついで、矢倉を作りそれに乗り、先陣きった者は鎌倉殿に注進すると告げる。佐々木高綱と梶原景季の先陣争い。

雪解けで急流の宇治川。畠山重忠が先陣を受けるが、梶原景季・佐々木高綱が先陣争い。畠山隊が義仲軍の川岸の太網を切り渡河を助ける。畠山重忠、途中自分同様、馬を射られた烏帽子子の大串重親を岸に投げ上げ救う。

義経(26)、入京。

義経軍は、宇治川を突破し、梶原景時の部隊が一番手となり大和大路から京中に進入、六条河原に向う。木曽四天王根井行親、六条河原で討死。

義仲は、瀬田・宇治川に、また行家に対応するため河内に兵を派遣しているので都の軍勢は僅か。義仲は、院御所(六条殿)に向うが、義経軍(範頼、義経、河越重頼・重房、佐々木高綱、畠山重忠、渋谷重国、梶原景季ら)が来襲。御所を警固する。

読み本系の『平家物語』は、義仲最期の日の松殿姫君との別離を伝えている。義仲は、権門の女性を正室に求めていたところ、松殿姫君(基房の娘)を見染めて強引に聟になったと伝えられる。

義仲は、越後中大家光(ちゆうだいいえみつ)が宇治が破られて義経の軍勢がせまっていると進言しても、松殿姫君の側を離れようとしなかった。このままでは敵中に取り込められると家光が自害して諌めたことでようやく、今井兼平と合流すべく瀬田をめざして進む決意をした。義仲が向かう先には、兼平を追撃する範頼の率いる上洛軍本隊がいた。

義仲は、院御所となっていた六条西洞院の平業忠邸(六条殿)に赴いて後白河院を連行しようとするが、ここにも鎌倉の軍勢は進軍しており、義仲に攻めかかる。義仲は、六条河原と三条河原の間で、攻撃をかわしながら鴨川を渡り、栗田口を抜け、松坂を越え、四の宮河原に落ち延びる。この時、義仲主従は12騎。    

一方、瀬多で範頼軍に大敗した今井四郎兼平50騎は、琵琶湖畔打出ヶ浜に辿り着く。義仲もまた打出ヶ浜に辿り着き、ここで兼平と再会。兼平が軍旗を掲げると、そのうち木曾の兵300が集結し、義仲は一条忠頼(甲斐源氏)6千・土肥実平軍2千に最後の戦いを挑む。乱戦の中、木曾の兵は次々と討たれ、手塚光盛も討死、7騎で近江に入った所で、義仲は最後まで随従した巴御前を、本国に最後の状況を伝える使者とするため、戦場から落ちさせる(読み本系『平家物語』は松殿姫君との別れの場面が詳しく、語り物系『平家物語』は巴との別れが詳しい)。


つづく


ちょうど5年前、米時間10月28日午後(日本時間29日未明)、匿名掲示板4chanに「名無し」が1件の書き込みをした。《ヒラリー・クリントンは逮捕される》という内容だった。 この投稿者はあがめられ、陰謀論が世界を席巻した。「Qアノン」誕生から、きょうで5年。Q現象がすたれる気配は、いまだにない。 / 「Q」の起源については、こちらで全文を読むことができます。何度でもくり返しますが、Qがうまれた掲示板4chanは日本にルーツがあります。 4ちゃんはまた、17年10月当時も現在も、日本人がオーナー兼管理人です。それは何度でも、これからも強調したいと思います。 (藤原学思)    

 

2022年10月28日金曜日

立憲と維新の幹部が連携強化で一致 すき焼き店で語った「共闘」の夜(朝日) / 立憲・泉代表「維新はガチガチの改憲勢力とは思えない」(朝日)/ もう、過去のことは水に流そうということ? → 立憲民主党は日本に絶対必要ない!馬場伸幸(日本維新の会幹事長) / 「立民は 北朝鮮の 工作員」(足立康史)      

