2015年1月7日水曜日

1786年(天明6年)6月~8月 貸付会所の法、中止 江戸開府以来の大洪水 フランス、カロンヌの財政改革 10代将軍家治(50)没 田沼意次、老中罷免 【モーツアルト30歳】

京都 雪の神泉苑 2015-01-02
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1786年(天明6年)
6月
・~7月、武蔵、下総、上野、下野に大雨。手賀沼、印旛沼の開墾計画中止となる。
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・貸付会所の法
この年、以後5年間幕領・私領の農民から持高100石につき銀25匁ずつ、町人からは間口1間につき銀3匁ずつ、さらに寺社や山伏などからも1ヶ所につき15両以下をそれぞれ徴収し、これに幕府の資金を加えて大坂に貸付会所を設立し、諸大名に貸し付ける構想が打ち出される。
幕府主導の大規模な中央金融機関の設立構想。
新たな負担を強いられる庶民や、領内の寺社、百姓、町人に対する幕府の介入を嫌う諸大名の反対にあい中止。

辻善之助『田沼時代』
「田沼が執政の最後においてやった経済上の積極政策で見ん事失敗したことがある。それは天明六(一七八六)年六月に触れ出したところの貸金会所の法であった。その法は諸国の公領私領の百姓からは百石につき銀二十五匁、寺社、山伏からは一ヵ所につき金十五両、以下等差をつけて出金する、町人は間口一間について地主から銀三匁宛を五ヵ年の間に出さしめて、その金を融通のために諸大名に七朱の利を以て貸付ける。抵当には大坂表通用の米切手ならびに領内相応の村高を証文に書入れる、という法で表向からいうと出金者にも、また借手の方にも誠に都合が好い法のようであった。これは詰り零細な資金を吸収してこれを運転しようという策から出たものだろうと息う。幕府は大名に貸付けるところのこの資金を間に立っておって扱い、そうして融通をつけて財政を助ける一端に資するつもりであった事かと思われる。・・・
(略)
この時に当って諸国百姓町人を始め、多くのものは、前年凶歉(きょうけん)の疲労なお休まず、租税滞納のものも少なからぬのに、かかる命が出たので、皆不平の色に満ちていた。
この前年の事であるが田沼は、大坂町奉行の佐野備後守政親に命じて、大坂の豪商から数万金を出さしめて、その金を諸大名に貸付けて、その利子の内、七分の一を幕府に納めしめようと企てた。しかるにこれは行われなかった。というのは豪商たちの考では、たとい幕命といえとも、諸大名がこれを返さなかったならば、自分たちは元金をも失ってしまう。それよりもむしろ始から幾分かを幕府に納めて置く方が増しだという事で、遂にその事が行われなかった。そこで天明六(一七八六)年になって、融通金と称して右の貸金会所の事を図ったのである。しかるに間も無く田沼は没落して、この事は遂に行われずに終った。」
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6月1日
・フランス、アレッサンドロ・カリオストロ伯爵、バスティーユ牢獄から釈放。
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6月3日
・ピアノ四重奏曲第1番K.478に対して出版契約していたホフマイスターが、むずかし過ぎると注文、モーツァルトはその後2曲書く契約を破棄、2月完成の、K.493 ピアノ四重奏曲第2番(変ホ長調)をライバルのアルタリアから出版。第3曲は作曲せず。
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6月7日
・小浜藩医・蘭学者中川淳庵(48)、没。
中川淳庵:
元文4年(1739)小浜藩医中川家3代目として江戸に誕生。少年期より薬の研究に親しみ、青年期には本草家として知られるようになる。
宝暦7年、平賀源内主催の薬品会に数種の薬品を出品。
明和3年、宇田川玄随等と薬品会を主催。
同5年、稽古料3人扶持、7年父隠居の後をうけて家督相続、120石が与えられる。
安永7年、藩の奥医師を命じられ、天明元年(1781)に20石加増され都合140石となる。
同5年初めての小浜行。
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6月10日
・モーツアルト、クラヴィーアのためのロンドへ長調(K.494)作曲。
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6月12日
・~17日、江戸開府以来の大洪水。
「天明六〔一七八六〕年六月の十二日からズッと続いて十六、十七と洪水があった。これは江戸開府以来の大水と称せられる。」(辻善之助『田沼時代』)"
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6月21日
・フランス、ラ・モット伯爵夫人、処刑。
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6月26日
・モーツアルト、ホルン五重奏曲 変ホ長調 (K495)作曲。イグナーツ・ロイドゲープのため
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7月
・この月、再び大雨が続き、利根川筋各所の堤防が決壊し、江戸から関東一帯にかけて大きな被害をうけ、米作は平年作の1/3程度といわれた。
当時の落首にも、
春は火事夏は涼しく秋出水 冬は飢饉とかねて知るべし
というのがある。

