2013年10月10日木曜日

明治37年(1904)2月24日 第3回旅順口攻撃(第1回閉塞作戦) 作戦を計画した有馬中佐と最も近くに閉塞船を沈めた廣瀬少佐

ハナミズキの紅葉 北の丸公園 2013-10-09
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明治37年(1904)2月24日
・第3回旅順口攻撃(第1回閉塞作戦)
5隻の老朽船(天津丸・報国丸・仁川丸・武陽丸・武州丸。各船に指揮官・機関長が乗り込み総計77名)。総指揮天津丸指揮官有馬良橘中佐。

午前0時30分頃、老鉄山(遼東半島南端)南東に達し、4時15分、湾口に進む。
諸砲台から猛射が浴びせられ、天津丸は老鉄山下に擱坐、仁川丸はほぼ予定地点に自爆自沈、報国丸は舵機を損傷、火災を起こし港口灯台の直下に擱坐、武州丸は予定地点到達以前に爆沈、武陽丸もその近くで自沈。
従って有効閉塞圏内に入ったのは仁川丸・報国丸のみ。
閉塞隊員の大部分は短艇に移乗し、待ち受けた第4、第14艇隊に収容されたが、報国丸の斎藤大尉以下15名は収容艇を発見できず、南方に航して隍城島に到着。ここで武州丸の島崎中尉以下14名と会し、24日芝罘に着いた。
3月27日第2回、5月3日第3回。

閉塞作戦のアイデアは、開戦前から海軍内にあったが、前年末、巡洋艦「常盤」副長有馬良橘中佐が軍令部次長伊集院五郎中将に献言したのを機に、作戦計画として採用された。
有馬中佐の構想は、船内をセメントづけにした大型汽船2隻を港口に沈没させるものであったが、司令部は閉塞船を5隻に拡大した。
企図が漏れぬよう有馬中佐が極秘かつ個人的に将校志願者を募り、各船の指揮官・機関長が決まった。
『天津丸』:第1艦隊参譲有馬長橘中佐、「初瀬」分隊長山賀代三大機関士
『報国丸』:「朝日」水雷長広瀬武夫少佐、「敷島」分隊長粟田富太郎大機関士
『仁川丸』:第1艦隊参謀斎藤七五郎大尉、「霞」乗組南沢安雄大機関士
『武揚丸』:「高砂」砲術長正木義太大尉、「初瀬」分隊長心得大石親徳中機関士
『宗州丸』:特別運送艦監督官鳥崎保三中尉、「常盤」乗組杉政人少機関士

旅順沖を通過した外国船の目撃談。
「日本の大形小形の水雷艇十四五隻に対し旅順砲台より盛んに砲撃せしも弾丸皆海中に落ちたるを目撃」(2月26日『東日』、山東半島北東部の港町芝罘(しふう)の特派員情報)
2月27日、イギリスの通信社ロイターなどを通して入手したロシア側の公報。
「数隻の大汽船を港口に沈め港口を閉塞するの目的を以て」、日本の艦艇が旅順を攻撃したが、「港口の通行は依然として自在」である、破壊汽船の乗組員はボートに救助されたが、若干は溺死した。

27日に発表された東郷平八郎聯合艦隊司令長官報告:
沈没船の名前、沈没に至る概況とその位置、沈没船に乗り組んだ77名の階級氏名などを公表し、「此勇敢なる行為は能く帝国軍人の忠勇義烈を表明せるものにして、港口閉塞の目的は不幸にして完全に達する能はざりしと雖も、其無形の効力莫大なるものありと信ず」(2月28日付け『東日』)。

この作戦を巡り、これ以降大々的な報道が行なわれるようになる。
特に、作戦に参加し、「忠勇義烈を表明」した軍人たちが焦点となった。
「此計画は我水兵が一死を賭して大胆不敵前代未聞一種の閉鎖術を創刱(そうそう)した」(初めて作った)ものであり、しかも「是等の勇士は皆上長の命令に依りて乗船したるにあらず、自ら進みて此の任に当らんことを求めた」といわれる(『東朝』2月27日)。
閉塞隊員たちは、大胆不敵で前代未聞の作戦を、強制されてではなく自発的に行なった勇士として、強い関心を呼ぶようになっていた。