小平奈緒「五輪を利用されたくない」札幌五輪招致活動への参加要請は”辞退”(中日);「スポーツの純粋な楽しさをもう一度、考えたいと思っているので」 「オリンピックがスポーツをする人にとって必要なものであってほしい。それを利用されたくない」

市議選のライバル候補に“成りすまし” 旧統一教会との関係記したビラ配る 女性市議を警察が事情聴取 福岡(TBS)/ 日本維新の会に所属する堀本和歌子市議  ビラには「旧統一教会の式典で日韓トンネルへの賛意と祝辞を述べた」と書かれ、動画が視聴できるようQRコードも掲載されていました          

 

〈藤原定家の時代162〉寿永3/元暦元(1184)年1月5日~13日 平家・義仲和議成立の噂 義仲が後白河を奉じて北陸へ下向するとの噂 数でまさる平氏の軍勢   

 



寿永3/元暦元(1184)年

この年

・この年、藤原定家の最初の子定継(後の光家)、誕生。母は藤原季能の女。

・京中に群盗横行。

1月

・この頃、源(久我)通親、高倉範兼娘・高倉範季養女・後鳥羽天皇乳母の範子を側室とする(続いて前摂政松殿師家の姉で木曾義仲の側室であった藤原伊子を側室に迎える)。範子は法勝寺能円法印の妻だが、能円が平氏と共に西下したので、後鳥羽天皇養育を理由に離縁、通親と結婚。天皇の乳母と結婚した通親は乳父という権威を得て、天皇の後見にあたる。一方で、法皇近臣の立場を確立し新元号「元暦」選定などで、平家や義仲によって失墜させられた後白河院政の再建を担う。
通親は範子の連れ子の姉を後鳥羽天皇の宮中に入れ(承明門院、土御門天皇の母)、妹(按察局信子)を次男の通具の妻とする。通親との再婚後、範子は通光・定通・通方などを生む。

・絵師藤原為久、鎌倉へ赴き、4月、勝長寿院に聖観音像を描き、8月、帰京。
・平家、福原に本拠構築。
大手口(東):生田森(平知盛、平重衡)。搦手口(西):一ノ谷(平忠度)。山手口(北):夢野(平通盛、平教経、業盛)。長田奥古明泉寺、平盛俊。計6~7千余。

1月5日
・兼実、源雅頼からの情報として、範頼率いる上洛軍が墨俣川を渡ったことを聞く(「玉葉」)。義仲は警備の軍勢を墨俣川に派遣しているので、いよいよ義仲と頼朝の両軍が接敵した(「吾妻鏡」)。
1月8日
・義仲、坂東武士が美濃・伊勢に到着との報をうけ兵を派遣。

1月9日
・平家と源義仲和議成立の噂(「玉葉」)。

「伝聞、義仲と平氏と和平の事すでに一定す。この事去る年秋の比より連々謳歌す。様々の異説有り。忽ち以て一定しをはんぬ。去年月迫の比、義仲一尺の鏡面を鋳て、八幡(或る説熊野)の御正体を顕し奉る。裏に起請文(仮名と)を鋳付けこれを遣わす。茲に因って和親すと。」(「玉葉」同日条)。
1月12日
・義仲が後白河院(58)を奉じて北陸へ下向するとの伝聞(「玉葉」)。
「伝聞、平氏この両三日以前使を義仲の許に送りて云く、再三の起請に依って、和平の儀を存ずるの処、猶法皇を具し奉り、北陸に向かうべきの由これを聞く。すでに謀叛の儀たり。然れば同意の儀用意すべしと。仍って十一日の下向忽ち停止す。今夕明旦の間、第一の郎従(字楯と)を遣わすべし。即ち院中守護の兵士等を召し返しをはんぬと。」(「玉葉」同日条)。

「今日払暁より未の刻に至り、義仲東国に下向の事、有無の間変々七八度、遂に以て下向せず。これ近江に遣わす所の郎従飛脚を以て申して云く、九郎の勢僅かに千余騎と。敢えて義仲の勢に敵対すべからず。仍って忽ち御下向有るべからずと。これに因って下向延引すと。」(「玉葉」同13日条)。

