2010年11月6日土曜日

天文24年(1555)6月~9月 信長一族の不慮の事故が続く 信玄の木曽侵攻(信濃のほぼ全域を掌握) 大友宗麟のイエズス会保護 アウグスブルクの宗教和議  [信長22歳]

天文24年(1555)6月
・朝倉教景を大将とする越前軍、加賀江沼郡へ大規模侵攻(堺真宗寺本「私心記」6月7日条)。
7月23日江沼郡一帯で、8月13日(証如1周忌)同郡菅生口・敷地口で激戦。
*
6月8日
・毛利元就、自ら厳島に渡る途中、陶晴賢方の偵察船3艘を撃破。
11日、・毛利氏、厳島宮之城に己斐豊後守を入れる。
*
6月26日
'・織田信長・信行の弟秀孝が、馬で守山城主織田信次の側を一騎駆け中、織田信次の家臣洲賀才蔵が秀孝と知らずに矢を放ち、落命。
信次は報復を恐れて出奔。
末盛の信行は守山に攻め寄せ城下に放火するが、信長は秀孝の方にも非があることを認める。(「信長公記」)
*
信長は、佐久間信盛の進言を入れ、守山城を弟の安房守秀俊(信時)に与え、信次の宿老角田新五郎・坂井喜左衛門はそまま秀俊に付属させる。
その後、翌弘治2年6月、秀俊が家臣角田新五郎にしき弑逆される。
坂井喜左衛門の息子孫平次の出世を妬んだ角田が岩崎城の丹羽氏勝を味方にして、城中に攻め入って秀俊を殺害したという。

*
この前年~翌年、信長一族の不慮の事故・死亡が相次ぐ
全くの偶然とは思われず、尾張統一を目指す信長が陰で糸を引いた可能性がありうる。
*
6月28日
'・周防山口の教会大道寺で初のミサ。
*
*
7月10日
・フロリダを根拠地とするフランス人海賊ジャック・ソワール、第3回目のハバナ襲撃、ハバナを一時占領し略奪。
スペインはハバナの城壁を強化する一方、フロリダをキューバ総督の管轄としフランス人海賊の駆逐に乗り出す。
*
7月16日
・後奈良天皇、比叡山延暦寺から東寺の素絹衣(天台僧の着衣)が寺法に背くという訴訟に応え、真言宗に停止の旨と天台宗を支持する綸旨を常陸国江戸崎不動院へ下す。
*
7月18日
・津島で踊り興行。信長自ら天女の出で立ちで舞う。
*
7月19日
・第2次川中島の戦い。
武田晴信、川中島大塚に進出。犀川はさみ対峙。
対陣は4ヶ月に及ぶ。
閏10月15日、謙信は、駿河・今川義元の調停により晴信と和睦して越後に帰還。
*
7月23日
・越前守護朝倉義景、部将朝倉教景(宗滴)に加賀の一向一揆を攻撃させる。
朝倉教景、大聖寺などに立て籠もる加賀一向一揆を撃破。
*
*
8月
・信長、尾張熱田神宮座主坊(天台宗如法院)へ直務する社領秋武町の畠・屋敷を安堵(「熱田神宮文書」)。
*
8月2日
・三好長慶、亀井佐介と法金剛院珠栄との下地相論を裁許し、法金剛院珠栄に安堵(「法金剛院文書」)。
*
8月13日
・加賀一向一揆、朝倉教景と浜手で戦いこれを破る。
朝倉教景(宗滴)、加賀一向一揆を鷹尾山におびき出しこれを撃破、大勝。
*
8月14日
・三条西公条、大覚寺義俊、宗養、里村紹巴らは、源氏講釈竟宴として近江国石山寺において「石山千句」を始める。
*
8月21日
信玄の木曽侵攻
武田信玄、木曾福島に侵入、木曾義康・義昌父子の木曽郡・福島城を包囲。
義康は降伏・開城。父子は武田家に臣従、11月末、甲府に出仕。
義康は娘を質として甲府に送り、晴信3女を義康の嫡男義昌に嫁がせる。
*
この年頃までに、信濃は善光寺平以北を除きほぼ全域が武田氏領となる
*
8月27日
・石見津和野城を包囲した陶晴賢、長門へ軍を返す。城主吉見正頼は長門徳佐まで追撃。陶軍の殿・益田藤兼は命からがら益田へ逃げ帰る。
*
*
9月
大友宗麟のイエズス会保護政策
ルイス・デ・アルメイダ、府内に小児科医院を設立。
この年、大友宗麟、豊後府内にイエスズ会育児院建築許可。また、イエズス会に地所・会堂を寄進。
*
・三好長慶、播磨東2郡と北摂津の北側を固めるため、篠原長逸に摂津軍をさずけ、八上城(波多野晴通)攻略を命令。
長逸は生瀬口(宝塚市)から武庫川を溯り、有馬郡を通過し多紀郡に入る。
八上城包囲は長引き、波多野氏のゲリラ戦、桑田郡宇津の三好政勝らの背後の脅威により長逸は総退却。
この退却時、波多野氏は徹底的なゲリラ攻撃をかけ長逸は八上城に使者を派して和議を結ぶ。
*
9月8日
・朝倉教景(宗滴、79)、越前一乗谷で病歿。貞景・孝景・義景3代を補佐し朝倉氏の領国支配を支える。
*
9月21日
'・陶晴賢、岩国から厳島に渡り、塔の岡(豊国神社=千畳閣付近)に本陣。毛利方の宮の城を攻撃。
*
9月23日
'・毛利軍先鋒が安芸地御前(じのごぜ)に、本隊は草津に、集結。
*
9月25日
アウグスブルクの宗教和議
アウグスブルク帝国議会。フェルナンドの調整。
ルター派の存在を認める宗教和議の取り決め成立。
メランヒトンの「アウグスブルク信条」をほぼそのまま採択。
「臣下はその支配者の宗教に従う」原則。
領邦、都市が、新(ルター派)旧教を自由裁量で採択。
新旧両教徒の同権を承認(ツヴィングリ派、カルヴァン派、その他分離宗派は排除)。
*
9月26日
'・毛利元就、小早川隆景に伊予水軍招致を督促。
27日、伊予水軍の参加をあきらめた毛利元就、全水軍120艘を集結。
一方、陶晴賢方の三浦房清、厳島宮の城の堀を埋め立て、落城寸前に追い込む。
28日、毛利軍、火立岩に本陣を移す。
同28日、伊予水軍200艘、毛利軍救援のため安芸廿日市沖に現れる。
*
9月29日
'・安芸地御前火立(ホタテ)岩に全軍を集めた毛利元就、合い言葉「勝つ」・「勝つ」を定め隠密渡海と奇襲攻撃の命を下す。
30日、毛利軍、暴風雨の中、厳島鼓ヶ浦に上陸。
*
*
「★信長インデックス」をご参照下さい
*
*

0 件のコメント: