北の丸公園 2013-10-11
*長久4年(1043)
この年
・ハラルド・ハードラーダ、ビザンチンの傭兵を辞めキエフに滞在
*
・この頃、イベリア半島、サラゴーサのスライマーン・イブン・フードにより1039年に退位されていたトレード王マームーン(後ウマイヤ朝の後継諸国家 の一つ)、カスティーリャ王兼レオン王フェルナンド1世より年貢と引換に、復位(トレード王1043/44 ~ 1075、バレンシア王1065~1075)。
1062年頃、マームーンが年貢の納付を拒否。フェルナンド1世、タラマンカ、アルカラ・デ・エナレースを包囲・攻撃、ハラーマ川とエレナース川流域を襲撃。納付の再開を強要。
*
・この頃、イベリア半島、エル・シド・カンペアドル(ロドリーゴ・ディーアス・デ・ビバール)、ブルゴス北部近郊のビバールで誕生(1043?~1099、シッドは「長老、主人」を意味するアラビア語サイイドに由来)。
父ディエーゴ・ライーネスはカスティーリャの小貴族、名門出身の母方の縁故でフェルナンド1世皇太子サンチョ(サンチョ2世)の許で成育。
*
・サレルノ候グアイマリウス5世、メルフィに行き、ノルマン人が征服した土地と征服予定地を「封」として与え、ノルマン人が征服したアプーリア地方の「宗主権」を獲得
(1043年1月の文書で「アプーリアとカープアの公」の称号を用いる)。
鉄腕ウィレルムスとソレント公の娘と結婚させる(ソレント公娘はサレルノ候グアイマリウス5世姪)。
メルフィでの土地の分割内容:メルフィはノルマン人の首領の間で分割
(アヴドゥイヌス、ノルマン人首領が獲得した町の半分を獲得。アヴェルサ伯ライヌルフス、シポントとガルガーノの一部を獲得)。
12人のノルマン人首領:
鉄腕ウィレルムス、アスコリ。
ドロゴ、ヴェノーサ(オートヴィル家墓所)。
アルノリヌス、ラヴェッロ(アルノリヌス没後、フンフレドゥスが領主)。
フゴ・ドゥテボヴィ、モノーポリ。
ランドゥルフス、カンネ。
グアルテリウス(アミークス息子)、チヴィータ。
ペトルス(アミークス息子)、トラーニ(1057年ロベール・ギスカールに反乱、鎮圧)。
ラドゥルフス(ベベーナ息子)、サン・タルカンジェロ。
トリスタイヌス、モンテペローソ。
ヘルヴェウス、フリジェント。
アスケッティヌス(アヴェルサ伯ライヌルフス弟)、アチェレンツァ。
ラインフレドゥス、ミネルヴィーノ。)。
メルフィでの土地分割後、ノルマン人達はサレルノ候・アヴェルサ伯指揮下、東ローマ領アプーリア征服を再開。
サレルノ候グアイマリウス5世・アヴェルサ伯ライヌルフス、バーリを攻撃、失敗。
*
・キエフ公子ウラディミル、コンスタンチノープル攻撃。
*
・ハインリヒ3世(26、位1039~1056)、アンジュー伯ジョフロワ・マルテル義娘アグネス(18)と結婚。
大修道院長、「フランス風愚行の慣行がわが王国に移入される」と憤慨。
アグネス;
アキテーヌ公ポワトゥー伯ギョーム5世娘。
1025~1077、息子ハインリヒ4世の摂政(1056(30)~1062)。
母アグネスが1031年アンジュー伯ジョフロワ・マルテルと再婚(結婚当時アンジュー伯義娘、この結婚はアンジュー伯と皇帝ハインリヒ3世の同盟成立を意味する)。
改革派教皇の熱心な支持者であり教皇庁とハインリヒ4世との間の最高の大使ともなる。自分専用の書記、家事雇い人がいて、宗教上の寄進の割り振りに大きな発言力を有する。
*
・皇帝ハインリヒ3世、ハンブルグ・ブレーメン大司教にアーダルベルト(43、アダルベルト、マグデブルク大司教とは同名異人)を任命。
アーダルベルト、スカンディナヴィア方面の布教開始。
ザクセン大公、ハインリヒ3世が自己の支配領域に内偵者を送り込んだとして態度硬化。
アダルベルト;
ハルバーシュタット司教座首席司祭、ザクセン宮中伯の兄弟。1000?~1072、位1043~1072。
北欧総大司教区構想を抱く。
スラブ人のキリスト教化が使命。
オポリート候ゴトシャルクの協力を得て、リューベク、オルデンブルク、レンツェン、ラッツェブルク、メレンブルクに修道院建設。
キリスト教化は順調に進む。
ヴェンデ人の状況。
オーデル・ナイセ川以西に住むバルト・スラブ人。
3つの種族。
①オボリート族:バルト海沿岸。
②ウィルツェ族:北東部からシュペー川下流。
③ソルビア族:南部。
*
・ペトルス・ダミアニ(37、1006~1072)、フォンテ・アヴェラのカマルドリ会修道院長就任。
1057年(51)オスティア司教枢機卿。