唯一の戦死者、楳原健三海軍二等機関兵の扱い:
楳原の実家を訪問した記事は、家族が貧しい生活をしている様子と彼の経歴を紹介し、「今回戦死の報新聞紙に掲載さるゝや、父竹次郎は妻が悲嘆に暮れて仏壇に灯火を点ぜんとするを制しつゝ、吾児は神になれり大白(たいはく)を挙げて祝せんとの健気さは、此父にして此子ありと謂ふべし」と結ぶ(『東朝』3月4日)。
実家の貧窮ぶりが報じられ、山本権兵衛海軍大臣が500円、大阪朝日新聞社が50円、伯爵佐佐木高行夫人が10円、閉塞隊長海軍中佐有馬良橘夫人が3円など弔慰金を贈ったと報じられる(同3月10、11日)。

『日露戦争実記』(育英舎版)第3号。
「昔十万の元寇、艨艟(もうどう)巨艦を懸(かけ)並べて博多湾を圧するに当り、伊予の河野通有・通時は、軽舸(けいか)二艘を以て突進し、檣(はばしら)を倒し掛けて敵艦に乗移り、一艦を斬り靡(わ)けて敵の大将を生捕り帰りき。昔倭寇の明に寇する、必ず先づ自ら船を焼きて上陸し、帰途には何時も敵艦を奪ひて乗じ帰るを常としたりき。此くの如きもの、もと吾人の祖先が日常茶飯の事としたる所、一旦文明の進歩と共に、復た然く無鉄砲のことをなすものなからむと欲したりしも、日清戦役に黄海の勇将樺山華山あり、旅順の猛将山地独眼竜あり。又平壌の佐藤鬼大佐ありて、我が固有的勇気を発揮したりし以来、日本の古武士的元気は著しく復活し来りたるものゝ如し。今日帝国海軍の決死隊七十七士が、運送船五艘を以て旅順口の閉塞を企てたる如き、実に其一例に非ずや。」

「日本の古武士的元気」が、日清戦役で息を吹き返し、旅順口閉塞作戦に受け継がれた。
そして、「此くの如き計画の一たび目論まるゝを見るや、決死隊に人らむと欲したるもの実に二千人、而して撰に当りたるもの実に七十七士也。帝国海軍の士気や、既に天に冲(ちゆう)するを見るべからずや」といわれる。

「閉塞隊の大胆なる行動は、我が武士的精神を、事実上に発揮し、我が国民的性格の最も精華ある部分を表彰して遺憾なきもの」と述べ、「我が国民が、衷心感謝の情を以て、世界の列国が、嘆賞の念を以て、此の快報を迎ゆるもの、決して其故無しとせざるなり」。それ故、結果は予期通りでなくても、「此の一挙、以て敵軍を気死せしむるに足る」(『国民新聞』2月29日)

『風俗画報』主宰者山下重民は、開戦直後に「今回の出征は、もと仁義の軍なれば、国民も交戦国に対しては古来の武士道を守りて、徒らに侮慢(ぶまん)を為さず。相当の礼節を致して大局の全勝に尽瘁(じんすい)し、周到なる注意を以て文明の模範を世界に示さむことを切望す」(『画報』2月25日)と述べる。
ロシアとの戦争は「古来の武士道を守り」、「相当の礼節を致」すことを内外に指し示す機会であるだけではなく、そのまま「文明の模範」の支えとなるとも見られていた。
当時の日本人にとって、「古武士的元気」や「武士道」といった言葉で思い返されるイメージは、戦争を支える活力であり、同時に文明世界で日本人としての誇りを持って生きる原動力であるともとらえられた。

有馬中佐と廣瀬少佐
5隻の船には、それぞれ中佐1名、少佐1名、大尉2名、中尉1名計5名の将校と、大機関士(大尉相当)3名、中機関士1名、小機関士1名計5名の機関将校が、1名ずつ指揮官と機関官として乗り込んでいた。
その中で、総指揮の有馬良橘中佐(44)と副指揮者格の廣瀬武夫少佐(37)がとりわけ注目された。
大機関士として廣瀬と行動を共にした栗田富太郎の回想によると、閉塞作戦は開戦直前に、有馬中佐が9名の少壮海軍士官に呼びかけて立案したもので、その中の1人の大尉が開戦直後に戦傷を受けたため、急遽その代わりとして廣瀬が参加したという。

「斯(こ)の計画を熱心に主張せるは○○中佐にして、挺身決死隊の指揮官を以て自ら任じたり。又た右決死隊の一人なる○○少佐は、柔術家にして平生最も勇敢の聞えあり。其の船に上るや昂然として曰く、我能く敵の駆逐艦を分捕し此れに依て帰艇せんのみ、短艇の如きは其必要無しと。然(さ)れど艦隊にては、万一を慮りて短艇の準備を為したるなりと。」(3月1日付け『東日』ほか各紙)

