1896(明治29)年
6月2日
6月2日付け一葉日記(3)
「ここと定めたる宿もなし。日の暮れゆけば、もよりの家のたがもとにても、しれるかどをたたきてはねぐらとし、明けぬれば、ただおぼつかなくさまよひありきて、人にはただ蛇(だ)かつのやうにいみはばかられつ。みづからは憤りに心もだえて、筆とれども優(いう)なるもの、なつかしきなどは、かけても書き出らるべきにあらず。たまたま書出づるは、『油地獄』、『てき面』、『あま蛙』のたぐひ、ただに敵(かたき)を設くる計(ばかり)、文学に一つの光りを加ふるにもたらず、後進を導くの助けとなるにもあらず、いたづらに心のもだえを顕(あら)はして、『かれ毒筆にくむべし』とのみののしらる。」
(斎藤緑雨という人は、ここと定めた宿もなく、日が暮れると近くの家の、誰彼かまわず知っている家を訪ねて宿とし、夜が明ければ当てもなくさまよい歩き、人からは蛇蝎(だかつ)のように嫌われ、自分自身は世間への憤りにもだえ、筆を執っては優雅なものは全く書くことも出来ず、たまたま書いたものは、「油地獄」、「覿面(てきめん)」、「あま蛙」といった類である。文壇では敵をつくるばかりで、文学に一つの光を加えるには不十分であり、後進を指導する助けにもならず、むやみやたらに心の鬱憤を書きなぐるので、彼の毒筆は憎らしいとののしられている有様である。)
「「鴎外はもと富家(ものもち)の子、順を追ふて当代に名をなしつる人なればさもあるべし。露伴の、今少し力を加へなばと思はるゝも、我岡目の評なるべくや。たゞ天然にすねたる生れなりぬべきやも計られぬを、例の弱きもの見過しがたき余り、いと物がなしくながめらる」。
正太夫かさねて曰く、「かくはいへども、猶われに自然(おのづから)ののがれ難きものありて、『この文学といふ事いかにしてもなすべきものぞ』といふ、たしかなる事定まらば、何かは卑怯のにげ足を構ふべき。我れ生れて二十九年、競争はこの後にあるべし」とて笑ふ。「まことにさこそ候へ。さる人々、かならず人が、文だんにとゞまり給はん事を願ふべきにこそ」といへば、「いないな、今我れに、『此境界をはなるゝな』といふ人あらば、そは借金し置し口々(くちぐち)の人なるべし。吉原のけし炭に成なんには、其金とりがたければ」と笑ふ。
「いと遅く庇にけり。又こそ参らめ」とて、立しは十時すぐる程にや有けん。今宵はかたる事いと多かりし。」
(森鴎外という人は、元来富貴の家に生まれ、順調に出世し名声を得た人なので、今日の地位は当然であろう。幸田露伴については、あと少し力があったらと思われるが、これは私が観た外からの批評である。彼は天性すねた生まれつきかもしれないが、例によって弱いものを見過ごしておれない私の性質から、ひどく哀れに悲しく思われるのである。
緑雨はさらに語を重ねて、
「こうは言っても、まだ私に消え去らない力が残っていて、この文学の仕事を是非ともしなければならないということにならば、私は逃げるなど卑怯なことはしませんよ。この世に生まれて二十九歳、競争はこれからです」
と言って笑う。
「すっかり遅くなってしまった。いずれまた参りましょう」
と言って帰って行ったのは十時過ぎだったろうか。今夜は話すことが多かった。)
〈まとめ〉
「めさまし草」の内実は複雑であると思うが、緑雨は一葉には対しては率直に話しているようである。
「我れは今やがてこの文学沙汰立はなれて、いとあやしき境界にならばやと思ふなり。かかる馬鹿野郎どもが集会の場処に、ながながあらんは胸のわるければ、と声高くいひて、あな本性の出けるよと侘しげに笑ふ・・・。吉原に入りて、かし座敷の風呂番になりとも落つかばやと思ふなり。さらば此上の落処なきひくき処なれば、やるかたなき憤りももらすにかたく、誰れを相手に何をかいはむ。ここもうき世とあきはてなん時は、唯死といふ一物のこれるのみ。其ほかにゆく処しなければ、中々に心安かるべうや。」