*
5月8日
・諸国で旱害ひどく,神泉苑で請雨経法を行う(「扶桑略記」)。
* * 長久5年/寛徳元年(1044)
この年
・慶暦の和約。
西夏・李元、大軍を率いて宋に侵入、戦いが長期化する中で、両国は慶暦の和約締結。
西夏は宋に臣礼をとり、代わりに毎年銀5万両・絹13万疋・茶2万斤を得、さらに国境に貿易場を設けて貿易を行うことを認めさせる。
*
・ウェールズ、グウィネッズ王・ポウィス王グリフィズ、アイルランドより侵入したデーン人を撃破。
*
・ウェールズ、デハイバース王グリフィズ・アプ・ラゼルフ、即位(位1044~1055)。
グウィネッズによるウェールズ統一を阻止。
*
・アンジュー伯ジョフロワ・マルテル、トゥールを併合。
アンジュー家の歴史全てがトゥール獲得の準備
(9世紀、初代インゲルガリウス、武力でトゥール教会守護聖人の遺物を取り返す。50年前フルク・ネラが、ランジェ、モンバゾン、モンリシャール、モンボワヨーの 諸城をもってトゥール包囲を開始)。
*
・サレルノ候グアイマリウス5世・鉄腕ウィレルムス、東ローマ領カラーブリアに侵入。
*
・ドイツ、オーバーロートリンゲン大公ゴットフリート(髭)の反乱(1044~1045)。
オーバーロートリンゲン大公ゴットフリート(髭):
オーバー ロートリンゲン大公1044~1047、ニーダー ロートリンゲン大公1065~1069)。
1044年ロートリンゲン大公ゴツェロ1世、没(大公在位1023~1044)。
皇帝ハインリヒ3世、ゴツェロ1世の長男ゴットフリート(髭)のロートリンゲン大公一括相続を認めず、長男ゴットフリート(髭)をオーバーロートリンゲン大公(位1044~1047)、次男ゴツェロ2世をニーダーロートリンゲン大公(位1044~1046)と分割授封。
ゴットフリート(髭)、ハインリヒ3世の措置は当然の世襲権に対する侵害と主張。
ハインリヒ3世、諸侯会議を開催、ゴットフリート(髭)の不服従を王に対する反逆としオーバーロートリンゲン大公領を没収。
ゴットフリート(髭)、権利の正当性を主張、フェーデ(私闘)開始。
戦争長期化、戦火はロートリンゲン全土に及ぶ。
1045年7月、上ロートリンゲンをゴッドフレードが、下ロートリンゲンをバイエルン公弟フリードリヒが領することで落着。
*
・イベリア半島、セビーリャ王国(後ウマイヤ朝後継諸国家の一つ)ムータディド(位1042~1069)、メルトラを併合。
*
・シチリア、カルブ朝のシチリア支配終了(948~1044)。
ハサン廃位(位1040~1044)し、シチリア各地に割拠のアミール(総督)達の争い激化。
以後の主な推移。
①シラクーザの将軍イブン・アッスムナ、他の将軍2人(イブン・マクラーティ、アブド・アッラーフ)を撃破。
②イブン・アッスムナと妻マイムーナの夫婦間の諍いが、妻の兄弟の将軍イブン・アルハッワースとの争いに発展。
③イブン・アッスムナがイブン・アルハッワースに敗退。
イブン・アッスムナ、南イタリアのノルマン人に援助を依頼。
援助の際の「ノルマン人に領土を与える」との条件が、1060年ノルマン人によるシチリア征服の道を開く。
*
・教皇ベネディクトゥス9世(28)追放の陰謀、成功(トゥスクルム家、位1032~1044、1045、1047~1048)。
*
5月24日
・頼通の長子、通房、突然の病により没。
つぎに頼通の後継者とされたのが、進命婦(しんのみようぶ)藤原祗子(ぎし、頼成娘)との間に生まれた師実(もろざね)。
頼通と祗子との間には定綱・忠綱・俊綱・覚円・寛子・師実と六人の子女がいたが、師実より前に生まれた男子4人(定綱・忠綱・俊綱・覚円)は次々に養子に出されたり、出家している。
頼通の日記があまり残されていないので、その間の事情はよくわからない。
*
6月
・ノルマン人最大に指導者アヴェルサ伯ライヌルフス、没(位1030頃~1044)。
ライヌルフス甥(アチェレンツァ伯アスケッティヌス(アヴェルサ伯ライヌルフス弟)息子)アスケッティヌスをノルマン人が後継アヴェルサ伯に選出(位1044~1045、1年後没)。サレルノ候もこれを承認。
*
7月
・ハンガリーのアルパーデ家アーバに対するハインリヒ3世遠征軍、メンフォ(メーンフェー)でハンガリー軍に最終的に勝利 (1041~1044)。
*
11月24日
・「寛徳」に改元。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