第1回出撃の様子
悲壮感を漂う見送りの情景(『日露戦争実記』(博文館版)第4編)
「決死の勇士等が元船長以下と別るゝに臨み沈着にして壮烈を極めたる当時の状況」
「司令以下の各兵士に至る迄、自ら死地に就くの時なるにも係はらず、騒がず、臆せず、而かも凜乎(りんこ)たる意気各自の面に現はれ、一々鄭寧なる挨拶を為し、且つ「国家の為め船を拝借して参ります」と陳べつゝ永訣の意を漏らして別れたるが、其忠勇義烈なる言動には元乗員等をして覚えず感涙に咽ばしめき。アゝ棲み慣れし我船は決死の勇士を載せて敵港に至り、明日は彼処(かしこ)に於て無残の最後を遂ぐることかと、思へばこれも涙なりき。是れ佐世保に帰着せし元乗員等が此際斉(ひと)しく感ぜし所なり。」

『東京日日新聞』(3月7日)は、軍艦長の告別の辞を「聴くもの覚えず暗涙を浮べ感極まりて啼泣」し、「四顧淼茫たる青海原にて最後の訣別をなし、各艦の乗員また上甲板に集り帽を振り万歳を叫んで勇士を送る、送るものは再会を期せず送らるゝものは生還の意なし、鳴呼此の死別と生別とを兼ねたる悲壮の状を見て誰かは一掬(いつきく)の涙なかるべき、西海に傾き沈まんとする夕輝の影も一入(ひとしお)悲酸の色を虚空に彩りぬ」と報じる。

廣瀬が乗り組んでいた軍艦朝日の「水兵の通信用として謄写版に附したる者なりとて」送られてきた通信が伝える情景。
「廣瀬少佐告別の状に至りては血あるもの誰か断腸の思(おもい)なからんや」という(『読売』3月6日)。
その通信によれば、全員が「赤誠以て其成功を祈り此の決死隊諸氏の万歳を三唱」したのに対して、「廣瀬少佐は徐(おもむろ)に訣別の辞を述べ決死隊一同と艦を去り勇ましく出立」した。
「丹心報国、一死何辞、与船瘞骨、旅順之陲」(丹心国に報ぜん、一死何ぞ辞せん、船と与(とも)に骨を瘞(うず)めん、旅順の陸(ほとり))。
さらに、「是等勇士を乗せたる数隻の商船を『決死隊を送る』なる軍歌を唱へつゝ帽振りて別れし光景は、実に悲絶壮絶筆に尽し難」く、「覚えずも戎衣(じゆうい)に一滴の露を宿し」た。
「翌払暁旅順方面にて探海灯と砲火の閃光とを見ては彼の商船の上のみ気遣はれ、艦内寂(せき)として声なく唯々(ただただ)神明の擁護もて成功を祈り居り候(中略)内に、一艇の甲板上我水雷長廣瀬少佐を発見致し侯時は感極まりて一同思はずも万歳を絶叫致し申候」。
旅順港口に到達し沈没船は、5隻中2隻であったが、廣瀬少佐指揮の報国丸が最も近づいて沈没させることができた。
このため、「五艦の運送船に乗組める七十七士の勇猛は、固より之を賞賛せざる可らずとするも、(中略)卓絶冠絶の武功に至っては、断じて之を報国丸乗込の廣瀬少佐以下十六名に推さゞるを得ず」と讃えられている。
「平生豪胆を以て知られたる廣瀬少佐」が成し遂げたのは、「全く鬼神の所業」であり、「今後再び見得可(まみうべか)らざるの奇勲」である。
それゆえ、「日露戦争の前後を通じ、陸戦海戦に亘りて、我が武人の勇烈を宇内に誇示すべきは唯此報国丸に於て之を見るべきのみ」と激賞されている(『実記』5)。

育英舎版『日露戦争実記』第3号でも、「廣瀬少佐の冒険」という見出しの下に、「万死を冒して当初の目的を達するを得たる廣瀬少佐の冒険こそ殊(こと)に目覚ましかりける」と讃えられ、その詳細が報じられている。
「弾丸雨飛の間」を進み「敵の通路に最も害を為すべき場所に達したる時、恰(あたか)も善し報国丸は敵弾の為めに焼かれたれば我手を用ひずして沈没せしむを得たり」。
この時、下士卒が負傷し持ち場から離れたことを、「少佐は大に痛心し、漸(ようや)くにして一同を集め」、全員がボートに乗り移り、破損のため「侵入する海水を汲み出し」ながら、「辛うじて我水雷艇隊まで漕ぎ付け一同万死の中に一生を得たり」という。
行方不明となった部下を簡単には見捨てないという行動を、廣瀬は1ヶ月後にもう一度とることになる。
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