「或る人云く、関東飢饉の間、上洛の勢幾ばくならずと。実否知り難きか。申の刻、人伝えて云く、明後日義仲法皇を具し奉り、近江の国に向かうべしと。事すでに一定なりと。」(「玉葉」同14日条)。

1月13日
・平氏から義仲へ、軍勢を上洛させるには三つの課題があると提示。
①義仲が後白河院を伴って北陸に移動するという噂は本当か、②丹波国で平氏の軍勢と義仲の郎党との間で小競り合いがあったので軍勢の移動の安全を図るよう徹底すること、③行家が渡辺(大阪市)で一矢を射るべく用意をしているとの風間があるので対処してほしい。

義仲は、①については、噂はあるが、そのようなことは考えていないと伝える。②は、平氏との境界線にいる家人が状況を把握していなかっただけなので、連絡すれば済む。③に対し、義仲は正月17日に樋口兼光に行家の籠る石川城(大阪府河南町)を攻めることを命じ、500騎の軍勢を派遣。この軍勢は石川城を攻め落とすが、義仲最期の日に合戦の圏外にいることになる。行家の挙兵は、義仲の軍勢を分散させたことで、後白河院に対して貢献したことになる。

義仲が本気であることを確認した平氏は、安徳天皇の御座所を屋島から福原旧都に移すべく行動した。ところが、頼朝のもとに参陣したいと考えている阿波・讃岐の在庁宮人などが淡路を拠点に、頼朝の叔父義嗣・義久を大将として反平氏の兵を挙げた(『平家物語』)。

平氏は備前国下津井(倉敷市)にいた敦盛・通盛・教経など門脇家の軍勢を派遣してこれを鎮圧。これに続いて、西国各所で反乱が続き、平氏はその都度軍勢を派遣して転戦した。『平家物語』が教経の武勇を記す「六箇度合戦」の一段である。

平氏が一ノ谷に軍勢を集めたことでおこった西国の反乱を鎮圧している間に、義仲は頼朝の上洛軍に攻め滅ぼされてしまった。
〈この頃の平氏の状況;数でまさる平氏の軍勢〉

平氏が勢力圏として確保しているのは、山陽道の播磨・美作・備前・備中・備後・長門・周防の七ヵ国、山陰道の伯耆・出雲・石見、南海道の阿波・讃岐・土佐、九州の豊前・肥前・肥後といった国々。対馬国は国守中原親光が頼朝の重臣大江広元・中原親能の縁者であることから、平氏襲来の噂だけで高麗に亡命したが、平氏は軍勢を進めなかった。南九州も、豪族間対立による国衙襲撃事件(阿多忠景の乱)などはあったが、平氏は軍勢を派遣しなかった。平氏は瀬戸内海を囲む地域を中心に勢力圏を築いていた。

一方、追討使は、義仲追討のために上洛した範頼・義経が鎌倉から率いてきた軍勢、朝廷に仕えているので京都を支配する者に従う人々の率いる軍勢、追討使の権限で畿内諸国の国衙を通じて集めた軍勢である。これらを合わせても、平氏の軍勢には及ばなかった。兼実は「関東飢饉の間、上洛の勢幾ばくならず」(「玉葉」)と記している。頼朝の命令なので、有力御家人は上洛したが、連れてきた郎党が少ないということである。


つづく

2022年10月27日木曜日

大船フラワーセンター 明日(10/28)から菊花大会 秋バラ ススキ センジュギク フユザクラ サザンカ シュウメイギク デュランタ コスモス(どんどん花の数が増えて元気) 2022-10-27

