2012年8月15日水曜日

永観3年/寛和元年(985) 「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。通俗貴賤、誰か帰せざる者あらん。」(源信『往生要集』)

東京 北の丸公園 2012-08-07
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永観3年/寛和元年(985)
この年
・花山天皇の女御忯子(しし)、妊娠8ヶ月で没。大納言藤原為光(兼家の異母弟)の娘、弘徽殿の女御と呼ばれる。
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1月
・正月6日夜、洞院西大路土御門の辺(大内裏の上東門を東へ4~5五町(500~600m)の辺りで刃傷事件。
文人で有名な弾正少弼大江匡衡が何者かに襲われ、左手の指を切り落とされた。

続いて同月20日、左大臣邸の大饗という新年宴会に、中門のうちで下総守藤原季孝が顔を傷つけられる。犯人追捕の命令は出されたが、誰が犯人か判らないまま日が過ぎる。

3月下旬になって、どこからの情報なのか、季孝を傷つけた容疑者は左兵衛尉藤原斉明(藤原保輔の兄)の従者であるということになった。早速検非違使別当が事の次第を天皇に奏上し、検非違使右衛門尉源忠良らが、斉明のところに赴き容疑者を連行する、もし斉明が従者を差し出さなければ、斉明も逮捕するという命令が下された。
斉明はこのとき、摂津にいるというので、検非違使たちは摂津に向かう。

5日後、検非違使は帰京して結果を奏上。
それによると、斉明逮捕に向かったが、既に船に乗って海上に逃れてしまったので、その郎党を捕らえたところ、斉明が匡衝を傷つけ、弟の保輔が季孝を襲ったこと疑いないという。

保輔は父藤原致忠の家にいるとのことで、検非違使が捜索したが見当たらない。
家では、保輔はその日の朝、長谷寺へ旅立ったという父の致忠は、5日以内に保輔を出頭させるとの誓約書を出したが、その後、保輔は捕えられていない。
兄の斉明は、山陽・南海・西海の諸道に追討官符が出されているので、東国へ逃げようとしたらしい。

4月22日、前播磨掾惟文(これぶみ)王が近江国高島郡で賊斉明を射殺したという噂が京に伝わって。
この噂は真実で、5月13日、改めて斉明・保輔兄弟の罪状が議せられ、同月20日、斉明の首は京都で獄門にかけられ惟文王は賞せられた。
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1月25日
・藤原実資、この日付けの日記に、今年から永久に卵を食べないと本尊に誓った由を記す。
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4月
・寛和に改元。
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源信『往生要集』が横川で成立。

源信と『往生要集』
源信(942~1017)は、大和国葛城下郡当麻郷に生まれ、父は卜部正親、母は清原氏。
比叡山に登り、横川の良源に入門。天延2年(974)、宮中の季御読経(きのみどきよう)の内論義で南都の奝然と対論。
天元元年(978)頃、書写山に性空(しようくう)方油粧雅浩を訪ねる。性空は深山に苦行修行する持経聖(じきようひじり)として著名であり、花山法皇や慶滋保胤など文人貴族も多く書写山を訪れている。またこの頃、保胤を中心に多くの文人貴族が参加した念仏結社である勧学会とも交流をもった。

こうした中で浄土教への関心がめばえ、日常の念仏のあるべき姿、つまり観想念仏の理論の体系化を求め、『往生要集』執筆に至る。
『往生要集』起筆は永観2年(984)11月。

その序文:
「それ往生極楽の教行は、濁世(じよくせ)末代の目足(大切なもの)なり。通俗貴賤、誰か帰せざる者あらん。ただし顕密の教法は、その文、一にあらず。事理の業因、その行これ多し。利智精進の人は、いまだ難しと為さざらんも、予がごとき頑魯(がんろ)の者、あに敢てせんや。この故に、念仏の一門に依りて、いささか経論の要文を集む。これを披(ひら)きてこれを修むるに、覚り易く行ひ易からむ。惣(す)べて十門あり、分ちて三巻となす」

浄土往生のためのわかりやすい念仏実践の書を3巻10章(一厭離穢土、二欣求浄土、三極楽の証拠、四正修念仏、五助念の方法、六 別時念仏、七 念仏の利益、八 念仏の証拠、九 往生の諸行、十 問答料簡の十章)に纏めた。
自分だけのための実践の書ではなく、同信同行のための書であった。
『往生要集』は、世の念仏者に大きな反響をよんだ。
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