2023年2月28日火曜日

横浜散歩(港南区) 平戸永谷川沿いの河津桜が満開 クリスマスローズ スイセン ミモザ ウメ 2023-02-28

 2月28日(火)晴れ

はやいもので今日でもう2月が終わる。

今日もまた快晴。暖かくて、最高気温は18℃(予報ベース)。暖かくて強い風、まるで春一番のようだ(春一番ではなかったらしい)。

港南区の平戸永谷川沿いの河津桜が満開だった。気持ちのいい散歩、と言いたいところだが、強い風の為、花粉やらホコリやらで目が痒くて堪らなかった。夜7時過ぎの今でもまだ調子悪い。

平戸永谷川の戸塚区側、国道一号線からスタートして、ヤマダ電機のウラ辺りを過ぎたところでUターン。往復全行程、自宅からの徒歩だったが、1万1千歩なのでたいした距離ではなかった。












▼近所の住民の方が、花壇を整理されていて、パンジー(写真割愛)、クリスマスローズ、スイセンなどがたくさん咲いていた。


▼川に行くまでの途中、一般の方のおうちの前庭に咲いていたミモザ

▼自宅近くの公園の梅

〈藤原定家の時代285〉建久2(1191)年2月1日~3月28日 頼朝、後白河の院御所法住寺殿の再建開始 藤原定家(30)因幡権介 鎌倉大火(御所・若宮など焼亡) 後白河の新制36ヶ条(建久の新制)  

 


〈藤原定家の時代284〉建久2(1191)年1月1日~1月28日 正月垸飯(歳首垸飯)は千葉常胤、三浦義澄、小山朝政 頼朝の庶子を生んだ大進局が恩賞にあずかり上洛 より続く

建久2(1191)年

2月

・この月から、頼朝は木曾義仲の法住寺合戦で焼失した院御所法住寺殿の再建を開始

同年12月16日、後白河は美を尽くした新造の法住寺殿に移るが、この頃に病を得て、10日ほど滞在したのち六条殿に戻る。

2月1日

・検非違使別当源通親、更迭。後任に一条能保。

2月4日

・頼朝、二所詣。足利義兼、新田義兼、山名重国、佐貫廣綱、頼朝の後ろに従う(「吾妻鏡」同日条)。10日帰着。

北条義時(29)、二所詣に進発する頼朝に供奉す。

2月10日

・藤原定家(30)、因幡権介に任じられる

2月15日

・太宰府、宋の求めにより船頭楊栄らの処罰を申請。

2月16日

・藤原定家(30)、西行一周忌に良経と贈答歌各一首

2月17日

・頼朝、鶴岡に雪見。佐貫廣綱、頼朝の傘を持つ。「前の少将時家供奉す。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月1日

・熊谷次郎直実、直家に熊谷郷内の田20町歩を与える。

3月3日

・頼朝、鶴ヶ岡で法会と臨時祭。山名義範、供奉(「吾妻鏡」)。

3月3日

・京都の六条若宮で歌人32人を集め、阿閻梨顕昭を判者にして歌合。源通親発起、源光行勧進。歌人は六条藤家の歌人達。俊成の御子左家の歌人は藤原隆信のみ。他に鴨長明(37)が参加。 "

3月4日

・鎌倉大火。小町大路から大火。義時邸、比企能員邸など数十宇が焼亡。大倉幕府御所、若宮神殿も焼ける。頼朝は甘縄の安達盛長の家に入る。   

3月6日

・安田義定、遠江守に遷任。従五位上に叙され、大内守護にも任ぜられる。

3月6日

・頼朝、特に(鶴岡)若宮の火事に嘆息。円暁の坊に入り、若宮造営を指示。戌の刻に鎌倉で地震。「戌の刻大地震(帝尺動く)。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月8日

「若宮の仮宝殿造営の事始めなり。」(「吾妻鏡」同日条)。

「夜に入り若宮の仮殿遷宮。・・・随兵百余人、兼ねて宮の四面を固む。義盛・景時・盛長等これを奉行す。」(「吾妻鏡」同13日条)。

3月10日

・藤原長方(53)没

3月27日

・兼実、大江広元が五位の衛門尉に補任されようとしていると知って驚き、「未曾有か」と日記に記す(『玉葉』)

3月28日

・建久の新制。後白河皇、新制36ヶ条を下す。「諸国守護」を頼朝が請け負うことを認める一方、荘園公領制・神人供御人制を一層固め、軌道に乗せる。

16条「海陸盗賊、閭里放火…賊害…闘殺…、たしかに前右近衛大将源朝臣(頼朝)ならびに京畿・諸国の所部の官司等に仰せて、件の輩を搦めまゐらしめよ…」と定める。軍事統率権・検断権の武家権門への委任。

性格:

①政治権力の所在の明示、院=天皇権力の至上高権(超越権門)としての自己規定、

②職の体系・身分体系の整序、

③京都市中法の策定、

④軍事統率権・検断権の院=天皇権力による観念的掌握とその武家権門への委任。後白河院政期、院領荘園の集積と統合は飛躍的に進む。院・天皇権力(中世王権)は、院における最高封主としての性格(荘園制的知行体系の最上位者、秩序付与者、超越権門)と、天皇における律令諸制・官司制・律令法の観念的体現者としての性格(統治権的正統性の観念的源泉)との結合として存立。

「3月22日令」6・7条:

「諸社神人」「諸山悪僧」の交易・流通・金融活動への統制(「3月28日令」25・32条と連動)。「3月28日令」24・26・28・29・30・31・32・36条で都市法を体系化。

「3月22日令」8条:

権門領荘園における寄人の「結党」を規制。

「3月22日令」16条:

奉書「京畿の諸国・所部の宮司に仰せ、海陸盗賊、閭里放火を搦めまゐらしむべきこと」。本文「自今巳後、たしかに右近衛大将朝臣ならびに京畿の諸国・所部の宮司等に仰せ、くだんの輩をまゐらしめよ」。頼朝の軍事・検断権、諸国守護権は、王朝国家の体制下に位置付けられる。

①王権(の象徴)の警衛に関する法:

20条、衛府官人の勤務と左右馬寮の直(とのい)について。

21条、内舎人に一本御書所(世上流布の主要書籍各一本を収集する秘庫)、外記庁(政務・書記官庁)を守護させるべきこと。

35条、宮城を牛馬・馬の通路としたり、雑畜・牛馬を放し飼いすることの禁止。

②京都市中の法:

22条、京中の保(行政単位)の夜回りを励行すべきこと。

23条、法家検非違使(法曹官人出身の検非違使)に獄中の違法を検察させるべきこと。

24条、獄囚米、官田地子の徴収・給付を励行すべきこと。

25条、悪僧らが寺を離れて後、武家に身を寄せ、もと所属していた寺院・諸人に乱暴狼藉を行う事の禁止。

26条、諸人・奴婢を拘引し売買することの禁止。

27条、近隣の雑人が群飲・射的を行うことの禁止。

28条、在家の家主に寄宿舎を申告させる。

29条、京中の人が居住者のいない在家を領したり道路を耕作して、巷所に転換することの禁止。

30条、京中の道路・橋は京職が監督し、そこの面した家の家主に清掃させること。

31条、病人・孤児を京中の道端に遺棄することの禁止。

32条、私出拳の利息は1倍を上限とする。

36条、殺生禁断と京中寺社近辺での鷹など飼育禁止。

3月28日

・藤原兼房が太政大臣、藤原忠親が内大臣となる。


つづく


2023年2月27日月曜日

自民党大会で岸田首相が示した保守派への配慮 改憲や皇位継承に言及、LGBTQの人権保障に触れず(東京) / 保守層意識の政策着々、薄れる「岸田カラー」 党大会で改憲に意欲(毎日) ← これが岸田カラーです! / 岸田首相「民主党政権によって誇り、自信、活力失った」(産経) ← 失われた30年は民主党のせいであり、自民党の責任ではありません! ← 恥ずかしすぎる! / 岸田首相「時代は憲法の早期改正を求めている」 自民党大会で強調(FNN) ← それはない! 各種世論調査でも憲法改正はウンと下 / (社説)自民党大会 教団問題もう忘れたか(朝日)