 10月27日(木)、晴れのち曇り

大船フラワーセンター。

コスモスが依然元気。まだどんどん花の数を増やしている。残念なのが秋バラ。気のせいかな、枝ぶりが貧弱でさびしいように見える。

▼明日(10/28)から菊花大会 写真は準備中の菊


▼秋バラ 上が「春の舞」、下が「トーナメント・オブ・ローゼス」



▼ススキ

▼マリーゴールド、と思ったが、グーグル・レンズはセンジュギク(アフリカンマリーゴールド)だと教えてくれている。

▼フユザクラ

▼サザンカ(七福神)

▼シュウメイギク

▼デュランタ(青)

▼コスモス



ふざけるな! 政府税調「消費税増税」大合唱の不可解 日本だけ物価高に苦しむ庶民に追い打ち(日刊ゲンダイ); 「政府税制調査会」で、複数の委員から「消費税率をアップすべき」との意見が相次ぎました。庶民が生活苦に喘いでいることも知らないのでしょうか。本来、国民生活を守るために消費税は「増税」ではなく「減税」するのが当たり前なのでは?     

〈藤原定家の時代161〉寿永2(1183)年12月19日~25日 定家(22)正五位下叙任 広常誅殺(粛清①)「双六うちて、さりげなしにて盤をこへて、やがて頸をかいきりてもちきたりける。まことしからぬ程の事也。」(「愚管抄」) 平家の京都奪還が現実味を帯び始めてくる       


 〈藤原定家の時代160〉寿永2(1183)年12月1日~10日 義仲、院御厩別当に就任 「義仲使を差し平氏の許(播磨の国室泊に在りと)に送り和親を乞う」(「玉葉」) 「南海・山陽両道大略平氏に同じをはんぬと。また頼朝と平氏と同意すべしと」(「玉葉」) 義仲、頼朝追討使に任命される より続く

寿永2(1183)年

12月19日

・藤原定家(22)、八条院の年給により正五位下に叙任。

12月22日

・西国出撃遠征拒絶論掃討(粛清①)

有力御家人(三大功人の一人)上総権介広常、大倉御所に出仕し、双六に事寄せ、朝の密命受けた梶原景時により誅殺。広常嫡男能常、自殺。広常旗下の周西助忠など上総伊南・伊北・庁南・庁北・周東・周西の武士達は御家人となる。翌年1月8日、上総一宮奉納の甲の願文で上総広常の忠誠心が明らかになる。

「その介の八郎を梶原景時してうたせたる事、景時がかうみやう云ばかりなり。双六うちて、さりげなしにて盤をこへて、やがて頸をかいきりてもちきたりける。まことしからぬ程の事也。」(「愚管抄」)。

「まことしからぬ程の事也。」; 本当にあった事とは思えないほどだ。

広常の言葉、「なんでう朝家の事をのみ身ぐるしく思ぞ、ただ坂東にかくてあらんに」(「愚管抄」)。王朝側との関係修復への転換をめざす頼朝の政治方針は、広常にとっては東国の実力占拠を放棄した中央への屈伏とみえる。この前後、寿永2年の宣旨・治承年号の放棄など、この時期、頼朝は簒奪による反乱政権の限界を感じ、王朝への歩み寄りを始める。

建久元年(1190)上洛した頼朝が後白河に語った事として『愚管抄』が記す。

「広常は東国きっての有力者で、頼朝にとって功績ある者だったが、何かというと、頼朝はどうして朝廷や王家のことばかりみっともなく気にするのだ、ただわれわれが坂東でこうしてやっていこうとするのを、いったい誰が「引はたらか(力を及ぼ)」すことができるというのか、などと放言するような「謀反心」を持つ者だったので、かようなものを郎従にしておれば、頼朝まで神仏の加護を失うことになると思って殺した」

12月24日

・この日、兼実のところに大外記(げき)清原頼業(よりなり)が来て、世事を語りあった。外記は太政官の事務部門の一局、議政官の書記役で、詔書の検討、奏文の作成、公事・儀式への奉仕などをつかさどり、大外記はその長である。

