2014年12月25日木曜日

「江湖」の精神取り戻そう 東島誠 (『朝日新聞』2014-12-20) : 「江湖は、・・・一つの場所に安住することを良しとせず、外の世界へと飛び出すフットワークの軽さを表します。国家権力にも縛られない、東アジア独自の「自由の概念」といってよいでしょう。」

「江湖」の精神取り戻そう 東島誠
(『朝日新聞』2014-12-20言語空間を考える 拡散する排外主義)
67年生まれ。聖学院大学教授。著書に「(つながり)の精神史」「自由にしてケシカラン人々の世紀」「公共圏の歴史的創造」。共著「日本の起源」。

坂本龍馬が理想を求めて土佐を脱藩したときの出港地といわれているのが、伊予国長浜(現在の愛媛県大洲市)の「江湖(えご)」の港。本来の読みは「ごうこ」、もしくは「こうこ」です。

江湖は、唐代の禅僧たちが「江西」と「湖南」に住む2人の師匠の間を行き来しながら修行した故事に由来します。一つの場所に安住することを良しとせず、外の世界へと飛び出すフットワークの軽さを表します。国家権力にも縛られない、東アジア独自の「自由の概念」といってよいでしょう。

幕末を駆け抜けた龍馬の遺志を継ぐかのように「江湖」の看板を掲げたのが、明治期の言論界です。「江湖」を名に冠する新聞・雑誌が多数生まれました。当時は「官」に対する「民」、「国家」に対する「市民社会」が「江湖」でした。自由民権思想のリーダーだった中江兆民は、東洋自由新聞で読者を「江湖君子」と呼んで社説を書き、晩年は兆民自身が「江湖放浪人」などと呼ばれました。

現代では「江湖」は全くの死語となりました。ネット空間においても、私は「江湖」の精神を見つけにくいと感じています。「江湖」とは正反対の嫌韓・反中やヘイトスピーチなど、排外的な主張があふれているからです。異論を述べると激しく攻撃され、排除される。ネットは人々を開くどころか、閉じる方向へと進める役割を果たしていると思います。

■力増す「対外硬」

ところが明治期を振り返ると、そこには「江湖」の精神が息づいていました。夏目漱石をはじめとする名だたる文豪が寄稿した「江湖文学」は、無名の読者に投稿を呼びかけて参加の場を開きました。同誌の仕掛け人、田岡嶺雲は、窮乏していた韓国(植民地支配以前の大韓帝国)からの留学生を援助するため、幸田需伴の妹、幸らの出演するチャリティーコンサートを企画し、「江湖」に対してて義援金を呼びかけてもいます。

しかし、「江湖」の精神は、日露戦争を境に退潮していきます。かわって政府の弱腰外交をたたき、外国への強硬姿勢を掲げる「対外硬」が力を増し、「下からの運動」が台頭しました。その頂点が1905年の日比谷焼き打ち事件です。ロシアに譲歩したポーツマス条約に不満を持つ数万人の群衆が日比谷公園に詰めかけ、暴徒化して内相官邸や警察署、政府擁護の新聞社を襲撃したのです。

社会派弁護士の花井卓蔵らと超党派的な政治結社「江湖倶楽部」を立ち上げた小川平吉は、早々に「江湖」の世界を離脱し、「対外硬」を推進しました。さらには政治家として、その後の韓国の植民地化や袁世凱政府への21ヵ条要求、治安維持法制定にも深く関与するに至ります。

「江湖」が退潮したもう一つの理由としては、「江湖倶楽部」と共闘して社会変革に取り組んだキリスト教思想家、内村鑑三のような良心的な知識人たちが、時代の変化とともに内省に向かい、結果として積極的な外への発言力を弱めることになった点があります。

かくして「江湖」は「対外硬」に負け、日本は戦争の時代に突入していきました。ネットの言論空間やデモで排外主義が吹き荒れる昨今の状況は、百年前の「対外硬」を思い起こさせます。

■新聞は「荷車」に

現代のメディアに「江湖」の精神を復活させる道はあるのでしょうか。新聞社の主筆も務めた中江兆民は「新聞は輿論を運搬する荷車なり」と語っています。私は「荷車」での運搬に汗する肉体労働、そのアナログ感が重要だと考えています。新聞記者は現場を歩いて、取材先の話を丹念に拾うことが大切だと思うからです。

江戸時代に活躍した行商の貸本屋も重い本を何十冊も背負い、読者を訪ね歩く大変な重労働でした。彼、彼女らは書物だけでなく、様々な情報を直接人と会うことで媒介していったのです。人々と直接顔を合わせて交流するその様子は、現代よりもはるかに開かれた社会を感じさせます。

希望や明るさが感じられない時代です。それでもまだ、考え、発言する自由は奪われてはいません。既存メディアは考えるための材料を汗して運搬することを、あきらめてはいけないと思います。
(聞き手・古屋聡一)

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