 



 

2040年、トヨタの新車販売台数は半分以下の400万台になる…米投資会社が出した衝撃の予測 EV戦略で世界の自動車業界地図が塗り替わる(プレジデント オンライン)

 

〈藤原定家の時代284〉建久2(1191)年1月1日~1月28日 正月垸飯(歳首垸飯)は千葉常胤、三浦義澄、小山朝政 頼朝の庶子を生んだ大進局が恩賞にあずかり上洛

 


〈藤原定家の時代283〉文治6/建久元(1190)年12月1日~12月18日 頼朝、右大将拝賀式の翌々日に権大納言・右近衛大将両職を辞任 頼朝、御家人10人の衛府への任官に推挙 頼朝、京都を発つ より続く

建久2(1191)年

・栄西、天台宗教学を学んだ後に入宋、臨済禅を学び、この年帰国。「興禅護国論」を著す。建仁2年(1202)建仁寺建立。

翌年香椎宮の側に建久報恩寺を建立、ついで聖福寺及び筥箱に興徳寺を建立。聖福寺は源頼朝や後鳥羽天皇の外護を寺伝にもつが、「興禅護国諭」にみられる宋人張安国などの人的関係や聖福寺の立地条件、出土遺物などからみて、実情は、大陸との貿易にかかわった有力武士・宋商らが同寺を支えたとみられる。博多海浜に禅と戒を基調とする宋風の伽藍が現出し、都市的景観に変化をもたらす端緒をつくる。

1月1日
・千葉常胤の沙汰する垸飯(おうばん、有力御家人による鎌倉殿への供応儀式)が威儀を刷新して行われる。頼朝の上洛と昇進によるものという。垸飯は5日間行われ、5日目に弓始(ゆみはじめ、的始ともいう)が行われた。
「千葉の介常胤垸飯を献る。その儀殊に刷う。これ御昇進の故と。・・・御劔は千葉の介常胤、御弓箭は新介胤正、御行騰沓は二郎師常、砂金は三郎胤盛、鷹羽(櫃に納む)は六郎大夫胤頼。」(「吾妻鏡」同日条)。

「御垸飯(三浦の介義澄沙汰す)。三浦の介義澄御劔を持参す。御弓箭は岡崎の四郎義實、御行騰は和田の三郎宗實、砂金は三浦左衛門の尉義連、鷲羽は比企右衛門の尉能員。」(「吾妻鏡」同2日条)。

「小山右衛門の尉朝政垸飯を献る。御劔は下河邊庄司行平、御弓箭は小山の五郎宗政、御行騰沓は同七郎朝光、鷲羽は下河邊の四郎政能、砂金は最末に朝政自らこれを捧持す。」(「吾妻鏡」同3日条)。

「宇都宮左衛門の尉垸飯を献る。御酒宴の間、即ち堪能者を召し弓始め有り。一番 下河邊庄司行平 榛谷の四郎重朝 二番 和田左衛門の尉義盛 藤澤の次郎清親」(「吾妻鏡」同5日条)。
垸飯は有力御家人が御所において将軍を饗応する行事。このうち正月三が日に行なうものを、特に正月垸飯(歳首垸飯)といい、有力御家人が日替わりでこれを担当し、将軍を饗応する。

正嘉2年(1258)正月1日の北条時頼による垸飯では、執権・連署が大庇(おおひさし)に座り、その他の184人の御家人は東西に分かれ庭に着座した。これは御家人の政治的順位を視覚的に示すものであった。

建久2年(1191)正月1日は下総の千葉一族による垸飯であった。将軍に献上する御剣を千葉介常胤、弓箭(きゆうぜん)を嫡男新介胤正、行膝(むかばき)を二郎師常、砂金を三郎胤盛、鷲羽を六郎大夫胤頼が進上し、馬四頭も一族が献上した。翌2日は三浦義澄、3日は下野の大名小山朝政が垸飯の沙汰人となった。しかし、時代と共に次第に千葉氏のような大名は外れていき、北条氏が独占していく傾向が見られ、幕府政治史にも直結する結果となっている。

このような将軍と御家人の共同飲食に使用されているモノとしては、養和元年(1183)正月1日には3尺(90cm)の鯉が掲げられている。
この垸飯行事に臨席できた御家人は、続く御行始に同行することができる。

御行始も、将軍が有力御家人の邸宅を訪問し、饗応を受ける行事であるが、鎌倉時代の後半には垸飯への返礼という形になる。ここでもまた引き出物が出され、主従での共同飲食が行われる。例えば、三代将軍実朝が誕生して初めて行われた建久3年(1192)11月5日の御行始では、引出物として、剣、砂金、鷲の羽、馬が進呈され、同行の随兵たちへも色革(なめし皮)各一枚の引き出物があった。延長5年(1153)正月三日、将軍宗尊親王の時頼亭への御成りに際しては、菓子・瓶子・鯉・色革・羽が用意されている。

こうした贈答慣行は将軍が外出している場合も同様で、その場合は「駄餉」と呼ばれる。その際沙汰人は外出地の領主が行うのが通例であった。これらの行事は主従関係を再確認するもので、共同で飲食を行うことにより補強されていたのである
1月11日
「前の右大将家鶴岡の若宮に御参り。」(「吾妻鏡」同日条) 。

1月12日
・賀茂重保(73)没
1月15日
・政所吉書始(きっしょはじめ)。
政所の家司(別当・令など)、問注所の執事(長官)、侍所の別当(長官)・所司(しょし、次官)、公事奉行人や京都守護、鎮西奉行人が改めて補任される。

この日、頼朝は新しい方針を御家人に示す。これ以前、御家人に対しての安堵、新恩の沙汰は頼朝の御判(奥上署判や袖判)を据えた文書で行ったが、このたびそれを召し返し、源家(源頼朝家)の政所下文で行うとした。

東国の武士が鎌倉殿(頼朝)と主従関係を結んだのは、ほとんどが挙兵後間もなくであり、実際には見参を行って口頭の安堵を受けた例もあれば、文書を下付することによる恩沢の例(本領安堵)もあった。後者の多くは頼朝の花押を据えた奥上署判の下文であった。寿永2年(1183)10月宣旨以降は、袖判下文に変更されるが、頼朝の花押は据えられていた。頼朝はこうした文書を返却させ、源家(源頼朝家)の出す政所下文に変更すると方針を示した。

頼朝は、これまでの鎌倉殿と御家人との御恩と奉公という直接の関係を重視した政策から、源家の家政機関(政所)を挟んだ間接的な関係にしようと方針を変えた。上洛して任官したことを画期に、鎌倉政権の組織を改編するとともに、主従制の根幹となる各家に代々伝えられる文書の企画化を目指したと考えらる。

しかし、御家人の抵抗もあってこの政策は進まなかった。御家人にとっては、頼朝の御判のある下文が重要だった。『吾妻鏡』建久3年6月3日条に「あるいは新恩を加えられ、あるいは以前の御下文を成し改めらる」とあり、徐々に進められたようだ。挙兵以来の功臣、千葉常胤や小山朝政も納得しない御家人であった。頼朝は彼らの要求に応じ、古い文書(安堵状)を提出する代わりに、政所下文だけではなく、袖判下文も与えるようにしたが、袖判下文は徐々になくなり、多くは政所下文が下されるようになった。
「政所 別当 前の因幡の守中原朝臣廣元 令 主計の允藤原朝臣行政 案主 藤井俊長(鎌田の新籐次) 知家事 中原光家(岩手の小中太) 問注所 執事 中宮大夫屬三善康信法師(法名善信) 侍所 別当 左衛門少尉平朝臣義盛(治承四年十一月この職を奉る) 所司 平景時(梶原の平三) 公事奉行人 前の掃部の頭藤原朝臣親能 筑後権の守同朝臣俊兼 前の隼人の佐三善朝臣康清 文章生同朝臣宣衡 民部の丞平朝臣盛時 左京の進中原朝臣仲業 前の豊前の介清原眞人實俊 京都守護 右兵衛の督(能保卿) 鎮西奉行人 内舎人藤原朝臣遠景(天野の籐内と号す。左兵衛の尉)」(「吾妻鏡」同日条)。
1月17日
「民部の丞盛時・武藤の次郎資頼等仰せを奉り、使者を伊勢・志摩両国に遣わす。また出納和泉の掾国守これを相副ゆと。これ平家没官地、未だ地頭を補せられざる所々相交るの由聞こし食し及ぶに依って、これを巡検せんが為なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

