2013年10月25日金曜日

明治37年(1904)3月6日~3月13日 週刊『平民新聞』第17号、「平民社籠城の記」 同第18号、幸徳秋水「与露国社会党書(露国社会党に与うる書)」

竹橋暮色 2013-10-25
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明治37年(1904)
3月6日
・第1次ウラジオストク方面威圧作戦(ウラジオ艦隊牽制)。
第2艦隊(上村彦之丞)第2・3戦隊、黄海方面から長躯ウラジオ港外に急行、薄氷海面より砲撃。
翌7日も。
効果は不充分。ウラジオ艦隊の跋扈を許す上村は国民の非難を浴びる。
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3月6日
・清国、東三省への食料輸送禁止。
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3月6日
・参謀総長大山巌元帥、第2軍動員下命。
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3月6日
・週刊『平民新聞』第17号発行
社説「戦争と新聞紙」
社会の木鐸をもって任じ、公益のためを高く標榜する新聞紙が、軍国主義を謳歌し、これに媚びおもねって、民衆を煽動する無責任をとがめ、満天下の新聞記者に好戦の酔狂よりさめよ、と訴える。
この月、平民社財政困難となり、社員給料2割減・独身者無給となる。

・「平民社籠城の記」。社員の仕事ぶりや社に集まる人たちの様子。
「事務の分担といへば、編集の雑務は枯川が引受け、秋水と西川君とが主なる文章を作る。それから、いささか諸君を驚かすべきは秋水が会計主任として、覚束なき手付に算盤をいじくつてゐる事である。石川君もまた、その不似合なる態度を以て売捌き等の事務に当り、兼ねて編集の雑務を手伝ふ。」

「社友の面々と社会主義協会の人々とは、これは常連として記すまでもないが、ここにしばしば我社の編集局を賑はす一対の好来客がある。それは石川半山君と山路愛山君とである。二君が熱心なる主戦論者にして『従軍的紳士』なることは、読者諸君の熟知せらるる所であろう。然るに二君はその説の故を以て友情を捨てず、時に歩を枉)ま)げてわれわれを見舞はれる。そして二君の多才能弁なる、忽ちにしてわが編集局に花を咲かせてくれる。われわれはこの遠慮なき友に対してしばしば忌憚なき攻撃を加えるが、二君の融通円満なる海大の度量は敢て怒らず敢て迫らず、ワッハハハハと互いの論議を笑ひくずすが常である。……その外、東京および地方の同志者同業者、乃至は篤志なる読者諸君、或はまた道場破りとも目すべき志士論客、お客の種類はいろいろであるが大概一日に三人五人ない時はない。そこで折角の編集時間を談笑に費やして、よんどころなく夜の十二時、一時までセッセと働かねばならぬこともしばしばあるが、枯川の如きはとかく仕事をおくらせて、二日も三日も泊りこんでゐる時がある。」

「著者(*荒畑)が平民社に出入するようになったのは三十七年になってからで、いわゆる「従軍的紳士」の一人、ヨークシャー豚のように肥った体をして、どういう了見か鼻毛を長くのばした愛山先生の姿もそこでよく見かけた。黒の綿服に黒繻子の袴をはき長髪の髻(もとど)りを結んだ田中正造翁の姿も幾度か見かけ、翁に対する諸先輩の慇懃な態度に深く心を打たれたりもした。

毎土曜日の午後には、刷り上って来た新聞の発送を手伝うために多くの同志が集まった。階下の九畳の室には社会主義協会の古参会員にまじって自柳秀潮、後に民政党の代議士になった山田滴海(金市郎)、安成貞雄等の早稲田大学生。明治学院の学生で後に映画女優及川道子の父となった及川鼎寿や、吉田碧寥。外国語学校の学生だった大杉栄、詩人肌で雄弁家の山口孤剣(義三)、小田頼造などの青年が新聞を折りたたみながら談論風発気焔万丈で、まだ一少年の著者などは畏まって拝聴するに過ぎなかった。その頃の大杉は無口なおとなしい青年で、いつも金ボタンの制服を着て、頭髪を油で固めて「大ハイ」の綽名で呼ばれていた。蓋し、大ハイとは「大杉ハイカラ」の意である。

