2010年11月21日日曜日

弘治2年(1556)1月~4月 毛利氏、周防山代一揆を鎮定 三河野寺原の戦い 斎藤義龍謀反 斎藤道三(63)敗死 [信長23歳]

弘治2年(1556)
この年 
信長23歳、光秀29歳、秀吉21歳、家康15歳
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・大友氏のもとに鉄砲鍛冶が仕え、本格的鉄砲生産に入る。
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・松永久秀(47)、三好長慶から摂津滝山城を預けられ、初めて城持大名となる。
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・若狭守護武田信豊の隱居を廻り被官の間で争い。
信豊の弟で信豊を支持する小浜新保山城主武田信高が没し、家督を子の義統に讓る。
その後、隱居料を廻り不和。
信豊は一時近江に逃げるが、永禄元年(1558)には若狭に帰国い、義統軍と戦う。
永禄4年頃迄に和議成立、帰国を果たす。
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・毛利氏、これまで同盟者的性格の濃厚であった安芸国人の熊谷氏をようやく臣従させる事に成功、小方村之内100貫など計「二百貫文之地」を宛行う。
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・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、ノストラダムスを占星術士として召し抱える。
ノストラダムス、「詩百篇(サンチュリ、1555年)」でアンリ2世が目を抉られて死亡と予言。
イタリアの占星術士ルーカス・ガウリエことシメオーニ、1552年にアンリ2世について予言(「40才の頃、決闘により傷を受けて盲目となり落命」)。
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・フィレンツェ、トスカナ大公コジモ・デ・メディチ長女マリーア・ルクレツィアとフェラーラ大公長男アルフォンソ・デステ、婚約。
マリーアはコジモの直属従者マラテスタ・ディ・マラスティとの恋愛を咎められ、コジモにより殺害される。マラテスタは7年間サン・ジョヴァンニ砦に幽閉、1564破獄、のち消息不明。
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1月1日
・芥川城で火災。松永久秀や義興の陣所などが焼ける。11日、久秀、芥川城引き上げ。  
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1月6日
・藤堂高虎、誕生。父は近江浅井氏家臣の源助虎高。
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1月16日
・神聖ローマ帝国カール5世(スペイン王カルロス1世)、退位。
スペイン、シチリアを息子フェリペ2世に譲渡(妻はイギリス女王メアリ1世)。
神聖ローマ皇帝には叔父でオーストリア・ハプスブルクのフェルディナンド1世が就任。
フェリペはイギリスを離れ、スペインにも戻らず、フランドルの統治に専念。
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1月21日
・[明・嘉靖34年12月10日]甘粛省と陝西省の間で大地震、83万人?死亡。
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2月9日
・周防山代(玖珂郡)「五こ」の高森城に集結した毛利援軍、「八こ」の大内方成君寺城攻撃開始。
12日頃、落城。
3月3日、成君寺城の戦いに敗れた山代地侍が逃げ込んだ都濃郡須々万の沼城、毛利軍により落城。
11日、毛利氏は周防山代一揆を鎮定
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2月11日
・三好長慶、山城にて7ヶ条の掟を定める。松永久秀がこれを奉行する。
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2月13日
・アンリ2世、ヴォーセルでカール5世との「休戦協定」公表。カール5世敗北。ドイツ・プロテスタント排除出来ず。メッツ奪取出来ず。
フランス、3司教領(メッツ、トゥール、ヴェルダン)保持ほか現状維持。
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3月
三河野寺原(安城市)の戦い
信長自ら、三河西条城の吉良義昭の手引きにより三河幡豆郡荒河に侵入し野寺原で今川氏の軍勢と戦う。
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・三好長慶、摂津本興寺門前寺内貴布禰屋敷へ全5ヶ条の「禁制」下す(「本興寺文書」)。
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3月10日
・安房の里見義弘、軍船数十艘・兵力5千で城ヶ島に上陸、三浦半島に侵攻、北条氏と合戦し勝利。
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3月18日
・毛利軍、大内義長と三瀬川に戦う。
元春、石見に出陣。銀山山吹城守はじめ石見の諸将降る。
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3月23日
・前カンタベリー大司教・英宗教改革者トーマス・クランマー(67)、火刑。新教徒の弾圧。
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3月28日
・吉川軍(吉川元春・宍戸隆家・口羽通良)、邑智桜尾城・堀重利、赤谷城・三宅由左衛門、中村城、福屋氏出城・川登松山城(かわのぼりまつやまじょう)を陥落。
福屋隆兼は降伏、吉川家の傘下へ従ずる。
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4月
・宇治橋の新造につき、松永長頼がこれを沙汰する。
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・毛利軍、須々万沼城(都濃郡)を攻撃、落とせず。
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・豊前の宇佐郡衆、厳島で勝利、毛利氏に内応の気配。
大友義鎮、豊前竜王城に入り、これを鎮圧。
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・ネーデルラントの一部貴族、宗教裁判所の廃止と異端攻撃の停止を求めて立ち上がる。
カルヴァン派の勢力増大し、都市の城壁外で説教集会が開催されるようになる。
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4月上旬
・尾張守護の斯波義銀と三河守護吉良義昭、三河上野原で会見。
信長は、斯波義銀を形式上の国主として仰ぎ、これに随行する。
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4月1日
斎藤義龍謀反
義龍、道三の実子龍重・龍定を謀殺。道三に挑戦。
(道三の妻は、元美濃守護土岐頼芸の妻、嫁いで7ヶ月後に義龍を生む。
このため、道三は頼芸の子ではないかと疑い、義龍も頼芸を父と考えるようになり、お互いの疑心暗鬼が父子の戦いに発展。)
18日、斎藤道三2,700余、稲葉山西北鷺山に着陣。義龍17,500と対戦。
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天文23年(1554)3月、道三は突然隠退して家督を子の義龍に譲る。
この家督交替劇は斎藤家重臣らによる強制的なものであったと考えられている。
道三は策謀により美濃を掌中に収めたが、国内統治者としては家臣の支持がなかったという。
従って義龍に対して挙兵した道三に応じる者は少ない。