1月22日
・藤原俊経(78)没
1月23日
・頼朝の庶子(のちの貞暁)を生んだ大進の局、恩賞にあずかり、上洛させられ、近いからと伊勢の国に所領を与えられる。
「女房大進の局恩沢に浴す。これ伊達常陸入道念西の息女、幕下の御寵なり。若公を生み奉るの後縡露顕し、御台所殊に怨み思い給うの間、在京せしむべきの由内々仰せ含めらる。仍って近国の便宜に就いて、伊勢の国を宛らるるかと。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月28日
・頼朝、二所詣の精進の為に由比の浦に出御、足利義兼ら50人、従う(「吾妻鏡」同日条)。

つづく

小池都知事が進める明治神宮外苑“樹木3000本伐採”とカネ儲け再開発の出来レース。なぜ明治神宮まで加担するのか?=鈴木傾城 / 伐採女帝・小池都知事が“騙し討ち”! 神宮外苑樹木「743本→3000本」切り倒しのトンデモ(日刊ゲンダイ) / 明治神宮外苑再開発の見過ごせない5つの問題点…住民有志がチラシを作り伝える(東京) / 小池都知事「未来につなげる街づくりに真摯に取り組んで」神宮外苑再開発施工認可でコメント(日刊スポーツ) ; 「百年かけて育てた森を耐用年数50年の建造物にするのですか?誰にでも無料の森を商業施設にして懐の暖かい人のためのものにするのですか?」(中沢けい) / 「知事は再開発で新しく木を植えるので本数が増えるというスライドを見せ…ミスリードをするための詭弁。新たに植える若い木より、緑の体積が大きい樹齢百年の巨木の方がCO2の吸量や冷却効果が圧倒的に高い…多くの気候変動や脱炭素化などの専門家が指摘」           



 

2023年2月26日日曜日

【プーチン 大統領失脚でも戦争終わらず?】ロシア の軍事・安保政策が専門の小泉悠氏にウクライナ侵攻 1年を前に、いつ、どうすれば戦争が終わるのか。また日本の安保戦略について聞きました。

 

〈藤原定家の時代283〉文治6/建久元(1190)年12月1日~12月18日 頼朝、右大将拝賀式の翌々日に権大納言・右近衛大将両職を辞任 頼朝、御家人10人の衛府への任官に推挙 頼朝、京都を発つ 

 


〈藤原定家の時代282〉文治6/建久元(1190)年11月17日~11月29日 後白河、頼朝の在京奉公を要望し右近衛大将(右大将)に補任 頼朝にはその気はないが拒否できず より続く

文治6/建久元(1190)年

12月1日

・頼朝の拝賀、朝廷の先例に倣い威儀を正して行われる。行列を先導する前駈10人のうち8人は院の北面から催し遣わされている。申(さる)の一点(午後3時頃)、頼朝は最初に院御所(六条殿)に参上、中門で慶(よろこび、任官の礼)を奏聞、召しにより御前に参り、退出。馬を賜った。ついで夕刻以前閑院内裏に参り、弓場殿で慶を奏聞、召しにより、昼御座の前で後鳥羽天皇に謁している。中宮と摂政九条兼実への拝賀は省略された。

12月1日、拝賀式。先駆けには院の北面、公卿には妹の夫一条能保、能保の娘婿藤原公経を従えて臨む。

北条義時(28)、頼朝の右大将拝賀に随兵を勤む。

征夷大将軍は叶わずとも、頼朝が唯一の武家の棟梁として認定される。内乱終結、「天下落居」の到来を示す。一方、王朝国家は、再編縮小された官僚制を維持し、「公家」「寺家」権門を中心の所領基盤、交通系統の掌握(交通、社会的分業、流通の結節点としての京都の掌握)を背景に再生・存続続ける。

「両官辞退してき。もとをりふしをりふしに正二位までに位には玉はりにけり。大臣も何もにてありけれど、我心にいみじくはからい申けり。いかにもいかにも末代の将軍に有がたし。ぬけたる器量の人なり。」(「愚管抄」)。

12月3日

・在京中の源頼朝、権大納言・右近衛大将の両職を辞任、朝廷の侍大将ではない(在京して奉公することを拒否)ことを示す。頼朝は「朝の大将軍」を希望していた。2日前に右大将拝賀の儀を壮大に執り行ったばかり。

12月4日

・鎌倉に帰る準備が始まる。

「前の右大将家、絹布等を以て京中の然るべき神社仏寺に施入せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

「前の右大将家八幡に詣でしめ給う。」(「吾妻鏡」同5日条)。

「前の右大将家の関東御下向近々の間、御所の女房三位の局餞物等を送らる。扇百本その中に在り。これも内々の御気色に依ってこの儀に及ぶと。」(「吾妻鏡」同7日条)。

12月11日

・頼朝、仙洞(院の御所)と内裏に挨拶に参上し、成功(じょうごう、造営・造寺などの費用を朝廷に寄付し、その功として官位を得ること)による御家人10人の衛府への任官に推挙。相模武士では梶原景茂(父景時の譲り)・三浦義村(父義澄の譲り)・和田義盛・佐原義連、武蔵武士の足立遠元・比企能員、下総武士の葛西清重・千葉常秀(禍父常胤の譲り)、常陸武士の八田知重(父知家の譲り)、下野武士の小山朝政。のち、正治元年(1199)、頼家を支えた13人中6人が含まれている

「前の右大将家院内に参らしめ給い、数刻御祇候。御家人十人、成功に募り左右兵衛の尉・左右衛門の尉等に挙任せらる。これ度々の勲功の労に依って、二十人を挙げ申すべきの旨仰せ下さるる所なり。幕下頻りにこれを辞し申さると雖も、勅命再往の間、略して十人を申し任ぜらると。

   左兵衛の尉 平常秀(祖父常胤勲功の賞を譲る)

         同景茂(父景時同じく賞を譲る)

         藤原朝重(父知家同じく賞を譲る)

   右兵衛の尉 平義村(父義澄同じく賞を譲る) 同清重(勲功の賞)

   左衛門の尉 平義盛(勲功の賞) 同義連(同賞)

         藤原遠元(同賞、元前の右馬の允)

   右衛門の尉 藤原朝政(同賞、元前の右兵衛の尉) 同能員(同賞)」(「吾妻鏡」同日条)。

12月14日

・源頼朝、帰東の為京都を出発。29日、鎌倉に帰還。

12月15日

・~16,藤原定家(29)、良経の内裏直盧(じきろ)で良経と「二夜百首」を詠む

12月18日

「院より前の大将の申状二ヶ條の事を仰せらる。群盗の事、並びに新制の事等なり。」(「玉葉」同日条)。


つづく

子ども予算「倍増」は「1つの象徴として」 自民・田村元厚労相(FNN);「規模感、次元が違うということを表現する象徴として『倍増』という言葉が使われた」 / 子ども予算「倍増」、事実上修正 首相「整理段階」と守りの答弁(毎日) / 全くやる気なし → 子ども予算倍増は「出生率が上がれば実現」 木原官房副長官が見解(朝日) / 岸田首相の子ども関連予算“倍増”発言 わずか1日で修正に「一体何を倍増するの」と異論続出 / 首相が国会で明確に発した言葉が一夜にして修正されるのは極めて異例のことです。 → 子ども予算巡る首相答弁を訂正 官房副長官「GDP比倍増ではない」(朝日2/16) / 保育所整備や児童手当などの子育て支援、首相「GDP比2%を倍増」(朝日2/15)       