やや特異な存在は小田頼造で、「平民社龍城の記」によると、「彼は熱心なる社会主義の読書生で、またその一身を捧げて社会主義伝道のために尽さんとする好青年であるが、我社は既にこれに分つべきパンを有せぬので彼はやむなく自費をもって本社に起臥している。」この小田こそ後日、「伝道行商」という新しい形式の宣伝運動を創始した人物なのである。」(荒畑「平民社時代」)
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3月7日
・村井弦斎「戦死者の家族」(「報知新聞」3月7日)では、戦没者遺族の生活補償、精神面でのフォローの必要性を論じた。
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3月7日
・皇太子嘉仁親王と山県元帥を大本営付とする、児玉中将の天皇親政による戦地大本営構想。
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3月7日
・武見太郎、誕生。
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3月8日
・旅順口にロシア新太平洋艦隊司令長官S・マカロフ中将着任。
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3月8日
・韓国政府、日韓議定書を官報告示。反対の声高まる。中枢院(内閣諮問機関)副議長李裕寅は上疎して李址鎔を弾劾。
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3月8日
・西村栄一、誕生。
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3月9日
・朝、マカロフ中将、日本艦隊の北進を知り老虎尾半島中部東岸に汽船2隻を沈置させる。
午後5時5分頃、旅順口威圧作戦に出撃の連合艦隊は円島南西に到達、第1・3駆逐隊が旅順口を目指す。
午後9時頃、ロシア駆逐艦「レシテリヌイ」「ストレグーシチ」は帽島南で日本駆逐艦隊を発見、やりすごす。
午後10時25分頃、第1駆逐隊は老鉄山沖に、第3駆逐隊は11時20分旅順港外に到達。
午前3時30分~55分、ロシア駆逐艦掩護に向うロシア第1駆逐隊とロシア第1駆逐隊が遭遇、交戦、ロシア艦2隻が被弾して退却。
午前6時、第1駆逐隊に合流しようと南下した第3駆逐隊はロシア駆逐艦「レシテリヌイ」「ストレグーシチ」を発見、交戦。
6時40分「ストレグーシチ」が被弾。「レシテリヌイ」は旅順港へ退却。「ストレグーシチ」は日本艦4隻に包囲・攻撃、9時すぎ沈没(乗組員55人中生存者4人)。
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3月10日
・京義鉄道敷設に関する日韓約款調印。
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3月10日
・平民社西川光二郎・野上啓之助、伊豆地方(熱海、網代、初島、下田、沼津、三島など)へ社会主義伝道行商出発。30日帰社。
「社会主義入門」「百年後の新社会」各50部など販売。

「社会主義入門」:
「平民文庫」第1巻、定価10銭。6篇「共同生産」(西川光二郎)、「階級闘争」(堺利彦)、「社会党の運動」(幸徳秋水)、「社会主義のイロハ」(石川三四郎)、「社会主義と中等社会」(堺利彦)、「社会主義論」(安部磯雄)。「平民文庫」は8巻刊行、1万5千余販売。
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3月10日
・この日、戦時公債1億円応募締切り日。この日だけで1億2586万9625円の申し込み。総額4億5222万5775円。
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3月10日
・シカゴ、アメリカ社会党大会。片山潜、招かれる。大統領候補ユージン・デブス・副大統領候補ベン・ハンフォードを指名。
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3月11日
・日本軍1万3千、韓国主要地域進駐。
4月3日、日本軍(韓国駐箚隊)を「韓国駐箚軍」(司令官原口兼済少将)と呼称。
9月、近衛師団長・長谷川好道大将が司令官となる。
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3月11日
・上海で『東方雑誌』創刊。
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3月11日
・日本赤十字(代表松方公爵)、露戦艦「ワリヤーク」重傷者を松山救護所へ収容。
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3月11日
・同志社高等学部文科学校と波理須理化学校、合併して同志社専門学校として設立認可。4月1日開校。
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3月12日
・労働運動家の高野房太郎(35)、没。
「山東省青島の独逸病院に於て肝臓膿腫の為めに斃る。時に年三十七。同地に於て葬儀を営み、遺骨は之を東京に送り、本郷駒込吉祥寺に葬る」(大日本人名辞書)
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3月13日
・週刊『平民新聞』第18号発行