頼業は安徳天皇が京都に還ってきたら、現在の後鳥羽天皇はどうなるのでしょうか、ことによると六条天皇のような形になるのでしょうかと問う。六条は20年近く前の永万元(1165)年6月、父二条天皇の病による退位をうけて2歳で即位した天皇で、仁安3(1168)年2月には、位を後白河上皇の皇子憲仁親王(高倉天皇)に譲って上皇になった。滋子を母とする皇子を即位させるためであるが、後白河からいうと天皇(高倉)は子(8歳)で上皇(六条)は孫(5歳)という例のない変則な事態であった。頼業は、兄の安徳が復帰すれば、弟の後鳥羽は数カ月の在位で、元服の式もないまま放置され13歳で亡くなった六条同様、まったく実権のない上皇に追いやられるのでは、と観測した

こういう話題が出るのは、平家の京都奪還が現実味を帯び始めた証拠。

のちに捕虜となった重衡は、尋問を受け平家は兼実が「天下を知る(治める)べきの由」を決めていたと述べている(『玉葉』元暦元年2月19日条)。平家が天下の権を奪回した時は、兼実を幼主安徳の摂政とする天皇親政、つまり後白河を治天の君から追放する政権構想を固めていたことを意味する。

12月25日

・藤原定家(22)、賀茂臨時祭舞人を勤仕。


つづく


岸田内閣「更迭候補33人」疑惑底なし!旧統一教会問題ノーマークの大串副大臣から始まる“辞任ドミノ”(日刊ゲンダイ) / 山際経済再生相“更迭”で始まった岸田内閣の辞任ドミノ…次にクビになるのは「この大臣」(日刊ゲンダイ);「野党が真っ先にターゲットに挙げるのは、親族を通じた政治資金還流が取り沙汰される秋葉復興相だ…寺田総務相にも同様の脱税疑惑が浮上…「教団との関係の説明責任を果たしていない点では、細田衆院議長も萩生田政調会長も“同罪”です」」    

大阪万博の「闇」第4回 「ホンマにやりたい放題や」…関係者も呆れる「大阪万博」の理解しがたい実態  / 第3回 「大阪万博」が汚れた東京五輪の二の舞に…シャワーヘッド「ミラブル」を売る新興企業の正体 / 第2回「大阪万博・大阪パビリオン」プロデューサーの顧問先企業が”最高位”スポンサーに決定した「不可解」 / 第1回 「大阪ワクチン」失敗のお騒がせ男が、「大阪万博」総合プロデューサーになっていた! (森 功, 週刊現代)   



 

2022年10月26日水曜日

杉田政務官 総務省の中傷対策「知らない」と唖然の答弁連発「資格も資質もない」と怒りの声(女性自身) / 杉田水脈・総務政務官、総務省のSNS誹謗中傷対策「存じ上げない」(毎日) / 杉田水脈政務官、初答弁で「控えたい」繰り返す 過去の発言や判決に(朝日) / 杉田水脈氏、中傷ツイートに「いいね」で名誉毀損判決 総務政務官続投でも「いいね」なの?(東京) ← 任命責任も問われるべき / 杉田水脈議員が敗訴 高裁で「いいね」が名誉感情を害する意図があると認められた理由(小川たまか) / 伊藤詩織さんに「女として落ち度」 杉田水脈氏の差別発言の数々(毎日) / 伊藤詩織さん「指先一つでどれだけ傷つけるか、深く受け止めて」杉田議員に逆転勝訴、ネット中傷への心情明かす 杉田水脈議員の事務所は判決を受け、「原審と異なる判断をされたことから、判決内容をよく精査し、対応を検討します」とのコメントを出した。(ハフポスト日本版) / 中傷投稿「いいね」、名誉侵害 伊藤さん逆転勝訴、杉田氏賠償―東京高裁(時事); ジャーナリストの伊藤詩織さんが、ツイッター上で自身を中傷する多数の投稿に「いいね」を押され、名誉を傷つけられたとして、自民党の杉田水脈衆院議員に損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は請求を棄却した一審判決を変更し、杉田氏に55万円の賠償を命じました。 / 岸田さんが総務政務官に任命した杉田水脈議員 / 「『枕営業の失敗』などとする複数の匿名の投稿がされた。杉田議員は18年6~7月、こうした投稿25件に『いいね』を押した」   