 



 

2023年2月25日土曜日

源馬議員「自民党の麻生副総裁がミャンマーの国軍から名誉称号と勲章を受けたと報道があった。認識を伺いたい」 岸田総理「事実関係承知してないのでコメント控える」 源馬「好ましいことだと思うか?」 林外相「個人としての勲章受賞なので政府としてコメントする立場にない」   

 

〈藤原定家の時代282〉文治6/建久元(1190)年11月17日~11月29日 後白河、頼朝の在京奉公を要望し右近衛大将(右大将)に補任 頼朝にはその気はないが拒否できず     

 


〈藤原定家の時代281〉文治6/建久元(1190)年11月8日~11月16日 頼朝、後白河と会見、ついで後鳥羽天皇、摂政兼実と会見 「頼朝また運あらば、政何ぞ淳素(簡素)にかへらざらん哉。当時は偏に法皇に任せ奉るの間、万事叶うふべからず」(「玉葉」) より続く

文治6/建久元(1190)年

11月17日

・東大寺上棟のために南都に赴く後白河、この日、宇治平等院へ立ち寄る。兼実、良経、定家も平等院に赴く。


18日、定家は宇治を出発するとき、平等院執印であった慈円に、

鳴き初(そ)むる鳥の初音におきゐれば 唯事治山の有明の月

など十首の歌を贈る。慈円は、

月影はおりゐの山に傾きて 鳥のそらねも有明のそら

など十首を返す。この話を定家にきいた良経も早速、

鳥の音の哀をかくる袖のうへに 月も色ある宇治の曙

など十首を慈円に送る。


11月18日

・頼朝、清水寺に威儀を正して参じ、法華経を読誦(どくじゅ)させる。

11月19日

・この日午後、頼朝は妹婿の一条能保と参院、後白河と対面数刻に及んだという。話し合いの中味は具体的にはわからないが、後白河が頼朝に要請した案件のひとつに、頼朝の在京奉公があったと考えられる。

「未の刻、大納言家(直衣)仙洞に御参り。左武衛(能保)参会せらる。法皇御対面、数刻に及ぶと。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月22日

・頼朝のもとに右近衛大将(右大将)補任の院宣が到来、すぐに頼朝は辞退の請文を提出。頼朝の希望する「朝の大将軍」に対し、後白河が禁中の警護や行幸の警備などを行う近衛府の長官である右大将に補任したのは、在京奉公の具体化だったのかもしれない。

11月23日

・頼朝、再び参院し、終日御前に祇候。頼朝には在京奉公の意図はなかったが、結局法皇に押し切られた。

「大納言家仙洞に御参り。終日御前に候せしめ給う。また長絹百疋・綿千両・紺絹三十端内臺盤所に進せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月24日

・右大将花山院兼雅が辞表を提出、同日除目が行われ、頼朝は右大将に補任された。

頼朝は征夷大将軍を望むが、後白河法皇と源通親が頼朝を右近衛大将に任じてやんわりと要求をかわす。しかし、建久3年(1192年)の後白河法皇没後、通親は、九条兼実提案の頼朝への征夷大将軍任命に一転して賛同。法皇没後も政治的基盤の確保は怠らず。

11月26日

・右大将家の番長を右府生秦兼平(うふしようはたのかねひら)、一座を播磨貞弘(はりまのさだひろ)とするなどの人事が行われ、28日には拝賀の随兵が定められ、30日には拝賀に用いる毛車(けぐるま)・廂車(ひさしぐるま)や装束などが法皇から届けられ、その準備が進められた。

11月29日

・この日夜、頼朝、参院。布衣(ほい、狩衣の下に腹巻を着す)の御家人12人を伴ったという。頼朝の用心深さが表れている。

「夜に入り右大将家御院参。布衣の侍十二人御共に在り。各々狩衣下に腹巻を着すと。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく

2023年2月24日金曜日

漫画家の東村アキコさん「普段は政治的な発言などはしないことにしている私ですが、さすがに今回の寝耳に水の防衛費増額で、私も署名運動に参加しました。みんな生活が苦しいのに、私たちの税金でミサイルを500発も買うなんて。」 / 「ミサイル購入で平和が守れますか?」東村アキコさんが抱く岸田政権の軍拡への疑問(女性自身)        



 

これだけ世界的レベルの研究者たちが総じて問題視する悪法を、岸田政権は本気で通すつもりなのか。日本の科学アカデミーが毀損される。  政府の学術会法改正案に、ノーベル賞受賞の白川英樹、野依良治、小林誠、鈴木章、天野浩、大隅良典、本庶佑の各氏と、フィールズ賞の森重文氏8人が連名で危惧を表明



 

〈藤原定家の時代281〉文治6/建久元(1190)年11月8日~11月16日 頼朝、後白河と会見、ついで後鳥羽天皇、摂政兼実と会見 「頼朝また運あらば、政何ぞ淳素(簡素)にかへらざらん哉。当時は偏に法皇に任せ奉るの間、万事叶うふべからず」(「玉葉」)

 


〈藤原定家の時代280〉文治6/建久元(1190)年10月2日~11月7日 頼朝上洛 弓矢を帯びず甲冑も着けないで、天下の平定を誇示するように白昼堂々と騎馬で京へ入る より続く

文治6/建久元(1190)年

11月8日

「早旦、伊賀の前司仲教六波羅に参る。御直衣を持参する所なり。これ日来整え置くと。御馬を給うと。左武衛(能保)参り給う。御参内以下の事御談合と。明日御院参有るべきの由、民部卿(経房)に触れ遣わさると。またその間辻々を警固すべきの旨、佐々木左衛門の尉定綱に仰せ下され、辻々を注し申す。義盛・景時目録を取り、御家人等に触れ仰すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

「院より家實の奉行として、頼朝の賞の間の事を仰せらる。所存を申しをはんぬ。尤も大将に任ぜらるべきか。而るに忽ち沙汰無きか。右大臣避くべきの由を申すと。而るにまた思い返すか。」(「玉葉」同日条)。

11月9日

・頼朝、参院(六条殿)し後白河法皇と会見。後白河法皇は頼朝の勲功賞により権大納言に補任することとした。この権大納言補任は、予定されていたものである。ついで参内(閑院内裏)し後鳥羽天皇摂政兼実に謁し六波羅に帰る。自らの地位を「百王」守護、「朝の大将軍」と語る(「玉葉」)。軍事権門としての幕府の性格規定。

1ヵ月余の在京中、頼朝は後白河と8回の会談を行っている。

後白河が、秘蔵の絵巻物を見せようとすると、頼朝は「君の御秘蔵さふらふ御物にいかでか頼朝が眼をあてさふらふべき」と丁重に謝絶(「古今著聞集」)。頼朝の政道への厳しさと後白河の稚気・破天荒の逸話。しかし、頼朝には後白河の王権と文化の危険な結合を理解できず。後白河の頼朝への復讐・軽蔑といえる。

兼実とは清涼殿の鬼間で対面。頼朝は、「自分は八幡(源氏の氏神)の託宣によって全面的に天皇に服従し、百王(ひゃくおう、百代の天皇)をお守りすることにしました。現在の天皇のことは並ぶ者がないほどに仰ぎ奉っています。しかし、現在は法皇が天下の政(まつりごと)を執っておられます。そこでまず萱に服従したのです」と語る。

兼実のことについて、「外から見れば疎遠のように見えるかもしれませんが、実際は疎略にしているわけではありません。深く思うことがあり、また、院を恐れたために疎略のように示していただけなのです」と語る。

これに続けて「現在の天皇は幼年でいらっしゃる。あなたにはこれからの人生がまだはるか残っています。頼朝にまた運があるならば、政治はどうしてもとのあるべき姿に戻らないことがあるでしょうか。現在はすべて法皇にお任せしているので、すべてが叶わないのです」と述べる。兼実も「はなはだ深甚(奥深い)なり」と記す。現在は後白河が政務を牛耳っており、どうにもならないが、後白河が亡くなれば、頼朝は兼実を支持して改革を進めるつもりがある、という。頼朝は兼実の今後に期待を持たせた

