2012年8月15日水曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(33) 「二十二 車が走るモダン都市」(その2)

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-07-31
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(33)
 「二十二 車が走るモダン都市」(その2)

「濹東綺譚」(昭和12年)の「作後贅言」。
夜の銀座のタクシー乗り場の混雑ぶりについての記述。
「萬茶亭(バンサテイ)の前の道路にはこの時間になると、女給や酔客の帰りを當込んで圓タクが集って来る」
「服部の鐘の音を合圖に、それ等の酒場やカフヱーが一斉に表の灯を消すので、街路は俄に薄暗く、集って来る圓タクは客を載せても徒に喇叭を鳴すばかりで、動けない程込み合ふ中、運転手の喧嘩がはじまる」

「日乗」昭和7年11月3日
タクシー乗り場の混乱を描く記述。
「銀座を一周して万茶に憩ふ。石原大和田酒泉の諸氏と笑語夜半に至る。サロンハル入口にて水兵と自働車運転手との喧嘩あり。運転手満面血まぶれになる。大に面白し。盛り場に喧嘩なき時は何となく物足らぬ心地せらるゝ也」

日本の自動車保有台数:
大正12年に1万4737台、震災後の昭和3年には6万533台に増大。そのうち1/3は東京。

「中央公論」大正13年5月号特集「自動車横行時代」
菊池寛、佐藤春夫、宇野浩二、小川未明、生方敏郎、近松秋江、白柳秀湖、久米正雄、上司小剣、長田秀雄、徳田秋声らが自動車時代に対する雑感を寄せる。

「横行時代」という表題が示すように大半が自動車に対して批判的だが、菊池寛だけは、車の便利さを認めて肯定的な感想を書いている。
以前は「タクシ」に乗るのは贅沢だったが、最近ではよく乗るようになった。「小型や実用自動車(*当時のタクシー会社の名前)になると、料金が安く人力車よりも遙に安い。一人乗つてさへ安いのだから、二三人乗れば、人力車賃三分の一位で乗れるわけである」。
さらに「この頃は、自動車の安いことは驚くばかりで、スタアとかシボレイなどは、二千二三百圓で附属品一切買へるらしい。中古なら千圓も出せば可なりよい車が買へるとの事で、僕等にも自動車を持つことが分不相應なことでもなくなりかけてゐる」

長田秀雄
「現代は自動車横行時代である。世智辛き世の中は自動車によって、一段と世智辛くなった。もし、三十年前の日本人を、今日の銀座街頭の夕暮れに、一人立たせたならば、彼は必ずや数時間にして、発狂してしまうだろう」

藤岡長敏(警視庁交通課長)「震災後の交通事故と自動車」。
震災前までは東京市内の自動車は、自家用、営業用、貨物、乗用を合せて5千台余、震災後には9千台に急増。しかもなお増え続け、1ヶ月に約300台増えている。その結果、自動車事故も増える。震災後の6ヶ月間の交通事故死者は90人。2日に1人が死んでいる。そのうち半数は自動車事故。まさに「自動車横行時代」である。

「濹東綺譚」冒頭
日本堤の古本屋の主人と客が、「つくづく自動車はいやだ。今日はすんでの事に殺されるところさ」
「便利で安くつてそれで間違ひがないなんて、そんなものは滅多にないよ。それでも、お前さん。怪我アしなさらなかつたか」
「お守が割れたおかげで無事だった。衝突したなア先へ行くバスと圓タクだが、思出してもぞっとするね」という会話を交わしている。

荷風は、江戸趣味にひたりながらも他方ではモダン都市東京の新しい風俗にも敏感で、「つゆのあとさき」「夜の車」「おもかげ」などで東京の夜を走るタクシーの姿を生き生きと描いている。
荷風のなかでは、人力車と車がみごとに共存している。
荷風は、決して過去追慕だけの作家ではない。
展墓趣味の荷風は、同時に、夜のタクシーの生態を観察するモダンな荷風でもある。

「つゆのあとさき」では、荷風は、銀座のカフェーで働く若く奔放な女給の君江が、つとめが終ったあとタクシーで下宿先の市ヶ谷本村町まで帰っていく姿を描く。その姿は現代のキャリア・ウーマンと変らない。彼女は、タクシーの運転手に言い寄られる。拒絶すると嫌がらせをされ、降りたとたんに車が走り出し、ひっくりかえって大怪我をする。いわゆる「朦朧運転手」である。

「夜の車」では、タクシーの運転手が客に私娼を紹介する姿が描かれる。
「日乗」大正14年10月8日、運転手に東京の私娼を紹介されたという記述があるが、それを題材にしている。

荷風にとって「タキシ自働車」は、モダン都市東京の裏表を知り尽した新時代の”浮世床”である。運転手の話、車に乗る女給たちの話、乗り場での混乱。そこから新しい都市風俗の物語が生まれてくる。
「つゆのあとさき」「夜の車」「おもかげ」など、荷風が昭和初期にタクシーに注目して小説を書いたことは記憶していい。いわばそれらの作品は、現代ふうにいえば「都市小説」である。

「タキシ自働車にて四谷愛住町なる女の家まで送り、麻布に帰る」(大正12年1月8日)、
「自働車にて明子を小石川原町の家に逸り行きて後、家に帰る」(大正15年9月17日)、
「お歌を件ひ虎の門より自働車に乗り酉の市に赴く」(昭和2年11月11日)、
「駒子と自働車を倶にして帰る」(昭和8年10月21日)
大正末から昭和にかけて「自働車」に乗る記述が目につく。多くの場合、女性といっしょ。芸妓、カフェーの女給、愛人、私娼。「自働車」は、男と女が逢瀬を楽しむ密室の役割も果している。この点も現代を先取りしている。

「「自働車」の役割で重要なのは、それが市電や市バスとは違う自由な交通手段だったため、東京の夜を深めたことである。・・・カフェー文化の隆盛や映画館の人気もこのことと関わっている。モータリゼーションの結果、モダン都市東京は、夜型都市になっていった。山の手の人間が下町のはずれにある玉の井にまで足を運ぶ「濹東綺譚」が生まれるのも車社会の恩恵があればこそである。」(川本)

「濹東綺譚」の「作後贅言」のなかで、友人(神代帚葉)の説として紹介している。
「わたくしは東京の人が夜半過ぎまで飲み歩くやうになった其状況を眺める時、この新しい風習がいつ頃から起ったかを考へなければならない。
吉原遊廓の近くを除いて、震災前東京の町中で夜半過ぎて灯を消さない飲食店は、蕎麦屋より外はなかった」
「現代人が深夜飲食の楽しみを覚えたのは、省線電車が運転時間を暁一時過ぎまで延長したことゝ、市内一圓の札を掲げた辻自動車が五十銭から三十銭まで値下げをした事とに基くのだ」

タクシーはいまと違って夜間になると料金が下がった。
それが東京の夜を深めていった。
荷風は東京の夜の変化にも敏感である。
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