2013年5月22日水曜日

オミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(72) 「第7章 新しいショック博士-独裁政権に取って代わった経済戦争-」(その4終)

江戸城(皇居)東御苑 2013-05-09
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称賛を浴びる「ボリビアの奇跡」とジェフリー・サックス
 ショック療法の実施直後、ボリビア国外では複雑な影響は殆ど取り沙汰されず、ハーバードからやってきた若く勇敢な学者が、事実上たった一人の力で「インフレで荒廃したボリビア経済を救った」(『ボストン・マガジン』誌)という、ごく単純な物語が語られるだけだった。

 サックスの助力を得てインフレに勝利したという事実によって、ボリビアは自由市場経済の輝かしいサクセス・ストーリー(「現代にあってもっとも驚異的」(『エコノミスト』誌))に仕立て上げられた。
 「ボリビアの奇跡」はサックスを金融界のスターにし、このあと彼は危機に陥った経済を建て直す専門家として、アルゼンチン、ペルー、ブラジル、エクアドル、ベネズエラの各国に赴くことになる。

サッチャーやレーガンを凌ぐ新自由主義改革
 サックスが称賛を浴びたのは、ただ単に貧困国のインフレを退治したからだけではなかった。
彼は多くの人が不可能だと主張していたことをやってのけた。
すなわち、民主主義国という制限のなかで戦争も行なわずに急進的な新自由主義改革を断行し、しかもその徹底した変革はサッチャーやレーガンの試みをはるかに凌いでいた。

 サックス自身、彼の成し遂げたことの歴史的意義を十分認識していた。
「私の考えでは、民主的改革と経済制度改革を合体させて実施したのはボリビアが最初だった」と、改革から十数年を経てサックスはふり返る。
「ボリビアはチリよりずっとたしかな形で、政治的自由化と民主主義を経済的自由化と結合できることを示しました。両者が並行して機能し、相互に強化しあうことができるというのは、きわめて重要な経験だったのです」

しかも、独裁政権や死の収容所なしに平和で穏やかに
 『ニューヨーク・タイムズ』紙が「民主主義的資本主義の伝道師」と呼んだサックスのおかげで、フリードマンが10年前に最初にサンティアゴを訪れて以来、ショック療法にまとわりついていた独裁政権と死の収容所の悪臭が消し去られた。
 批評家たちの主張とは裏腹に、サックスは自由市場改革運動が生き延びられることだけでなく、今や世界を席捲する民主化の波に乗れることを証明してみせた。
ケインズを称揚し、臆面もない理想主義を掲げて発展途上世界の改善に尽くすサックスは、この経済改革運動をより平和で穏やかな局面へと導くうえで、まさにうってつけの人物だった。

経済的ピノチェト主義
 一方で、ボリビア左派はパス・エステンソロの政令を「経済的ピノチェト主義」と呼ぶようになった。
ボリビア内外を問わず実業界に関する限り、まさにそこが核心だった。

 ボリビアはピノチェトなしに、しかも中道左派政権のもとでピノチェト式のショック療法を導入した。
あるボリビア人銀行家の言葉を借りれば、「ピノチェトが銃剣をもってやったことを、パス・エステンソロは民主主義制度の枠内でやってのけた」のだ。

 ボリビアの奇跡の物語は、新聞や雑誌の記事はもちろん、サックスのプロフィールやベストセラーになったサックスの著書、そしてPBSの三回テレビシリーズ『コマンディング・ハイツ ー 世界経済をめぐる闘い』などによってくり返し語られてきた。

では、本当に弾圧はなかったのか?
 だが、それは真実ではない。
ボリビアはたしかに、民主的選挙を終えたばかりの国でもショック療法が実施できることを示してみせた。
だがそれが民主的に、あるいは抑圧なしに実施できたと示したわけではない。
それどころかその反対であることを、またしても証明した。

非常事態宣言
 予想どおり、パス・エステンソロに投票した国民の多くは彼の裏切りに激怒し、経済改革を盛り込んだ政令が公布されると、何万人もの人々が街頭に出て失業や飢えの深刻化を助長する経済プログラムの実施を止めさせようとした。
反対の旗頭に立ったのはボリビアの主要な労働同盟で、ゼネストが行なわれ国内の産業活動は停止した。

 パス・エステンソロはサッチャーが鉱山労働者に対して取った措置をしのぐ強硬手段に出る。

 「非常事態」が宣言され、軍の戦車が首都の大通りを突き進み、厳しい外出禁止令が発せられた。国内を移動するにも特別の通行証が必要となり、機動隊が組合の集会場や大学、ラジオ局、さらに数ヵ所の工場に出動した。政治集会やデモ行進は禁止され、集会を開くには政府の許可を得なければならなくなった。
 現政権に反対する政治活動は、バンセル独裁政権下と同様に事実上禁止された。

反対運動指導者の逮捕、拘禁
 街頭では警察が、抗議行動中のデモ隊一五〇〇人を逮捕し、催涙ガスで群衆を追い散らし、警官に殴りかかったという理由でストライキ参加者に発砲した。  