「二品院内に参らしめ給う。御家人等辻々を警固すと。・・・申の刻六波羅より御出で。先ず仙洞(六條殿、追前せず)に御参り。直衣・網代車(大八葉文)。・・・六條殿に於いて、中門廊に昇り、公卿の座の端に候し給う。戸部兼ねて奥の座に候す。即ちこれを奏せらる(子息権の弁定経朝臣を以て伝奏す)。法皇(御浄衣を着す)常の御所に出御す。南面廣廂の縁に畳を敷く。戸部の引導に依ってその座に参り給う。勅語刻を移す。理世の御沙汰に及ぶか。他人この座に候せず。昏黒に臨み御退出。爰に暫く御祇候有るべし。仰せらるべき事有るの旨戸部示し申す。然れども後日参るべきの由を称し御退出をはんぬ。戸部この旨を奏すの処、大納言に任ずべきの由仰せ遣わすべし。定めて謙退せしむか。請文を待つべからず。今夜除書を行わるべきの旨勅定有り。また勅授の事、同じく宣下せらるべしと。次いで御参内(閑院)。弓場殿方より鬼の間の辺に候し給う。頭中宮亮宗頼朝臣事の由を奏す。主上(御引直衣)昼の御座に出御(摂政殿御座の北に候し給う)す。召しに依って簀子(圓座を敷く)に御参り。小時入御す。次いで鬼の間に於いて殿下御対面。子の一刻六波羅に帰らしめ給う。

次いで戸部院宣を下されて云く、 勲功の賞に依って、権大納言に任ぜらるる所なり。・・・この状六波羅に到着す。御請文を進せらる。・・・権大納言を拝任する事、恐れ悦び申し候。但し関東に候すの時、任官の事仰せ下され候と雖も、存旨候て辞退申し候いをはんぬ。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

「この夜小除目を行われ、頼朝大納言に任ぜらるるなり。辞すと雖も推してこれに任ずと。九日、頼朝卿に謁す。示す所の事等、八幡の御託宣に依って、一向君に帰し奉る事、百王を守るべしと。これ帝王を指すなり。・・・義朝の逆罪、これ王命を恐れるに依ってなり。逆に依ってその身を亡ぼすと雖も、彼の忠また空しからず。仍って頼朝すでに朝の大将軍たるなりと。」(「玉葉」同日条)。

「天下遂に直立すべし。当今(後鳥羽天皇)幼年にましまし、尊下(兼実)また余算なほ遥かなり。頼朝また運あらば、政何ぞ淳素(簡素)にかへらざらん哉。当時は偏に法皇に任せ奉るの間、万事叶うふべからず」(「玉葉」同日条)。

「淳素」でない政治状況を云い法皇の政治の弊害を匂わせ、天皇も若く当面は法皇にに一任せざるを得ないと語り、没後の政治刷新を匂わせる。

「その後、院の内へ参りなんどして、院には左右なき者になりにけり。先ず権大納言に任ず。参議中納言をもへず直に大納言に任ずるなり。さて内裏にまいりありて、殿下と世の政の作べきやうはなどふかく申承けり。」(「愚管抄」)。 

11月11日

・頼朝、河内源氏の崇拝する六条若宮、ついで石清水八幡宮に参詣、一泊して翌日六波羅に帰る。北条義時(28)、頼朝に供奉して六条若宮・石清水八幡宮に社参。

11月13日

・頼朝の院と内裏に献上品。「砂金 八百両 鷲羽 二櫃 御馬 百疋」。

11月15日

・頼朝、諸社に馬を進上。

11月16日

・頼朝、後白河の寵姫丹後局(たんごのつぼね、高階栄子へ土産。桑糸2百・紺絹百・蒔鶴の唐櫃2合


つづく



広島県教委契約問題 これで幕引き許されぬ(中国新聞) / 蔵書11万冊廃棄、代わりに購入したのは…学校現場から不満の声 広島県立学校図書館リニューアル(中国新聞); 広島県立学校図書館で蔵書11万冊廃棄、代わりにリニューアル担当した人物の著作など購入 児童文学評論家の赤木かん子氏が改装に関わった学校図書館で11万冊余りの蔵書を廃棄。代わりに赤木氏の著書を購入させられたなどとして学校現場から不満の声が出ています /    

 



 

2023年2月23日木曜日

(論壇時評)ネットと言論 現実世界へと滲みだす混沌 東京大学大学院教授・林香里(朝日);「ひろゆきはまた、自らを情報強者と位置付け、情報弱者を蔑むような発言で人気を博しているところがあるという。伊藤は、こうしたひろゆきの言動で、高齢者や障害者など、リベラル派が守ろうとする「本来的な意味での弱者」を差別する志向が増幅されないかと警戒する。」  「確かなことは、ネット世界の混沌はもはやネットに留まらずに現実世界に滲みだし、他人を傷つけ、時に命にかかわる暴力行為にまで発展してしまう現実があるということだ。21年の米連邦議会襲撃事件はその最たる例だが、米国ばかりではない。」      

〈藤原定家の時代280〉文治6/建久元(1190)年10月2日~11月7日 頼朝上洛 弓矢を帯びず甲冑も着けないで、天下の平定を誇示するように白昼堂々と騎馬で京へ入る

 

歌川貞秀 作「建久元年源頼朝卿上京行粧之圖」

〈藤原定家の時代279〉文治6/建久元(1190)年7月12日~9月27日 頼朝上洛の準備整う(宿所は旧頼盛邸跡) 鎌倉や京都で大雨洪水 「暴風大雨、暁より更に殊に太だし。終日止まず。鴨川・桂川、各々以て洪水。近年この類少なしと」(「玉葉」) より続く

文治6/建久元(1190)年

10月2日

・頼朝、出発前日まで発表にならなかった先陣を畠山重忠に命じる。頼朝が正二位の公卿としての都入りで、その先陣をつとめることは名誉なことであった。

10月3日

・頼朝、上洛のため鎌倉をたつ。八田知家の進言で、後陣は千葉常胤となる。

3日「相模の国懐嶋(ふところじま、茅ヶ崎)の宿」

4日「酒匂の宿」

9日「駿河の国蒲原の駅」

12日「岡部の宿」

13日「遠江の国菊河の宿」

18日「橋本の駅に於いて遊女等群参す。繁多の贈物有りと。」

25日「尾張の国・・・、当国野間庄に到り、故左典厩(父義朝)の廟堂(平治事有り、この所に葬り奉ると)を拝し給う。」

27日「熱田社に奉幣せしめ給う。」

28日「晩に及び美濃の国墨俣に着御す。」

29日「青波賀の駅」

11月5、6日「野路の宿」、

10月15日

・藤原定家(29)、東大寺棟上御幸に参仕する兼実に供奉して、まず宇治御所に参る(「玉葉」)。

10月18日

・藤原定家(29)、宇治にて慈円と十首歌を贈答。良経も唱和。

10月19日

・東大寺大仏殿再建の上棟式。後白河法皇が臨幸。

11月7日

・頼朝、挙兵後はじめて京の地を踏み、六波羅の新邸(故平頼盛邸を新築、後の六波羅探題)に入る。ことさら弓矢を帯びず甲冑も着けないで、天下の平定を誇示するように白昼堂々と騎馬で京へ入る。「天下落居」が公武共通の認識になったことを象徴する一大セレモニーである。

源邦業(くになり)・中原親能・宇都宮朝綱・小山朝光・大江広元らが出迎える。

この日午前中は雨、昼過ぎから晴れ、風が吹いた。後白河はひそかに牛車にのって行列を見物。公卿たちも多勢見物に出た。『愚管抄』には、「ヨノ人ソウニタチテマチ思ヒケリ」とある。

