2024年7月29日月曜日

長保3年(1001)山城守藤原宣孝(紫式部の夫)没 藤原実資、右近衛大将 藤原道綱、正二位・大納言筆頭 3月 源信の最後の出仕 「年来宿願有りて、都て出仕せず。御願やんごとなく、・・・仍りて今日共に参入す」 東三条院詮子の四十の算賀 出家剃髪 

東京 北の丸公園
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長保3年(1001)
この年
この年=長保3年(1001)から寛弘5年(1008)頃までの約10年間のうちに「源氏物語」が書かれたであろうといわれている。
父藤原為時の任地越前国から戻り、山城守藤原宣孝と結婚、娘賢子が生まれた。
この娘はのちに越後の弁とか大弐三位とかいわれた女房になったが、宣孝と式部の仲も3年ほどで、長保3年(1001)、夫宣孝は没した。
その後、彰子に仕えたのが寛弘2年(1005)とも寛弘2年とも言われる。
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・この年、藤原実資(『小右紀』作主)、右近衛大将となる。42年間勤める。
実頼の三男斉敏(ただとし)の四男として天徳元年(957)に生まれた。
実資17歳の時、斉敏は参議46歳で没し、祖父実頼の養子となった。
安和2年(969)元服と同時に従五位下、侍従に任ぜられ、天禄2年(971)右兵衛佐、同4年に右近衛少将となり、大元4年(981)に円融天皇の蔵人頭に補せられる。
永観元年(983)に少将から左中将に進み、翌年花山天皇即位に際し再び蔵人頭。
更に一条天皇が即位後しばらくして永延元年(987)三度目の蔵人頭になる。
永祚元年(989)、33歳で蔵人頭と左中将の労もあり、参議に任ぜられた。
その後長寿を保ち、後冷泉朝の永承元年(1046)に90歳で没。
その間、長保3年(1001)より42年にわたり右近衛大将の任にあった。
更に後一条天皇の治安元年(1021)に右大臣に任ぜられている。
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2月29日
・藤原行成創建の世尊寺の供養。
仏師康尚の三体に彩色不動尊(先年発願のか)と降三世明王を加えた等身仏五体を安置した。
道長も供養前日に世尊寺を訪れている。
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3月
・源信の名声は広まり、この月の内裏仁王会に参入し、同門の覚運とともに法橋に叙せられている。
「件等の人、年来宿願有りて、都(すべ)て出仕せず。御願やんごとなく、綸旨慇懃なるにより、仍(よ)りて今日共に参入す」(『権記』)。
覚運はこれを機に宮中や道長の下に出入りするようになるが、源信は、度重なる天皇の召しで参入したこの時が朝廷への最後の出仕であった。
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10月
東三条院詮子(道長の姉、一条天皇母后)の四十の算賀があり、和歌屏風が作られる。
道長の命で四帖屏風が作られた。
この時の和歌は、道長3首、源兼澄3首、橘為義2首、藤原輔尹、大中臣輔親、藤原為時、源道済各1首の計12首(月次屏風だったことがわかる)が採用された。
行成が色紙形の清書を担当。
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閏12月16日
詮子は亡くなる6日前の長保3年閏12月16日(1002年2月1日)、東三条邸にて出家剃髪した。
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長保4年(1002)
・この年、惟宗允亮『政事要略』が成立
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7月
・この月、宋に赴いた円通大師寂照と、宋の天台山諸徳和尚に宛てた道長の返書を行成が清書。
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10月
・仏師康尚、故東三条院のため、法華八講に用いる本尊三体(釈迦三尊)を造る。
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