幸徳秋水「与露国社会党書(露国社会党に与うる書)」。全世界の社会主義者が共通の敵である軍国主義と戦うことを提言。
同号に「記者足下に寄す、将に召集さられんとする予備兵に一人」の寄書。記者も自らの無力を認める。
「紀伊禄亭主」(大石誠之助)の投書「国債応募の虚勢」。

「鳴呼露国に於ける我等の同志よ、兄弟姉妹よ、我等諸君と天涯地角、未だ手を一堂の上に取て快談するの機を得ざりしと雖も、而も我等の諸君を知り諸君を想ふことや久し。」

「諸君の先輩たる義人烈士はために一代の名誉をすて、千金の栄華を抛ち、流離轗軻(かんか)の惨を極め、或はベーターポールの牢獄に洩泄(ろうせつ)の辱めを被むり、或はシベリアの鉱山に無間の苦をうけ、或は絞首台の鬼となり、或は路傍の土となる者、幾千幾万なるを知らず。……我等平生、諸君の苦心惨澹の状を想ふてひそかに同情にたへざると同時に、更に諸君の操守の堅忍不抜なるを見るに及んで感奮おかず、謂へらく、我等この頼もしき兄弟姉妹を有す、我等の大主義のために社会生民のために何等の幸福ぞやと。」

「諸君よ、今や日露両国の政府は各其帝国的欲望を達せんが為めに、漫(みだり)に兵火の端を開けり、然れども社会主義者の眼中には人種の別なく地域の別なく国籍の別なし、諸君と我等とは同志なり兄弟なり姉妹なり、断じて戦ふべきの理あるなし。諸君の敵は日本人にあらず、実に今のいはゆる愛国主義なり、軍国主義なり、我等の敵は露国人にあらず、而してまた実に今のいはゆる愛国主義なり、軍国主義なり。然り愛国主義と軍国主義とは諸君と我等と共通の敵なり、世界万国の社会主義者が共通の敵なり。」

「平和を以て主義とする諸君が其事を成すに急なるが為めに、時に干戈を取て起ち、一挙に政府を顚覆するの策に出でんとする者あらんか、我等は切にその志を諒とす。しかもこれ平和を求めて却つて平和を撹乱するものにあらずや、目的のために手段を選ばざるはマキャベリー一流の専制主義者の快とする所にして、人道を重んずべき者の取るべき所にあらず。」

「嗚呼諸君、諸君が暴虐の政府に苦しめられ、深刻なる偵吏に追はれて、我大主義の為めに刻苦するの時、三千里外、遙かに満腔の同情を以て諸君の健在と成功とを祈れる、数千の同志、兄弟、姉妹あることを記せよ」

次の第19号(3月20日)に逐語的に翻訳されて英文欄に掲載されると、欧米各国の社会党はこれを読んで深い感銘をうけ、この一文は普仏戦争当時における万国労働者同盟の決議にも比すべき文書であると競ってその機関紙に訳載した。
また、ニューヨークのドイツ語新聞『フォルクス・ツァイトウング』はその全文を写真版にして紙上にかかげた。

寄書「記者足下に寄す、将に召集せられんとする予備兵の一人」
(社会主義を奉ずる非戦論者の苦衷煩悶を訴える)
「予は記者足下が……社会主義を信ずる兵士同人が国法の下に桎梏せられて、一死報国の危険を強制せらるる戦場の覚悟、陣営の態度を立案公表せられて、予輩をして砲火相交えるの間にも清新有益の護符を懐中にして、安心立命の標的たらしめよ、切に予輩の赤誠を酌んで金玉の訓誨を吝(おし)むなかれ、而して予輩の征途に向って一道の光明を点ぜしめよ」

これに対して、
記者も「至情至文、読み終って胸迫るを覚ゆ、然れども吾人もまた兄君と同じく殆んど言う所を知らず」と自らの無力を認める。
そして「願わくば本誌第十四号『兵士を送る』文を再読し、いささかでも慰籍と希望を得んこと」の述べる。
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3月13日
・児玉中将、戦地大本営具対案検討を総務部長井口少将と第一部長松川大佐に指示。
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3月13日
・伊藤博文、韓国慰問特派として、東京出発(4月1日帰国)。
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