 パス・エステンソロは反対運動を永久に封じ込めるために、さらに強硬な手段に出る。
労働同盟の指導者たちがハンガーストライキに入るなか、警察と軍に命令して組合のトップ指導者200人を逮捕し、軍用機でアマゾンの奥地にある刑務所に移送した。
ロイター通信によれば、そのなかには「ボリビア労働同盟の指導者やその他の労働組合幹部」も含まれており、彼らは「ボリビア北部アマゾン盆地の辺郡な村に連行され、活動は大きく制限された」。
まさに大量誘拐であり、そのうえ「身の代金」まで要求された-組合が抵抗運動を中止すれば、幹部らを釈放するという。
最終的に組合側はこれに従った。 

 先頃、当時組合の活動家だった鉱山労働者のフィレモン・エスコパルと電話で話すことができた。「やつらは組合のリーダーたちを路上でしょっぴいて、ジャングルに連れて行ったんだ。生きたまま虫に食わせようってわけさ。釈放されたときには、もう新しい経済計画が実施されていた」とエスコパルは言う。
「政府はジャングルで彼らを拷問したり殺したりしたわけじゃない。目的は経済計画を進めることだったんだ」

 非常事態宣言は3ヵ月続き、経済計画は100日かけて実行された。
つまりショック療法が実施された決定的な期間中、ボリビアは厳重封鎖されていた。

 1年後にパス・エステンソロ政権がスズ鉱山の大量解雇を行ない、組合がふたたび街頭に出て抗議デモを行なったときにも、同じ劇的な事態が展開した。
非常事態が宣言され、2機のボリビア空軍機が労働組合のトップ指導者100人を熱帯性気候の平野部にある収容所に連行した。
そのなかには元労働相2人と元上院議員も含まれており、かつてピノチェトがチリ南部に設けた「VIP収容所」にオルランド・レテリエルが連行されたことを思い起こさせる。
彼らは2週間半にわたって拘束され、1年前と同様、組合が抗議運動とハンガーストライキの中止に合意した時点で釈放された。

”軽量版”軍事政権:一定の人々を一時的に行方不明にする
 言ってみれば、”軽量版”軍事政権というところだ。
政権が経済的なショック療法を実施するためには、一定の人々をたとえ一時的にでも行方不明にする必要がある。
残酷さの度合いは小さいものの、こうした強制連行の目的は70年代のそれと同じだった。
すなわち組合活動家を拘禁して改革に対する抵抗運動を阻み、それによって労働者部門全体を経済的に抹消する道を開くということだ。
やがて労働者の職は失われ、彼らはラパス周辺のスラム街に倉庫の荷物よろしく押し込められた。

 パス・エステンソロ政権による弾圧は、当時の国際メディアに取り上げられはしたが、ラテンアメリカで起きた暴動に関するニュースとして、せいぜい1日か2日報道されるにすぎなかった。
そしてボリビアにおける「自由市場改革」の成功の物語が報じられる段になると、もはやそれらの出来事が記事になることはなかった。
これは、ピノチェトの暴力とチリの「経済的奇跡」とが共生関係にあったことがほとんど報じられないのとよく似ている。

 ジェフリー・サックスはもちろん、機動隊を召集したり非常事態を宣言した本人ではないが、著書『貧困の終焉』では一章を割いてボリビアでのインフレ抑制策の成功について述べている。
だが彼は、その功績の一部は自分にあることを認めつつも、計画の実施にあたって弾圧が行なわれたことにはひとことも触れておらず、ただ「安定化プログラム実施当初の緊迫した場面」という唆味な表現にとどめている。

 それ以外の記録では曖昧にほのめかすことすらされていない。
たとえばゴニは「民主的体制のもと、安定化は国民の人権を阻害することなく、言論の自由を保障して達成された」と言い切っている。
パス・エステンソロ政権のある閣僚はそこまで美化はせず、自分たちが「いささか政権的に振る舞った」と述懐している。

 この食い違いこそが、ボリビアで行なわれたショック療法実験のもっとも持続的な遺産かもしれない。

ボリビアの例は、民主主義の装いのもとでのショック療法が可能であることを示す
 ボリビアの例は、過酷なショック療法には依然として、不都合な社会組織や民主主義的機構に対する衝撃的な攻撃を並行して行なう必要があることを示した。
また、コーポラティズム改革運動が、そうした極端に強権的な手法によって推進されうること、そして選挙が行なわれたという言い訳のもと、選挙後にどんなに市民的自由が抑圧され、あるいは人々の民主主義的願望が軽視されようとも、民主的だと称賛されうることも示した
(これはその後、世界の指導者、とりわけロシアのボリス・エリツィンにとって非常に有益な教訓となった)。
こうしてボリビアは従来より口当たりのいい、新しい形の権威主義の青写真を提供した。

 それは民主的政権という表向きの枠組みのなかで、軍服を着た兵士ではなくビジネススーツを着た政治家や経済学者によって行なわれた、文民クーデターと呼ぶべきものだった。

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