午後4時頃、先陣が京都に到着、三条通を西に進み、鴨河原を南に行って、六波羅に入る。行列は、まず貢納する黄金をいれた唐櫃一箱、ついで先陣畠山重忠が黒糸おどしの鎧を着、家の子1人、郎等10人を従えて進む。つぎに先陣随兵が、三列縦隊で60番180騎が進み、つぎに頼朝の乗替の馬を引馬で1疋、次に小具足持1騎、次に弓袋差1騎、次に鎧1騎、そのあとに、下着は紅色の衣、上に綿の紺青で裏は丹色の水干袴(すいかんばかま)をき、折烏帽子(おりえぼし)をつけ、夏毛(なつげ)のむかばきをはき、染羽の野矢を負い、黒馬に赤皮の楚鞦(すわえしりがい)をかけ、水豹毛(すいひようげ)の泥障(あおり)をつけて乗った頼朝が進んだ。ついで水干姿の供奉人八田知家以下5番10人、後陣随兵3列縦隊46番、最後に後陣の勘解由判官、郎従数10騎を率いた梶原景時、子息・親類等を随兵とした千葉常胤が進んだ。

「二品御入洛。法皇密々御車を以て御覧す。見物の車轂を輾り河原に立つ。申の刻、先陣花洛に入る。三條末を西行、河原を南行、六波羅に到らしめ給う。」(「吾妻鏡」同日条)。

「この日、源二位頼朝卿入洛す。申の刻、六波羅の新造の亭に着すと。騎馬弓箭を帯し、甲冑を着けずと。院已下洛中の諸人見物すと。余これを見ず。日昼、騎馬の入洛存旨有りと。」(「玉葉」同日条)。

「よの人そうにたちてまち思けり。六波羅平相国が跡に二町をこめて造作しまうけて京へいりける。きのふとて有ける。雨ふりて勢多の辺にとどまりて、思さまに雨やみて七日入けるやうは、三騎々々ならべて武士うたせて、我より先にたしかに七百余騎ありけり。後に三百余騎はうちこみて有けり。こむあをにのうら水干に夏毛のむかばきまことにとを白くて黒き馬にぞのりたりける。」(「愚管抄」)。

北条義時(28)、頼朝の上洛に先陣の随兵を勤む。

供奉人として先陣の15番に佐野国綱、21番に佐貫六郎、27番に山名重国、新田義兼、得川義季、30番に山名義範、31番に源範頼、大内維義、里見義成、32番に佐貫五郎(兼綱か)、53番に小野寺通綱、(藤姓)足利七郎四郎廣綱、足利七郎五郎信綱、54番に佐貫四郎廣綱、足利七郎太郎基綱の名が見える。安達盛長、後陣38番。


つづく



2023年2月22日水曜日

自宅近くの桜と梅 公園の河津桜が五分咲き 白旗神社の枝垂れ梅が八分咲き 他に老木白梅 2023-02-22

2月22日(水)晴れ

自宅近くの桜(河津桜)や梅(白梅、枝垂れ梅)

▼河津桜が五分咲き

 


▼白梅(老木を大胆に剪定したもの)



▼東戸塚駅前の白旗神社の枝垂れ梅(八分咲き、満開) 無粋な電線が気になる、、、



“異次元”の少子化対策 京都大学柴田悠准教授「2025年頃までがラストチャンス」(日テレ);「内閣府の統計で、日本で生まれる子どもの数が減り続けた結果、2025年頃からは20代の人口が急激に少なくなるとわかっている」 「結婚支援や子育て世帯の経済的負担を軽くする制度など比較的すぐにできる「即時策」と、賃金上昇や働き方改革など抜本的な「長期策」があり、それらを同時並行で早急に行う必要がある」 「「即時策」として、高等教育の負担軽減と保育園にすべての1,2歳が通うための「定員増」と「保育士の賃金引き上げ」「保育の配置基準(保育士1人が担当するこどもの数)の改善」」 「お金と時間にゆとりができ、それが将来も続くと思えてはじめて結婚や出産ができるのではないか」

 



 

〈藤原定家の時代279〉文治6/建久元(1190)年7月12日~9月27日 頼朝上洛の準備整う(宿所は旧頼盛邸跡) 鎌倉や京都で大雨洪水 「暴風大雨、暁より更に殊に太だし。終日止まず。鴨川・桂川、各々以て洪水。近年この類少なしと」(「玉葉」)

 


〈藤原定家の時代278〉文治6/建久元(1190)年4月8日~6月29日 建久改元 女御任子(兼実娘)が中宮となる 一国平均役の収取体制再建(財政問題の課題) より続く

文治6/建久元(1190)年

7月12日

・昌寛(しょうかん)、頼朝上洛のための宿所新造の奉行として上洛。昌寛は、治承4年(1180)の挙兵以来頼朝に従い、京都への使者などを務めており、おそらく頼朝の推挙で京都六勝寺のひとつ成勝寺の執行(寺務責任者)になっていた。

後日、昌寛からの報告で、京都の宿所は平頼盛の旧跡(六波羅)に決まった。

「法橋昌寛使節として上洛す。これ来十月御上洛有るべきの間、六波羅に於いて、当時御亭を新造せらるべし。仍って奉行たるなりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月15日

・頼朝、勝長寿院で万灯会を修し平氏の冥福を祈る。

「今日孟蘭盆の間、二品勝長寿院に参りたまひ、万燈会を勤修せらる。これ平氏滅亡の衆等の黄泉を照らさんがためなりと云々」(「吾妻鏡」同日条)

7月17日

・藤原実房が左大臣、藤原兼雅が右大臣、藤原兼房が内大臣となる。

7月17日

源(久我)通親、中納言に進む。翌日、兼左衛門督・検非違使別当(翌年2月1日、別当を辞任)に就任。

8月3日

・河内の地頭の横領、及び糠屋有季の狼藉の件で、足利義兼等その行方を探すことを下知される(「吾妻鏡」同日条)。

8月3日

・源雅頼(64)没

8月17日

「甚だ雨。夜の入り暴風人屋を穿(うが)ち、洪水河岸を頽(くず)す。相摸河の邊の民家一宇(いちう)河尻に流れ寄る。宅内の男女八人 皆以て存命す。各(おのおの)、棟の上に居たと云々。奇特な事也」(「吾妻鏡」同日条)。

「暴風大雨、暁より更に殊に太だし。終日止まず。鴨川・桂川、各々以て洪水。近年この類少なしと。」(「玉葉」同日条)。

8月19日

・板垣兼信(甲斐武田党武田信義の子)、所領没収、隠岐島配流。遠江質侶荘で不当を働いた為(「吾妻鏡」同日条)。

8月28日

「院の廰官康貞、内々宿意有るに依ってか。民部卿経房・右大弁宰相定長等の事を二品に訴え申すなり。戸部は希有の讒臣なり。諸人彼の為損亡すべし。右大弁はまた大蔵卿泰経朝臣に同意するの凶臣なり。三河の守範頼これを執り申す。二品更に承引し給わず。両人共良臣の聞こえ有るの上、関東の事連々伝奏するの間、未だその不可を知らず。努々この事口外に及ぶべからざるの由、参州に諾せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

9月14日

・藤原定家(29)と左大将良経、良経第にて「花月百首」披講。慈円がこれをきく。

「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月を片敷く宇治の橋姫」は、『新古今集』に入集

9月15日

・頼朝上洛のため「御路次の間の事、諸事奉行人を定めらる」。先陣隨兵は和田義盛(小太郎)が奉行し、後陣隨兵奉行は梶原景時(平三)。御厩奉行は、千葉常胤四男「千葉四郎胤信」、八田知家(前右衛門尉)が任じられる。大江広元は、中原親能とともに「六波羅御亭(ぎよてい)事」ならびに「諸方贈物事」を担当する。

その他、「一、御物具の事 三浦の十郎義連 九郎籐次 一、御宿の事 葛西の三郎清重 一、御中持の事 堀の籐次親家 堀の籐次親家 梶原左衛門の尉景季 同平次景高 一、六波羅御亭の事、並びに諸方贈物の事 掃部の頭親能 因幡の前司廣元」(「吾妻鏡」同日条)。

