2024年7月14日日曜日

長保元年(999) 大和国解による摂関期の凶党蜂起と重犯検断の実態

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林
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長保元年(999)
8月
・大和国城下(しろのしも)郡東(ひがり)郷で早米(そうまい、早稲)徴収にあたっていた受領源孝道(たかみち)の郎等藤原良信(よしのぶ)が、「凶党数十人」によって殺害された。

■大和国解による摂関期の凶党蜂起と重犯検断の実態
この時の逮捕した犯人と捜査結果を太政官に提出する大和国解が偶然残された。
この国解は、当時の諸国で起こっていた凶党蜂起の実態がわかる事例であり、これにより重犯検断(犯罪の発生から捜査、追捕、裁判、刑の執行までの一連の刑事手続き)の全貌を知ることができる

現在残っている平安時代の古文書の多くは、権門寺社に伝えられた荘園領有の権利文書である。
国司が政府に提出した捜査記録などは、用が済んだらやがて廃棄され、残されることはまずない。

藤原公任が、『北山抄』の自筆草稿の用紙として大和国解の裏を使ったため、この資料が残されることになった。紙は貴重だったため、役目を終えた廃棄文書は、裏返して書物の用紙などに再利用されていた(こうして残ることになった文書を紙背文書または裏文書という)。
『北山抄』の用紙として、この国解を含め長徳2年(996)11月25日から長保2年(1000)3月2日までの検非違使庁関係文書14通の裏が使われている。
この期間、公任は検非違使別当に在任しており、公任は検非違使庁で廃棄された文書群を『北山抄』草稿に再利用した。
この事件は公任が使別当として担当した事件だった。

■事件の概要
大和国解によれば、首謀者は右衛門権佐(ごんのすけ、検非違使佐)藤原宣孝(のぶたか、紫式部の夫、新婚の頃)の所領田中荘(たなかのしよう)の荘官文春正(ふみのはるまさ)であり、田中荘・前法隆寺別当仁階(にんかい)所領丹波荘・興福寺僧明空(みようくう)所領紀伊殿(きいどの)荘の三箇所の凶党数十人が共謀して犯行に及んだ。
追捕の際、共犯者17人は逃走して入京したり興福寺に隠遁した。
果断な決行、即座の解散・逃走という素早さは、9世紀の群盗蜂起と同じである。

これらの荘園は、免田(納税免除)ではないから、犯人たちは請作する荘田にかかる早米を国衙に納めなければならない。
従って、事件は、早米徴収のためにやってきた受領郎等と、荘公を兼作する負名たちの間で起こった、税率や損田控除などをめぐるトラブルから発生したものであろう。

国使殺害は、受領をたじろがせ、損免・税率を巡る駆け引きで譲歩を引き出すのに効果的であった。
しかし国使殺害は重犯であり、追捕官符によって殺害される危険性はきわめて高いし、逮捕され禁獄されたら、恩赦が出ても赦免されない。数々の権利(私領や公田詩作権など)は没収される。たいして割の合う行動とも思えない。

蜂起した凶党の多くは、国衙の捜査活動によって名前が判明したが、彼らは荘園内に居住する荘官や負名であり、犯行後、本主(主人)のもとに逃走し庇護された。
本主の庇護を期待できるからこそ、彼らは国使殺害という危険を伴う過激な行動にでた。
彼らは、荘園領主の権威をかさに国使や周辺田堵負名に暴力的威嚇を加え、しばしば殺害・強盗に及ぶ荘園管理の用心棒的存在であった。
追捕・禁獄されても本主の圧力で赦免されて社会復帰でき、また同じことを繰り返す。彼ら「会赦原免(えしやげんめん)の輩(ともがら)」こそ、荘園領主に雇われた職業的殺し屋たちである。
しかし彼らが武士受領の郎等になれば、やがて武士の資格を獲得することになる。

■凶党蜂起=田堵負名層による反国衙武装蜂起
大寺社の膝下の大和国では荘園住人が主体であったが、地方諸国では、在庁官人や郡司あるいは国内武士の指導のもとに、広範な田堵負名層が結集して国衙を襲撃し、受領や国使を殺害する凶党蜂起がしばしば起こった。
このように一国規模で結集した田堵負名層による反国衙武装蜂起は、受領に国内支配権を委任し、負名を納税責任者とする「負名体制」が必然的に引き起こす軍事問題であり、国衙内部で発生する重犯・凶党蜂起のもっとも一般的なかたちであった。
将門の乱・純友の乱や平忠常の乱も、このような凶党蜂起の性格を含んでいた。

■大和国解にみる重犯検断手続き
国衙軍制は重犯検断の流れの一環であり、検断とは別に軍事や軍制があるわけではない。
国衙軍制は、重犯検断の追捕を実現するための武力動員方式である。

事件発生後、大和国城下郡司は直ちに初期捜査を行い、事件発生場所・時刻、被害状況、物件、わかる範囲の嫌疑者の名前を記した「事発日記」と呼ばれる被害記録を作成し、郡解に添えて国衙に提出した。
事発日記は、国衙や検非違使庁に犯罪を告発したり、被害を訴えたりする場合、必ず提出しなければならない資料であった。

平安中期の郡司には、行政・徴税面での独自の権限や職務は殆どなかった。しかし、私領売買の保障、盗難・紛失・火災などの被害証明を行ったり、土地所有関係、耕作状況などを把握しているのは郡司であり、郡域社会の日常的秩序維持に果たす郡司の役割は大きかった。
この事件では、郡司が初期捜査を行い事発日記を作成し、郡解で事件発生を国衙に報告している。

受領源孝道は、郡司から報告を受けるや即日、郡解・事発日記を添えて国解で政府に報告
国解を受理した政府は、即日または翌日、追捕と捜査を命じる「追捕勘糺官符(ついぶかんきゆうかんぷ)」を大和国衙に下した

緊急事態に当たっては、天皇・摂関は緊急に陣定(じんのさだめ、公卿会議)を召集し、追捕官符の発給を命じた。追捕官符は最終的には天皇の意思によって出される。

追捕官符を受けた受領源孝道は、官人と追捕使を率いて事件現場に急行し、犯人のうち4人を逮捕。

■国押領使・国追捕使
凶党追捕を担当したのは、国ごとに置かれた軍事指揮官である押領使・追捕使であった。
彼らには独自の判断で凶党と認定したり、勝手に武力動員する権限が与えられていたのではなく、追捕官符を受けた受領の指令によって初めて追捕活動をすることができた。

語源からいえば、押領使は国内で動員した軍団兵士を結集地まで、押領使に引率する臨時の使者の呼称に由来し、追捕使は追捕宜旨を受けて中央から派遣された臨時の使者の名称に由来するが、国衙に常置されることになった国押領使・国追捕使は、それらとの制度的な継承関係はなく、国司の臨時発兵権能・追捕権能が独立機関化したものである。

一国に押領使と追捕使が併置されることはなく、国ごとに押領使か追捕使のいずれか一方が置かれた。
東海・東山・北陸・山陰・西海道諸国はだいたい押領使で、畿内近国(近江・伊賀など)・山陽・南海道諸国はだいたい追捕使である。

受領源孝道は、追捕使に追捕活動をさせているだけでなく、官人を率いて事件現場で「勘糺(かんきゆう)」を行っている。
勘糺は、現場検証・犯人尋問・証人尋問などの一連の捜査・審理活動で、それらは「問注申詞記(もんちゆうもうしことばき)」「勘問日記(かんもんきつき)」「過状(かじよう、犯人の自白書)」と呼ばれる調書に記録される。
勘糺を行うのは国衙検非違所に所属する在庁官人である。
いったん追捕官符が出されたとしても、勘糺に不備があった場合、犯罪事実自体に疑問がもたれ、追捕官符が取り消される場合があった。国衙としては適法手続きによって勘糺し、きちんと調書を提出しなければならなかった。

この事件で国衙は、逮捕した4人の身柄と4通の捜査記録を添えて、8月27日付で国解(捜査報告書)を政府に提出した。事件発生から10日、追捕官符を受けてから7日目であった。
重犯検断における国衙の役割はここまで。

■検非違所
勘糺を担当した検非違所は、田所(たどころ)・税所(さいしよ)・調所(ずしよ)などと並ぶ国衙の行政分課「所」の一つであり、在庁官人によって構成されていた。
9世紀中葉に諸国に置かれた国検非違使を継承するものであり、国検非違使は国司の「非違(ひい)」(違法行為)検察機能が独立機関化したものであった。
国検非違使・検非違所は押領使・追捕使とともに国衙三使と称されるが、押領使・追捕使の職務・権限とは明確に異なる。

8月27日付で太政官に提出された大和国解は、道長の内覧を経て一条天皇に奏聞されて使別当藤原公任に渡され、犯人身柄・副進文書(ふくしんもんじよ)とともに検非違使庁に下された。

検非違使庁では、道官人(どうかんじん、明法家の検非違使)がこれらをもとに改めて取り調べを行って問注日記(尋問調書)を作成し、さらに罪名勘文(ざいみようかんもん、判決案)を作成して使別当公任に提出し、内覧・奏閲を経たあと犯人は禁獄された。

禁獄犯人のうち丈部有光(はせつかべのありみつ)・橘美柿丸(たちばなのみかきまる)は、本来赦免の対象から除外された重犯であるにもかかわらず、翌年5月18日の大赦で赦免された(『権記(ごんき)』)。藤原宣孝ら犯人たちの主人が、道長に働きかけたと考えられる。

一件が落着し、関係文書は廃棄され、それを使別当公任が『北山抄』草稿の用紙として再利用したため、この国解が今日まで残ることになり、摂関期の重犯検断のあり方を復元することができた。
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