と緑雨は打明ける。
「鴎外は元来、富家の子、順当に名をなして来た人ゆえ、今の地位も当然、露伴が今少し力を伸ばせばよいと思うのは岡目八目の所為か。緑雨は天然のすね者かも知れないのに、例の弱い者を見過しできない私の性質で、こうした話は物悲しく思われる」と一葉は考える。
6月3日
李鴻章、ロシア蔵相ウィッテと対日共同防衛密約。日本の領土侵略の場合の相互援助を約束。ロシアは東清鉄道敷設権を獲得(露清銀行が敷設権を獲得、これを新設国策会社「東支鉄道会社」に譲渡する形式。また、事実上鉄道沿線の長大な租借地を確保)。李鴻章に25万㌦の賄賂。
6月3日
子規の虚子宛て手紙。
「近来に至り貴兄の御心底はわれらには全くあいわかり申さず、あるいはと立腹なされしやら、あるいは小生をうるさしとて近よりたまわぬにや、あるいは話にならぬとて見はなしたまいしにや。ここのところ当惑致し候」
6月4日
中根鏡子、父に連れられ女中1人を伴に連れて東京を出発。
8日夜、熊本着。
「中根鏡は、父中根重一と老女中と共に、新橋停車場を出発する。広島まで汽車で行き、広島から宇品港へ行き、汽船で下関を経て、門司港に入港する。福岡にいた叔父中根与吉(弥吉)が門司まで迎えに来る。」(荒正人、前掲書)
6月4日
ヘンリー・フォードが初の四輪自動車の試作に成功
6月6日
漱石の子規宛て手紙。
子規の後継者となることを断わった虚子のことについて「今度の事につき別に御介意なく虚子と御交誼ありたく小生の至望に候」と。
「御紙面拝誦仕候。虚子の事にて御心配の趣御尤に存候。先日虚子よりも大兄との談判の模様相報じ来り申候。虚子いふ、敢て逃るるにあらず一年間退て勉強の上入学するつもりなりと。一年間にどう変化するや計りがたけれど勉強の上入学せばそれでよからん。色々の事情もあるべけれど先づ堪忍して今までの如く御交際ありたしと希望す。小生の身分は固(もとより)何時免職になるか辞職するか分らねど、出来るだけは虚子のためにせんとて約束したる事なり。当人もそれを承知で奮発して見やうといひ放ちたるなり。双方共別段の事故新たに出来ざる内はそのつもりで居らねはならぬと存候。小生が余慶な事ながら虚子にかかる事を申し出たるは虚子が前途のためなるは無論なれど同人の人物が大に松山的ならぬ淡泊なる処、のんきなる処、気のきかぬ処、無器用なる点に有之候。大兄の観察点は如何なるか知らねど先づ普通の人間よりは好き方なるべく、さすれ〔ば〕さほど愛想づかしをなさるるにも及ぶまじきか、或は大兄今まで虚子に対して分外の事を望みて成らざるがため失望の反動、現今は虚子実際の位地より九層の底に落ちたる如く思ひはせぬや。何にせよ今度の事につき別に御介意なく虚子と御交誼ありたく小生の至望に候。小生よりも虚子へは色々申し遣はすべく候。
(略)」
6月6日
この年5月、東京美術学校に黒田清輝・久米桂一郎らを中心として西洋画科が設置され、この日( 6月6日)、根津神泉亭で発会式(黒田清輝・久米桂一郎・山本芳翠・藤島武二・岡田三郎助・和田英作ら)。
9月、黒田、久米らは明治美術会を脱退し、白馬会を結成。黒田、久米、安藤仲太郎、岩村透(美術評論家)、山本芳翠はじめ、藤島武二、岡田三郎助、和田英作らが集まり、同年10月に第1回展覧会を開催する"
6月7日
第五高等学校職員、第11旅団の凱旋を熊本城外の濠端にて歓迎する。午後4時、校内の練兵場に整列して歓迎式。
つづく
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