2012年12月23日日曜日

昭和17年(1942)11月1日、2日 ガダルカナル、「戦況逼迫困窮ノ状ハ予想外ニ甚シク」 ようやく本格的用兵の必要性が認識される

東京 北の丸公園 2012-12-19
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昭和17年(1942)
11月
この月
・宋美齢、アメリカに7ヶ月滞在、対中支援アピール。
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・鉄道省、行楽旅行・買出し抑制のため乗車券発売制限、乗越しなど禁止
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・倉光俊夫『連絡員』(「正統」)、竹内正一『哈爾浜入城』(赤塚書房)、網野菊『奉天』、中島敦『南島譚』、坂口安吾『青春論』、太宰治(33)『帰去来』(八雲)・『文藻集信天翁』エッセイ集(昭南書房)、丹羽文雄『報道班員の手記』(「改造」)・『海戦』(「中央公論」)、小林秀雄(40)『西行(1)』(『文学界』)、小島政二郎『眼中の人』
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・日本映画資材統制株式会社が創立。
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・北アフリカ、ロンメル軍、敗北
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・仏、ヴィシー政府ヴェガン将軍、ペタンに対独戦を進言、親衛隊に逮捕され独に監禁
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・ポーランド、ポーランド労働者党中央委員会書記マルツェリ・ノヴォトコ、党内闘争により暗殺
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11月1日
・大東亜省 張家口大使館開設
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1月1日
ガダルカナル、米軍、マタニカウ河畔を攻撃。左岸の第1線崩壊。
3日、第1線は沖川まで後退

1日、マタニカウ河畔と勇川河口近くの河谷への敵の爆撃と艦砲射撃は激しさを増す。
軍司令所も、早朝2回爆撃を受け、正午頃、爆撃の近弾で挟撃され、903高地西南の丸山道に沿う谷地に移る。
その間、「沿道ニ眼ニ映スル諸兵痛廃ノ状転々感深シ」(宮崎手記)。
夕刻、戦車と多数の火砲を伴う2個連隊の攻撃により、マタニカウ河畔の第1線は急迫を告げる。
司令所は、道路構築隊数10名・海軍陸戦隊約100名を海岸道方面に掻き集める。

敵の一部がクルツ岬に上陸し、中熊部隊(歩兵第4連隊)の背後に進出し、マタニカウ左岸の第1線が崩れ始める。
軍は、一木支隊の全員羅病伏臥中の残兵約60~70名を駆り出し、第1船舶団長に沖川(マタニカウ河口から西へ約3km)の線に予備陣地構築を命じる。
歩兵第4連隊は、この日の戦闘で、第7中隊は長以下十数名、第5中隊は15名となり、連隊砲中隊は長以下殆ど戦死傷、砲も破壊される。
第17軍司令官は発熱臥床中の杉田参謀を第4連隊に派遣し、死守を命じる。

2日、第1線大隊は奮戦するも、米軍は兵力を増加し、戦車・装甲車も加わり強襲し、第1線陣地を包囲。
歩4第1線中隊は、弾薬・糧食全く絶え、肉弾突撃を敢行して玉砕。
小川(クルツ岬西側)付近に布陣の独立速射砲第2大隊は、海岸方面から攻撃の戦車と対戦し、隊長以下全員戦死。
中熊部隊(歩4)は将兵約500に減耗、弾薬も尽き、3日、沖川(クルツ岬と勇川の中間)左岸台地に後退。
敵が沖川を突破すれば、そこから西へは抵抗を布く適地がなく一挙に勇川河口まで敵に委ねることになる。そうなれば、第2師団方面に対する補給路は遮断され、タサファロングの揚陸点が直接脅威に晒されることになる。

4日午前6時頃より、勇川や歩兵第4連隊(中熊部隊)第1線に艦砲射撃。
アウステン山方面では、岡部隊(歩124)が西方高地を保持。
岡部隊から原隊復帰を命ぜられた第4連隊第3大隊は、903高地北方で米軍と衝突するが、苦戦しつつ原隊へ急行。
1日以降マタニカウ川上流河谷へ後退を開始している第2師団主力では、傷病兵の後送に難渋。初め、衛生隊と第1野戦病院に傷病兵収容後送に当らせるが、殆ど全員が衰弱している状況では、とても間に合わず、後送は各隊が行なうこととして、歩兵第29連隊を後退支援に充当。
4日、第2師団先頭は、ようやく軍戦闘司令所の位置に到着しつつある。
5日午後4時過ぎ、歩兵第4連隊中熊連隊長は勇川東側高地で戦闘指揮中、米機の銃撃で左大腿部に重傷を負う、指揮をとりつづけた。
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11月1日
・大東亜省発足。拓務省廃止、初代大東亜大臣青木一男、興亜院吸収。
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11月1日
・大田實佐世保第2海兵団長、少将昇進
・角田覚治、中将昇進
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11月1日
・日本新聞協会解散
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・新聞統合令により各紙の統合実施。
日刊工業新聞、経済時事新報など14紙が中外商業新報と合併して日本産業経済新聞に統合、
愛知以西の業界紙が統合し産業経済新聞が大阪で創刊、

北海道11紙を統合して北海道新聞設立、
毎日系のマニラ新聞・セレベス新聞発刊
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11月2日
・夜、ガダルカナル、大本営陸軍部第2(作戦)課長服部卓四郎大佐、近藤少佐を伴い、駆逐艦でタサファロング上陸、3日朝、903高地西麓の軍戦闘司令所に到着。
5日午後帰途、11日東京着、12日上司に報告、14日戦況報告上奏。
この時点でようやく、本格的用兵(大兵の一挙使用)の必要性が認識される。

司令所での食事も掛盒に平らに一盛りし副食は塩もない状態。

近藤少佐起案の大本営宛第1信:
戦況逼迫困窮ノ状ハ予想外ニ甚シク 将兵ノ相貌ハ武漢作戦当時ノ第百六師団ノ夫ニ髣髴タルモノアリ」。
服部大佐の同日の報告電:
「制空権ヲ確保セサル限り正攻法ノ採用ハ困難ナリ」
「第二師団ノ某大隊ノ如キ一、二時間ノ砲爆撃ヲ以テ潰エタリ」
「一日モ速カニ飛行場ヲ推進シ強カナル航空兵力ヲ以テ制圧スルノ外ナキ結論ヲ得タリ」。

4日、宮崎参謀長、服部、小沼、辻、近藤各参謀凝議の上、爾後の作戦指導として、新に混成第21旅団(2大隊)を増加し、第38師団主力を11月上旬、第51師団を12月上旬に揚陸し、更に精強な1連隊(第6師団)を特殊船によって直接ルンガに強行上陸させ、12月中、下旬に総攻撃を再興する、陸軍飛行隊の進出を促進決定する、攻撃兵団として特に38師団の戦力保持に着意する等を決定し、服部大佐は大本営第1部長宛て打電。
「昨日小官到着後ノ激戦ニ於テ一回モ海軍機ノ協カナク完全ナル敵ノ制空下ニアリ 航空作戦強化ノ為陸軍航空部隊ノ増加ノ絶対必要ナル前電ノ如シ」
「丸山兵団(第2師団)ハ次ノ作戦兵力トシテ殆ント胸算シ得サルヲ以テ佐野兵団(第38師団)ノ外ニ更ニ一兵団ヲ直接作戦ノ為 別ニ一兵団ヲ大本営ノ後詰トシテ準備ヲ要スへシ」。
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11月2日
・北原白秋(57)、腎臓病で没。

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