 

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七里ヶ浜からの富士山 2022-10-26

 10月26日(水)

七里ヶ浜からの富士山(午後1時頃)。

昨日は、かなり下の方まで雪が積もった富士山だったが、今日はだいぶ解けたようだ。


▼風が強い割に波の静かな海だった。



▼行合橋と江ノ電

▼インスタグラム(駐車場から見た富士山)

旧統一教会との「関係を断つ」盛り込まず 自民党の行動指針改定はあいまい表現、統一地方選でも抜け道(東京);「立候補者の公認などは「各都道府県連が指針に基づいて判断することになる」(党幹部)見通しだ。事実上、地方組織に丸投げする形で、東海地方の自民党市議は「地方議員の中には現役の信者と思われる人物もいる。何かがあった時、党本部に責任が飛び火しないよう予防線を張ったのでは」と話す。」   

年金“65歳まで納付”に?5年延長で負担100万円増 「信じられない」「諦めの境地」と不安の声…老後の暮らしどう守る(FNNプライムオンライン) / 年金保険料「納付5年延長」の衝撃! 1人100万円の“大増税”を国民に押し付け、給付はケチる(日刊ゲンダイ); 厚労省が社会保障審議会の年金部会で、国民年金保険料の納付期間を、現行の20歳から59歳までの40年間から、64歳までの45年間に延長する議論をスタートさせました。 年間約20万円、5年間で約100万円も国民の負担が増えることになります       

 

〈藤原定家の時代160〉寿永2(1183)年12月1日~10日 義仲、院御厩別当に就任 「義仲使を差し平氏の許(播磨の国室泊に在りと)に送り和親を乞う」(「玉葉」) 「南海・山陽両道大略平氏に同じをはんぬと。また頼朝と平氏と同意すべしと」(「玉葉」) 義仲、頼朝追討使に任命される             

 



寿永2(1183)年

12月

・大江広元、鎌倉へ下向。

大江広元:

文官貴族の家に生れる。中原親能(後白河院と頼朝の交渉使者)の弟。若い頃、外記局最高責任者・大外記清原頼業の補佐をする。

清原頼業:

清少納言の家系。藤原頼長に認められ、大外記・明経博士・高倉天皇侍読となる。後白河院・平家に批判的で九条兼実とは意気投合。

12月1日

・義仲、院御厩別当(いんのみうまやのべつとう)に就任。院御厩に集まる馬は宮廷儀礼や神事のために諸国から献上された儀礼用の馬であったが、義仲は軍馬の入手先として強引に要求。

12月2日

・義仲、摂関家領のうち85ヶ所を、5日には平家領全てを管領することを認めさせる。

「一所の御庄々八十五所、義仲これを申し給う。前の摂政御家領(高陽院・京極殿已下すでに多し)、元の長者に付けず。所々押し籠め御沙汰有りと。」(「吉記」同日条)。

「伝聞、義仲一所を賜い八十六個所を領すと。また新摂政政所始め去る二十八日と。」(「玉葉」同3日条)。

12月2日

・軍事的に劣勢となり、頼朝と平家に東西から挟撃され苦境に立った義仲は、翌年正月中旬まで、平家との間に和平の途を模索する。京都では平家入京近しの噂が頻々と流れた。いったんは義仲は後白河を平家に預け近江に下って頼朝軍を迎撃、平家は寿永3(1184)年正月13日に入京するという合意が成立したが、義仲が後白河を連れて本拠の北陸に下ると聞くに及んで、ご破算になる。

