2024年7月22日月曜日

長保2年(1000)2月25日 道長、一帝二后並立を強行(皇后定子、中宮彰子)

東京 北の丸公園
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長保2年(1000)
1月10日
・道長、『御堂関白記』同日条の「彰子立后勘申」(立后について安倍晴明に勘申させた)に関する部分のみを抹消。

1月28日
・彰子立后の内命が下り、道長から吉日を選んで申請させることになった。
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2月10日
・この日夜、彰子は一旦内裏から退出。
翌日、天皇から使いとして少将藤原成房が彰子のもとに来る。
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2月12日
・この日、敦康親王を産んだばかりの中宮定子は一条院内裏に入り、しばらく一条院で過ごした。その折のことを『枕草子』は記している。

「一条の院をば今内裏とぞいふ。おはします殿は清涼殿にて、その北なる殿に(定子は)おはします。西東は渡殿(わたどの)にて、わたらせ給ひまうのばらせ給みちにて、まへは壺なれば、前栽うゑ、籬(ませ)ゆひていとをかし」(『枕草子』227段)
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2月25日
皇后藤原遵子(円融皇后)を皇太后中宮定子(道隆女)を皇后女御彰子(道長女)を中宮とする宣命が下される。
一帝に二后が並立する。
中宮職の職員として、中宮大夫は大納言源時中、権大夫は参議藤原斉信(ただのぶ)が任命される。
皇后定子の皇后宮職については大夫も権大夫も置かれなかった。

■1人の天皇に同時に2人の后が立つのは史上初。
本来、中宮は皇后の別称であり、1人の天皇には1人の皇后もしくは中宮が立つのが通例。
道長は、慣例をまげてでも、自分の娘を「后」として位置付けようとした
前年末以来、一条天皇から相談を受けていた蔵人頭(頭弁)藤原行成が理屈付けを行い、天皇を説得する(「権記」正月28日条)。
「当時坐すところの藤氏皇后は東三条院・皇太后宮・中宮、皆出家により、氏の祀りを勤めること無し。(中略)我朝は神国なり。神事をもって先となすべし」
現在藤原氏の皇后は三方とも出家していて、氏(うじ)の祭祀を行うことができないので、氏の祭祀を行える皇后が必要だという理由を考え出した。
道長は、行成に対し子どもの代まで面倒をみると言って感謝している。

■後宮の制度の変遷
令制では天皇の配偶として、皇后、妃2人・夫人3人・嬪(ひん)4人などを規定している。その他に中宮という称があるが、太皇太后・皇太后・皇后を中宮と称するという、曖昧な解釈になっていた。
実際には、夫人・妃・嬪などの称はしだいに使われなくなり、平安時代初め頃から女御という称が現われ目立つようになって、更にその一格下に、更衣というのも現われてきた。そして、上皇や東宮の妃も女御と呼ばれるようになる。
また、後宮の事務官司である内侍司(ないしつかさ)の長官、尚侍(ないしのかみ)も、元来の職務と離れて天皇や東宮の妃である立場の女性(大臣の娘など)に与えられる称号に変わってきた。
この中で、皇后はいわば天皇と同格であるから位階はないが、尚侍は二位・三位が多く、女御は三位・四位、更衣は更に下の場合が多い。皇后を除くこれらの女御・更衣・尚侍などをいずれも御息所(みやすどころ)ともいう。
当時の後宮の制は、令制の名残と、実際運営上の各種の職名と、一般的な俗称とが入り混じった複雑なものになっていた

中宮という名称は、古くは皇太夫人、つまり夫人であって、次の天皇の生母となった者に用いられ、ついで皇后と同じ意味に使われ、皇后について中宮職という役所を置いたり、皇后を中宮とも称したりした。

皇后の他に、別の女性を中宮と称して並べたのは一条天皇の初め正暦元年(990)のこと。
一条天皇即位のとき、太皇太后昌子(しようし)内親王(冷泉皇后)・皇太后詮子(せんし、円融女御、一条天皇生母)・中宮遵子(じゆんし、円融皇后)と、三后は全部満員であった。そこへ成人した天皇に摂政道隆の長女定子が入内した。これを女御として放っておけないので、それまで皇后と明確に区別されていなかった中宮という称号を切り離して別に使うこととし、中宮遵子を皇后と改めて皇后宮職という役所を置き、定子を中宮として中宮職を置いた。こうして皇后と中宮が並ぶ形になったが、皇后遵子は先帝円融上皇の后なので、形はついた。

一帝二后の並立
道長はこの形を利用して、彰子を中宮に押し上げようとした。
幸いに先の皇太后詮子が女院となっていた(東三条院)から、皇太后は空いている。ここへ皇后遵子を上げ、中宮定子を皇后にまわし、空いた中宮のへ彰子を入れる算段である。
正暦元年(990)の先例そのままであるが、実質は大違いで、こんどは一条天皇1人にたいして、実質上まったく同格の皇后定子と中宮彰子が2人並ぶことになる。

当時の結婚の常態からすれば不思議はないけれども、中国的な律令体制の原則からいくと、どうもやはり一帝二后というのは名目が立たない。しかし、そんなことは構わない、強行してしまえ、というのが道長の腹であった。

道長はこの腹案を、姉で天皇の生母である東三条院詮子に打ちあけて応援を頼み、天皇にたいして運動を秘密裡に開始した。
この間、東三条院・天皇・道長の間を往復して、もっぱらその内密の相談を取りついだのは、蔵人頭藤原行成である。
彼は伊尹の孫で、名書家であるが、性質実直で、このときも一生懸命、よくその使者の役に励んだらしい。道長もその労を多とし、長保元年(999)12月、天皇と東三条院の了解が成立し、実現の見込み十分となったと時、行成に向かって、
「なんともお礼のいいようもない。このうえは貴公の一身については今後なにも心配はいらない、わたくしが引き受ける。またわたくしの子の代にも、貴公の子に対して役に立つことがあれば兄弟同様に思って世話するよう、言い聞かせておこう」
と言ったくらいで、道長としてはよほど熟を入れた計画であり、その成就は喜ばしいことだったと思われる。
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