9月16日

・畠山重忠(次郎)、頼朝上洛の供奉のために武蔵より鎌倉に到着。10月2日、上洛の先陣を申し付けられる。

9月16日

「この日伊勢太神宮、新造宮に遷御の日なり。」(「玉葉」同日条)。

9月20日

「・・・御上洛の事、内々思い企てると雖も、諸国洪水の折に依って、右大弁宰相の奉書有り。・・・洪水の事誠に驚き聞こし食す。一国もこの難を免がれざらんか。凡そ左右に能わず。但し上洛に於いては、更にこの事に依るべからず。今に上洛せざれば、朝暮待ち思し食すの処、今年また空しく止めをはんぬるは返す々々遺恨なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

9月21日

・大江広元、「(頼朝の)御入洛以前、京都において沙汰を致すべく」頼朝に先立って鎌倉を発ち京へ向かう(広元、四回目の上洛)

9月14日

・定家と左大将良経、良経第にて「花月百首」の中から十首ずつ撰んで歌合。.俊成が勝負を判じ、兼実は慈円とともに簾中でこれをきく。

9月27日

「院より定長の奉行として仰せ下されて云く、流人三人(兼信・重隆・重家)、未だ配所に赴かず。二位卿上洛以前に、慥に追い下すべきの由沙汰を致すべしてえり。官並びに使の廰に仰せをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。

「巳の刻、重ねて院宣到来す。流人の事、殊に沙汰を致すべし。件の流人配所に赴くの後、参洛すべきの由、頼朝卿申せしむと。・・・」(「玉葉」同28日条)。

つづく

2023年2月21日火曜日

「所得倍増」 いつの間にか → 「資産所得倍増」に化ける。 では、その資産所得の現状値は?と質問すると → 財務大臣「データを把握してない」 ← その場しのぎのゴマカシなの!   

 



 

〈藤原定家の時代278〉文治6/建久元(1190)年4月8日~6月29日 建久改元 女御任子(兼実娘)が中宮となる 一国平均役の収取体制再建(財政問題の課題) 

 


〈藤原定家の時代277〉文治6/建久元(1190)年2月4日~3月20日 足利義兼を大将とする奥州追討軍、大河兼任を衣川に撃破、兼任は土民に殺される 西行(73)、河内の弘川寺にて没 出羽国置賜郡・成島荘・屋代荘・北条荘・寒河江荘の地頭職を大江広元に与える より続く

文治6/建久元(1190)年

4月8日

・慈円「一日百首」成立

4月11日

・建久改元

4月14日

・一条能保室(46、頼朝の姉妹)、没。

4月18日

「美濃の国犬丸・菊松・高田郷等の地頭乃貢を対捍する事、同国時多良山地頭玄蕃の助蔵人仲経神事に従わざる由の事、在廰の申状に就いて、院宣を下さるるの間、二品御下文を遣わさるる所なり。 下す 美濃の国犬丸・菊松・高田郷の地頭等 右犬丸・菊松の地頭(字美濃の尼上)、高田郷地頭保房等、私領の如く知行し、所当以下の勤めを致さざるの由、在廰訴え申すに依って、院より仰せ下さる。仍って勤めを致すべきの由度々下知す。猶以て対捍するの間、重ねて仰せ下さるる所なり。然れば度々の院宣その恐れ少なからず。今に於いては、件の両人の地頭職、他人に改補すべきなり。早く郷内を退出すべきの状件の如し。以て下す。 文治六年四月十八日」(「吾妻鏡」同日条)。

4月19日

・九条兼実(42)、太政大臣辞任。

4月19日

・成勝寺執行昌寛(頼朝の奉行を度々務めた後家人)、越前の鳥羽・得光・丹生北・春近4ヶ所を知行し、伊勢内宮の役夫工米(式年遷宮の費用)納入を全て済ませたとされる(「吾妻鏡」同日条所載の注文)。4ヶ所は京都白河に建立された六勝寺の一つの成勝寺領ではなく昌寛は地頭職。

「造太神宮の役夫工米地頭未済の事、頻りに職事の奉書有り。神宮使また参訴するの間、不日に沙汰を致すべきの旨下知し給う。子細有る所々に於いては、今日京都に注進せしめ給う。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

4月22日

・後鳥羽帝の生母藤原殖子に七条院の院号宣下

4月26日

・女御任子(九条兼実娘)が中宮となる。 

28日、立后の儀。定家、参仕。

4月29日

・大江広元、藤原俊兼・平盛時とともに造大神宮役夫工米(やくぶくまい)を地頭が納入していない所領に対する成敗の沙汰を奉行する。

この年、頼朝は、平和状態の回復だけでなく、財政問題を含めた国家秩序の再建にも力を入れた。伊勢神宮の式年遷宮等のような、国家規模で取り組まなくてはならない重要な行事のための費用を荘園公領の別なく賦課する、いわゆる一国平均役の収取体制を再建することは、国家財政問題の中で頼朝が最も力を注いだ課題の一つである。

頼朝が特に重視したのは、いかにして地頭御家人たちを一国平均役の賦課に協力させるか、という問題であった。

この時朝廷に注進された役夫工米未済所々のリストには、広元自身の所領である伊勢国小倭(こやまと)荘(小倭田荘)の名が見える。同荘を含め9ヵ所に及ぶ伊勢国の広元所領は、文治3年(1187)3月30日に作成された伊勢国在庁注進状の中でも公卿勅使駅家雑事(くぎやうちよくしうまやぞうじ)未済の所領とされている。

5月

・従三位皇太后宮権大夫の四条家の季隆、没。正三位権中納言の隆房が後継。隆房の正妻は、建礼門院徳子と最も親しい同母妹。建久初年頃、建礼門院は大原から善勝寺に移る。善勝寺は、四條家の家の寺で法勝寺西南に位置している。四條家の家長は、「善勝寺長者」と称し、善勝寺を領有・管理。女院の善勝寺止住は30年近く続いた模様。

5月3日

・藤原定家(29)、中宮任子八社奉幣の奉幣使となり稲荷社に参る(「玉葉」)

5月12日

「加賀の国井家庄の地頭都幡の小三郎隆家不義の事、仙洞より仰せ下さるるの間、今日下知を加えしめ給う。平民部の丞盛時これを奉行す。 井家庄内都幡の方、地頭と号し方々に不当を致すの間、領家の所命を用いず、京下の使者を受けず。所務を押領し、士民を冤陵す。況や自名の課役、一切その勤めを致さざるの由、院より仰せ下さるる所なり。所行の至り、奇怪極まり無し。直に地頭職を停止すべきと雖も、先ず下知し遣わす所なり。自今以後領家の命に違背せしめば、地頭職を停廃せしむべきなり。その上隆家の身も重科を遁れ難からんか。仰せの旨此の如し。仍って以て執達件の如し。 五月十三日 盛時(奉る)」(「吾妻鏡」同日条)。

5月28日

・慈円「宇治山百首」成立

6月25日

・藤原定家(29)、「一字百首」を詠む。

同26日、「一句百首」。定家の勧進で慈円等も詠む(「拾玉集」)。

6月29日

・頼朝、後白河院へ、「天下落居の後は、万事君の御定を仰ぐべく侯事なり。しかるに家人を大切と存じ候いて、御定に背き候わんとは、さらに存ぜず候事なり」(「吾妻鏡」同日条)と述べる。院に対する頼朝の忠誠心を示す。

「諸国地頭等の造太神宮役夫工米の事、多く以て対捍有るの間、造宮使頻りに子細を申すの間、重ねて仰せ下されをはんぬ。仍って日来その沙汰を経られ、且つは地頭等に触れ仰せられ、且つは請文を進せらると。・・・の中相模・武蔵は近境に候の間、能く下知を加えしめ、早速究済の勤めを致し候いをはんぬ。自余六箇国は、その程を相隔て候が故、国務沙汰人に申し付けるの間、先例を守り沙汰を致せしめ候か。・・・遠江の国の事、謹んで承り候いをはんぬ。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく

