2024年11月18日月曜日

長和6年/寛仁元年(1017)3月 藤原道長、長男内大臣頼通(26歳)に摂政を譲るが、大殿として継続して実権を掌握。

江戸城(皇居)東御苑
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長和6年/寛仁元年(1017)
この年
・摂関賀茂詣(せつかんかももうで)
摂関の賀茂詣は、藤原時平以降、賀茂祭の当日などに賀茂社へ参詣することから始まったが、当初は摂関だけではなく他の公卿も参詣していた。
しかし、一条朝後半以降になると、他の公卿は独自には参詣しなくなる。

一方で、道長の賀茂詣は大規模化していき、摂政を頼通へ譲った寛仁元(1017)年には頼通と2人で参詣しており、その弟敦通や頼宗も同行し、頼通には上官が従い、「上達部十四人、皆車に乗」って同道していることが注目される(『御堂関白記』)。
道長は他の公卿たちを従えて賀茂詣に行くようになった。
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・この頃、藤原公任『北山抄」の基礎が成立。
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1月
・前年、後一条天皇が三条天皇から皇位を継ぎ、諸社(石清水八幡宮・賀茂神社・春日神社)行幸のはこびとなる。
この年正月8日、摂政道長は、石清水・賀茂社行幸の上卿を勤めるよう大納言実資に内示した。
翌9日、正式に人選が決定し、上卿は実資、副には参議藤原公信が選ばれ、弁官からは左少弁源経頼・左大史但波奉親(たんばのともちか)がこの行事に当たることになった。
即日、行幸の吉日が実資の監督のもとに陰陽寮によって選ばれ、石清水行幸は3月4日(実際には3月8日に実施)、賀茂行幸は8月19日と決まる。
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1月22日
・この日深夜、宿直の滝口が一条院内裏の西中門の南わきで黒装束の男を発見し、蔵人頭のもとに連行中、逃げ出したので、追いかけて矢を放って射倒して捕えた。面体をあらためたところ、故左衛門尉忠道の従者であり、盗品と思われる鏡一面と白の狩衣を持っていた。
この騒ぎに検非違使を召したが1人も居合わせず、諸門の宿直を蔵人に巡検させたところ、誰も詰めていなかった。
結局、宿直をさぼった連中は怠状(たいじよう、始末書)を取られ、1ヶ月後厳重戒告のうえで許された。
盗人を捕えた滝口は大舎大允に昇任された。
内裏の警備容態はいたってだらしなかったらしい。
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2月6日
・この日、滝口大蔵忠親が一条堀川の橋(戻橋)上で殺害される(『御堂関白記』『日本紀略』)。
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3月8日
・この日午後3時頃、六角小路と富小路の辺(三条京極の少し西南)に住んでいた前大宰少監清原致信(むねのぶ、藤原保輔の兄の前大和守藤原保昌の郎等、清少納言の兄といわれる)の家を、「乗馬の兵七八騎、歩者十余人許(ばかり)」が取り囲んで襲撃、致信を殺害した。

襲撃は、その日、後一条天皇の石清水八幡宮行幸があった最中のことで、警備の手薄を衝いて巧妙に行なわれた。
殺された致信の親分の保昌は、道長の家司も勤めたお気に入りで、和泉式部の夫にもなった人だから、検非違使が現場に派遣されて調べた。
すると、一味のなかに秦氏元(はたのうじもと、源頼親の従者)がいた。頼親は頼光・頼信の兄弟で、有名な武士である。

検非違使が摂津にいるという氏元を追捕に赴き、その家に召し使われていた僧を捕えて調べたところ、この事件は頼親の指令で氏元がやったことだと白状した。
事の起こりは大和国の当麻為頼にからんでのいざこざで、保昌も頼親もともに大和守の前任者であるから、在任中の紛争が発展したものと考えられる。
頼親は一時、右馬頭兼淡路守の官を召し上げられた(やがて復活)。

頼親は世間に広く「くだんの頼親殺人の上手なり。たびたびこのことあり。」(『御堂関白記』)として知られている。
武士の暴力団的性格は恐るべきものがあり、しかもその裏には、私的な主従関係・血縁関係が絡み合っている。

この場合、保昌は元方の孫、致忠の子であり、頼親や頼信の母は元方の娘とも致忠の娘ともいわれるが、とにかく両者間に姻戚関係があるらしく、事態は複雑を極めるものだった。
このような暴力を伴う私的な人間関係の絡み合いは、当時の世相の一裏面である。
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3月16日
・藤原道長が長男内大臣頼通(26歳)に摂政を譲る。
道長が摂政だったのは僅か1年。道長は摂政の地位に執着しなかった。

この後、道長は「大殿」として隠然たる力を振るっていくことになる。
「大殿」とは貴人の当主の父の意味で、道長は公的な役職を自らは保持せず、周囲の人間を動かすことで実権を握っていった。
頼通より上席の大臣として、左大臣藤原顕光、右大臣藤原公季がいたため、摂政頼通を左右大臣より上席とする一座の宣旨を賜ることになった。
こうして、朝廷においては頼通が最上席になったが、実際にはまだ元気な父道長が大殿として控えており、頼通自身も何かと大殿道長にお伺いを立てている。

大殿道長
政治形態として道長が院政の先駆けであったことは、摂政を頼通に譲り、太政大臣を辞して以降も、大殿として摂関である頼通の背後において、政治の実権を掌握していたことからも窺える。
道長の大殿方式が院政へと継承され、譲位した後も天皇の背後で院が政治に関与する院政が成立した
摂関政治から院政への変化の原因としては、摂関家に入内させる娘が生まれなかったり、入内しても皇子が生まれず、外戚になれなかったこと、院が長命で政治に関心を示すようになったこと、貴族層において「家」が成立し父系が確立したことなどの状況的要因が挙げられるが、道長の大殿方式の政治形態が院政という統治のあり方の可能性を示したことが、その直接的淵源であると思われる。

摂関の地位は、道長・頼通以降、彼らの直系の血筋に固定化していく。
そして、院政期以降、摂関家が家格として成立し、外戚関係がなくとも摂関の地位を独占できるようになる。
摂関家の成立は、直接的には嘉承2年(1107)年、白河院により、鳥羽天皇と外戚関係にない、頼通の曾孫忠実が摂政に指名されて時に完了する。
その淵源は道長が、他の公卿たちとは隔絶した、天皇に極めて近い地位を築いたことによってもたらされた。
道長が圧倒的な権力・地位を築いたことによって、外戚関係になくとも、準三宮(じゆんさんぐう)宣下(太皇太后・皇太后・皇后と同等の待遇を与える命令)がなくとも、摂関家は王権の中に位置づけられるようになっていった。
「摂政を辞任する表を(後一条)天皇に献上した。辞表は天皇の手許に留められ、勅答があった。左近中将(藤原)兼綱が、勅答使として来た。左衛門督(藤原教通)が、代わりに勅答使を拝したことは、常と同じであった。」
「すぐに内大臣(藤原頼通)を摂政とするという詔(しょう)が下った。太皇太后宮大夫(藤原公任)が、詔を作成する上卿(しょうけい)を勤めた。」
(『御堂関白記』寛仁元年(1017)3月16日条)
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4月23日
・寛仁に改元。
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