〈平氏の勢力恢復  前進基地一ノ谷陣地を構築〉

平氏側は、義仲の使者を播磨の室泊で迎えている。平氏は次第に勢力を恢復して、瀬戸内海沿岸を東に進み、諸処の要地を支配下に入れながら、寿永2年(1183)末頃には、播磨から摂津にまで、その勢力を及ぼして来ている。そして、京都を舞台に源氏同士の争いが展開されている間に、摂津の福原に前進基地の構築をすすめていた。いわゆる一ノ谷陣地である。

「伝聞、義仲使を差し平氏の許(播磨の国室泊に在りと)に送り和親を乞うと。また聞く、去る二十九日平氏と行家と合戦す。行家軍忽ち以て敗績し、家子多く以て伐ち取られをはんぬ。忽ち上洛を企つと。また聞く、多田蔵人大夫行綱城内に引き籠もる。義仲の命に従うべからずと。」(「玉葉」同日条)。

「平氏一定入洛すべしと。行家去る二十八日合戦の由、世ニ嗷々す。」(「吉記」同3日条)。

12月5日

「伝聞、平氏猶室に有り。南海・山陽両道大略平氏に同じをはんぬと。また頼朝と平氏と同意すべしと。平氏竊に院に奏し可許有りと。また義仲使を差し同意すべきの由を平氏に示すと。平氏承引せずと。」(「玉葉」同日条)。

12月7日

・義仲は、近江・伊勢まで軍勢を進めた頼朝と戦うべく覚悟した時から、平氏と和平を結び、平氏の軍勢を京都に迎え入れて連合することを考えるようになった。九条兼実や吉田経房の掴んでいた情報から、平氏がこれを京都に帰るひとつの方法として、最大限に利用しようと交渉していたことがわかる。この日、平氏は義仲の提案を無下に却下せず、上洛を視野に入れた交渉に入ったと伝える情報が京都に流れている(『玉葉』)。

12月8日

「亥の刻に及び、或る人告げて云く、明日延暦寺を攻むべしと。驚奇極まり無し。凡そ日来山門衆徒蜂起す。甚だ以て甘心せられず。世の時として、訴訟も遺恨も有るべき事なり。近日の事、ただ知らざるが如く見えざるが如くにて有るべきの処、大衆蜂起の條、還って後鑒の恥を為すべき所たるか。当時またこの蜂起に依って、寄せ攻めらるべしと。」(「玉葉」同日条)。

「山僧東西の坂に城を構えんと欲す。また近江の通路これを塞ぐ。」(「吉記」同9日条)。

「山門既に城郭を構う。仍って城中に籠もるの條、甚だ穏便ならず。しかのみならず、山門既に城郭を構う。仍って城中に籠もるの條、甚だ穏便ならず。しかのみならず、なり。而るに山門追討の儀、また忽ち然るべからずと。仍って義仲に触れらるるの処、案の如く許有り。・・・この夜臨時の除目を行わる。義仲左馬の頭を辞退す。また天台座主(俊尭僧正)を仰せ下さると。」(「玉葉」同10日条)。

「伝聞、山の大衆蜂起す。和平相半ばすと。」(「玉葉」同12日条)。"

12月10日

・義仲、法皇を強要し、院庁下文により頼朝追討使に任命される。

15日には、鎮守府将軍秀衡にも陸奥・出羽の兵を率い、義仲と共に頼朝を討つよう院庁下文が発給される。

「院の廰御下文到来す。鎮守府将軍(秀衡)に仰せらるる状に云く、早く左馬の頭源の義仲相共に陸奥・出羽両国の軍兵を率い、前の兵衛の佐頼朝を追討すべしと。」(「玉葉」同15日条)。

12月10日

・後白河、延暦寺の院家無動寺(むどうじ)に百ヵ日参籠すると称して登山し、義仲に身柄を拘束される前に京都を離れる。

12月10日

・藤原隆房(36)、参議兼右兵衛督となる。 この日の臨時除目は新任摂政師家(12歳)に代って父の(松殿)基房が執り行い「善政相交じはる」と評判が良かった(「吉記」)。


つづく