2023年2月20日月曜日

小学校英語、韓国は日本より130時間長く 海外留学3倍差 グローバル教育・政策を読む 各国に学ぶ(上)(日経 会員限定)

 

伝説的ミュージシャン獄中死で勝利的和解、受け継いだ「自由と解放へのメッセージ」(2023年02月18日) / 伝説的ミュージシャン伊藤耕はなぜ刑務所で死んだのか 真相を追求する妻の思い(2020年04月11日) ; 弁護士ドットコム   

H3ロケット開発遅れ・ジェット旅客機挫折は日本の有能「理系人材」不足が原因(現代ビジネス);「打ち上げようとして打ち上げられなかったのだから「打ち上げ失敗」は明白なのに、想定内の事象だから「計画中止」だというのは、いかにも官僚的詭弁に思える。ご飯論法にも似てるし、撤退を転進に言い換えるのと重なるし、そういえば米軍も墜落を「激しい着陸」、事故を「できごと」と言ってた」(松本創) / 「鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられる予定でしたが、ロケットは打ち上がりませんでした。」(NHK) / 打ち上げ中止「H3」会見で共同記者の質問に批判相次ぐ ロケットを救った「フェールセーフ」とは ← フェールセーフの実験したのか? / 「あり得ない」「敬意のかけらもない」 H3打ち上げ中止、JAXA会見で反発広げた「記者の捨て台詞」        



 

〈藤原定家の時代277〉文治6/建久元(1190)年2月4日~3月20日 足利義兼を大将とする奥州追討軍、大河兼任を衣川に撃破、兼任は土民に殺される 西行(73)、河内の弘川寺にて没 出羽国置賜郡・成島荘・屋代荘・北条荘・寒河江荘の地頭職を大江広元に与える   

 


〈藤原定家の時代276〉文治6/建久元(1190)年1月3日~1月29日 後鳥羽天皇(11)元服 定家(29)従四位下 泰衡の旧臣・大河兼任の乱(千葉常胤・比企能員に追討命令) 兼実(42)娘任子(16)、後鳥羽天皇(11)に入内(4月26日、中宮) より続く

文治6/建久元(1190)年

2月4日

・頼朝、諸国御家人に10月上洛予定である旨を通知し、随兵その他の準備をするよう指示。

「来十月御上洛有るべきに依って、随兵以下の事、諸国の御家人等に触れらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月11日

・足利義兼が辞任した上総介の後任として、平親長が任ぜられ、目代等国務を行う。

「上総の国は、関東御管領九箇国の内たり。源義兼を以て国司に補任せらるるの処、去年御辞退の間、正月二十六日、遠江の国と同日国司(平親長)に任ぜらる。仍って今日目代等国務すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月12日

・足利義兼を大将とする奥州追討軍、大河兼任を衣川に撃破、兼任は土民に殺される。

「各々昨日平泉を馳せ過ぎ、泉田に於いて凶徒の在所を尋ね問うの処、兼任一万騎を率い、すでに平泉を出るの由と。仍って泉田を打ち立ち行き向かうの輩、足利上総の前司・小山の五郎・同七郎・葛西の三郎・同四郎・小野寺の太郎・中條の義勝法橋・同子息籐次以下雲霞の如し。縡昏黒に及び、一迫を越えるに能わず。途中の民居等に止宿す。この間兼任早く過ぎをはんぬ。仍って今日千葉の新介等馳せ加わり襲い到り、栗原一迫に相逢い挑戦す。賊徒分散するの間、追奔するの処、兼任猶五百余騎を率い、平泉衣河を前に当て陣を張る。栗原に差し向かい、衣河を越え合戦す。凶賊北上河を渡り逃亡しをはんぬ。返し合わすの輩に於いては悉くこれを討ち取り、次第に追跡す。而るに外浜と糠部との間に於いて、多宇末井の梯有り。件の山を以て城郭と為し、兼任引き籠もるの由風聞す。上総の前司等またその所に馳せ付く。兼任一旦防戦せしむと雖も、終に以て敗北す。その身逐電し跡を晦ます。郎従等或いは梟首或いは帰降と。」(「吾妻鏡」同日条)。

「大河の次郎兼任、従軍に於いては悉く誅戮せらるるの後、独り進退に迫り、華山・千福山本等を歴て、亀山を越え栗原寺に到る。爰に兼任錦の脛巾を着し、金作の太刀を帯すの間、樵夫等怪しみを成す。数十人これを相圍み、斧を以て兼任を討ち殺すの後、事の由を胤正以下に告ぐ。仍ってその首を実検すと。」(「吾妻鏡」3月10日条)。

2月22日

「造伊勢太神宮役夫工米の事、諸国の地頭等未済有るの旨、去年十二月師中納言の奉書到着するの間、日者沙汰を経られ、今日御請文を奉らると。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月26日

西行(73)、河内の弘川寺にて没。辞世「願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの 望月のころ」

藤原定家(29)、西行逝去を悲しみ良経・公衝と贈答歌一首

2月23日

・千葉胤正・葛西清重・堀親家ら、奥州平定の旨を鎌倉に発す。


3月2日

「五位蔵人光綱を召し、前の大僧正公顕を以て、天台座主に補すべき事、御燈斎を過ぎ、明後日(四日)宣下すべし。予め上卿已下催し儲くべきの由仰すなり。」(「玉葉」同日条)。

「この僧正は二品御帰依の僧なり。八十一の老後この慶賀有りと。」(「吾妻鏡」同10日条)。

3月9日

「法金剛院領怡土庄の事、地頭職を去り進せしめ給うべきの由、度々院宣を下されをはんぬ。而るに奥州征伐の後仰せに随うべきの趣、先日御請文を献らるるの間、義経・泰衡滅亡しをはんぬ。然れども猶能盛法師知行し難きかの由御沙汰有り。院宣を下され今日到来すと。 ・・・是非を云わず、地頭を止めしめ給わば宜しかるべき事か・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

3月15日

「左近将監家景(伊澤と号す)、陸奥の国留守職たるべきの由を定めらる。彼の国に住し、民庶の愁訴を聞き申し達すべきの旨、仰せ付けらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月16日

・藤原定家(29)、石清水臨時祭舞人家隆と和歌を贈答。

3月20日

・大江広元、鎌倉に帰参。

「去年冬、御使として上洛するところなり。二品(にほん)申さしめ給う条々、ことごとくもって勅答あり。つぶさにその趣を言上(ごんじよう)す」(『吾妻鏡』)。

「頼朝の戦争」を朝廷に追認させるために働いた広元の功に報いるため、頼朝は新たな占領地の中から、出羽国置賜(おきたま)郡・成島(なるしま)荘・屋代荘・北条荘・寒河江荘の地頭職を広元に与える。


つづく



子どもが成田悠輔に「老人が自動でいなくなるシステムを作るとしたらどうやって作りますか?」と質問して、、、 / 成田悠輔が「集団自決」を「社会保障改革」として論じている、、、相手は自民党議員の古川俊治と村井英樹 / 成田悠輔、ニューヨークタイムズの取材には集団自殺論はメタファーだと言ってたのに、動画では「メタファーじゃない」「ファッションとしてのハラキリは成立し得る」とか言い切ってる / 成田悠輔「高齢者は集団自決した方がいい」NYタイムズが発言報じて世界的大炎上「この上ないほど過激」(FLASH) / 成田悠輔さんの高齢者集団自決発言、ニューヨークタイムズで1250万ビューの世界的炎上 / 「シュピーゲル」(独)にも / 「Business Insider」にも / 「デイリー・メール(英)」にも / 韓国、ベトナム、トルコ、フランス、スペインでも        

 

 

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 成田悠輔って、こういうヒトだったんですね → 「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」 「高齢化が進む日本社会『解決策は安楽死』」 / 肩書が、「イェール大学助教授」から「イェール大学助教」に (「助教授」は「準教授」っぽく見せるための手段だったのか?)