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4月5日
・北條氏康、結城政勝援助のため常陸に出陣、大島台で小田政治を破る。
北条氏康、古河公方義氏後見者という政治的特権を武器に豪族的領主たちの紛争に仲介・介入。
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4月20日
・斎藤道三(63)、長良川で敗死。
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20日、義龍、進発。
道三も鷺山を下り長良川まで進軍、ここで両者が激突。
合戦は義龍勢の先手竹腰道塵の突撃で始まる。
竹腰勢は密集隊形で長良川を渡河、道三本陣へ斬かかる。道三は竹腰勢を潰走させる。
竹腰勢の壊乱後、義龍は、旗本勢を率い渡河。
この時、義龍勢から長屋甚右衛門が一騎前へ出て武者名乗りをあげる。道三勢からは柴田角内が出てこの挑戦に応じ、両軍間で一騎打ち。
勝負は、柴田が長屋の首を挙げて決し、その瞬間、両軍、全軍突撃を命じる。
戦いは混戦。無勢の道三の前まで義龍勢が押し寄せる。
道三旗本勢が崩れる中、寄せ手の長井忠左衛門が道三に組み付き、もみ合ってるところへ小真木源太が走り寄り道三の脛を薙ぎ、押し伏せて首を切る。(「信長公記」)
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信長、道三より美濃1国の譲り状を受け、美濃大良口に進出。
義龍軍2千、大良口の信長陣所にも軍勢を差し向け、両軍は大良の河原で激突。
信長は道三戦死を知り退却。
信長の盟友道三の死は、尾張の状勢にも変化をもたらす。
尾張上4郡の尾張守護代岩倉城主織田信安(父信秀の従兄弟)は、斎藤義龍と結び、清洲近くの下之郷に侵入して放火。
帰国後間もない信長は、兵を率いて岩倉に攻め寄せ、近在の伊勢守領を焼き払い、その日の内に帰城。(「信長公記」)
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4月21日
・朝倉義景、将軍義輝の仲介により加賀一向一揆と和睦、加賀より撤兵(堺真宗寺本「私心記」4月26日条)。
4月初旬の休戦交渉の際、主戦派超勝寺教芳は本願寺使者下間頼言を「毒病死」させ、超勝寺内衆は「火起請」を取られる(同、弘治3年5月14日条)。
以後、北陸政治史に超勝寺に見えなくなる。天文15年金沢に御坊が設置され、超勝寺の存在意義も大幅に減じている。
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「★信長インデックス」 をご参照下さい。
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