2009年9月13日日曜日

東京 虎ノ門界隈 虎ノ門遺址 江戸城外堀溜池櫓台 江藤新平遭難遺蹟碑 新聞創刊の地の碑 虎ノ門金毘羅宮 江戸城外濠石垣遺構

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虎ノ門遺址
江戸城の西への構えである虎ノ門は、
実際にはこの場所ではなく
経済産業省の辺りにあったそうだ
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「国史跡 江戸城外堀跡 溜池櫓台」
寛永13年、因幡鳥取藩主池田光仲が構築した櫓(やぐら)台の一部
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江藤新平遭難遺蹟碑
明治2年12月20日夜11時過ぎ、
江藤新平は、佐賀藩卒族(旧足軽)6人に襲われ重傷。
天皇は養生料150両を送る。
鍋島閑叟は、自首・逮捕した5人全員死罪とする。
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江藤の藩政改革は、
足軽が既得権化していた家禄を本来の形(組に一括して定額を支給)に戻し、
かつ人員整理を実施。これへの反発により事件となる。
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しかし、この事件が一因となり、
政府の卒族処分方針は緩和され、多くが士族へ編入されるようになる。
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新聞創刊の地の碑
「小新聞」としての「読売新聞」創刊の地。
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虎ノ門金毘羅宮
由来は説明板と下段の解説をご参照下さい。
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江戸城外濠石垣遺構(文部科学省の庭)
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「虎ノ門」の名の由来は、江戸の町づくりに取り入れられた「四神相応」(天の四神の方角に相応した最良の地勢)基づくという。
四神は、東の「青竜」、西の「白虎」、南の「朱雀」(鳥)、北の「玄武」(亀)を意味し、町の四方にこれらの神を置くことによって、町は安泰で発展するという考えのようだ。
平安京も江戸も、この考えに基づいて造営されているという。
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大新聞と小新聞
明治3年、横浜で現在の形の日刊新聞の第1号、「横浜毎日新聞」が創刊される。
幕末の新聞の多くが半紙を折りたたむ冊子型であったが、これは洋紙1枚両面に活字印刷された。神奈川県令井関盛艮(オリトメ)が主導し、横浜税関翻訳官の子安峻(タカシ、後の読売新聞社長)も加わって創刊。
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明治5年には司法卿江藤新平が応援して「東京日日」が、また同年、前島密が秘書に「郵便報知新聞」を創刊させる。
「郵便報知」の「凡例」(創刊の知らせ)。
「西洋諸国苛(イヤシク)も文明に名あるの地にては必ず新聞紙局の設ありて国内国外を論ぜず凡百の事扱所を網羅し、併せて奇事異聞瑣話常談を採用し、以て日に利し、月に刻して、伝布せるゆゑ、幾(ホト)んど家ごとに喩し、戸ごとに説くの概(オモムキ)あれば国人甚だこれを便とせるとぞ・・・」。
同じ頃、大阪でも府権知事が「大阪新聞」を創刊し、各地方でも現在の地方紙の前身となる新聞が次々に創刊される。
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これらの新聞は大新聞と呼ばれ、元武士、洋学者、地元名士らが作り、官吏、政客、教師らの知識階級が読む新聞で、文体は漢文くずし、市井のニュースもあるが、政治経済、政論などが中心である。
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こうした官報の役割も果たす半官半民的な新聞は、民衆にとっては馴染みにくく、難しい漢字が多く読みにくい。読み書きそろばんを習い、平仮名やちょっとした漢字が読め、新時代の空気に触れた平民、商人や女性は、もっと親しみやすい読み物、新聞を望んでいた。
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一方、明治7~8年頃から、漢字にルビが付き、市井の出来事や花柳界の噂話が載るような新聞が創刊され始める。たいそうな論説はなく、文体も候文ではなく、ございます、ありましたの口語体で、街角で「呼び売り」もする。値段も大新聞より安く、挿し絵があり「続き物」という毎日連載の読み物もある。
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明治7年11月2日、小新聞(大衆向け新聞)の代表格と云われる「読売新聞」が創刊される。タブロイド判、当初は隔日発行、市井の出来事を書く雑報記事が売りものである。
創刊の辞では、
「此の新ぶん紙は女童(オンナコドモ)のをしへにとて為になる事柄を誰にでも分るやうに書いてだす旨趣(ツモリ)でござりますから耳近い有益(タメニナル)ことは文を談話(ハナシ)のやうに認て御名まへ所がきをしるし投書(ヨセブミ)を偏(ヒトヘ)に願ひます」。
創刊時は日刊300部が、半年後には1万部を越えたという。
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金毘羅宮
広重「名所江戸百景」の「虎の門外あふひ坂」に、「金毘羅大権現」「日参」と書いた長提灯を掲げ、禅一丁で走る職人の弟子が描かれている。これは、「寒参り」という、寒中の夜30日間、金刀比羅にお参りし、年季奉公中に技量があがるように祈願する願懸けの寒行(寒中の修業)を行っているところ。
金刀比羅宮は、万治3年(1660)、讃岐丸亀藩5万1千石の京極高和が、国元の琴平神社から三田の藩邸に勧請したことに始まる。その後、延宝7年(1679)に虎ノ門へ屋敷替えとなり、文化年間(1804~18)末期、強い要望を受けて一般に公開した。
海の神様らしく大漁満足、航海安全、そこから派生した交通安全、神紋の(金)印(まるきん)にちなむ商売繁盛などの御利益がある中で、なかでも有名なのは禁酒の成就である。
「守貞漫稿」(モリサダマンコウ)によると、江戸の酒の消費量は、多いときで年間80~90万樽、天保の改革で規制強化された際は30~50万樽であった。
百万都市江戸では、単純計算で男女問わず1年間欠かさずに飲んだとして1日1合ほどになる。
「江戸買物独(ヒトリ)案内」には、日本橋藤田屋の酒禁丸という酒断ちに効く薬が載っている。「虎ノ門の金びら様」と親しまれ崇拝を集めた理由の一つがここにあるかもしれない。
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