重税と頻発する災害の二重の責め苦をうけた農民は、窮乏のあまり父祖伝来の耕地を手離し、あるいは質にだして潰(つぶれ)百姓となるものが続出し、他方、質地を集めて地主となる上層農民も少なくなかった。
貧農の出稼ぎや離村もまた激化し、博徒・無宿者などの耕作を放棄した無頼の遊民の横行が目立つようになり、百姓一揆・都市騒擾(打ちこわし)とならんで領主層をおびやかす社会不安のもととなった。

幕府は既に安永6年(1777)に出稼ぎ・奉公の制限令を公布し、今後は村高・人口に応じて奉公を許可するように命じているが、農業労働力の減少による手余り地・荒地の増加は天明期に入って一層顕著となった。

松平定信は、「村々の人口がひどく減少して、いま関東の江戸に近い村々には荒地が多くできた。村には名主ひとり残り、その他はみな江戸へでてしまったというような村さえある。天明六年に諸国の人口を調べたところ、六年前の安水九年より一四〇万人も減ってしまった」と慨嘆した。
幕府は両国広小路に施行小屋を建てて施粥をおこなったが、一時しのぎに終わった。
市中の諸物価は上昇し、ふだんはただでもらえた豆腐のきらず(卯の花)さえ、1升48文の高値をよぶにいたった。市民はたびたび町奉行所に救済を嘆願したが、はかばかしい回答はえられなかった。
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7月1日
・アイルランド、マンスター農民大会。十分の一税反対「秘密結社の活躍」。マンスターの「ホワイト・ボーイズ」、北部の「オーク・ボーイズ」「スチール・ボーイズ」など。
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7月8日
・モーツアルト、ピアノ三重奏曲 ト長調 (K496)
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7月9日
・フランス、マリー・アントワネット、第4子・第2王女ソフィー出産(翌1787年に結核で没)。
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7月14日
・数日来の大雨で関東各地に洪水。印旛沼・手賀沼の干拓工事が大被害をうける。
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7月27日
・モーツアルト、管楽器のための12の二重奏曲 (K487=K496a)(通称「ケーゲルデュエット」)作曲。
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8月
・硫黄問屋7軒を定める。硫黄は全て浦賀番所で検査することとする。
「硫黄問屋、これは天明六〔一七八六〕年八月に令して、硫黄問屋はすべて浦賀の番所において検(あらた)めを受けて、しかる後に売買せしむるという事に定めた。その問屋の数七軒と定められた。江戸伊勢町の忠兵衛、通三丁目の三左衛門、馬喰町二丁目の七郎兵衛、小網町一丁目六右衛門、本銀町二丁目宇兵衛、横山町一丁日ナカという者の後見喜兵衛、それに正木町善太郎、この七軒の問屋より外、硫黄売買は相成らぬという事に定めた。」(辻善之助『田沼時代』)
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・モーツアルト、かつてモーツァルト家に仕え、当時はドナウエッシンゲンのフェルステンベルク侯爵の近侍となっていたヴィンターを通して、この侯爵家に作品を売り込もうとする。クラヴィーア協奏曲楽章ニ長調(K.Anh.57(573a))(断片)を作曲する。
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8月1日
・モーツアルト、ピアノ・ソナタ へ長調 (K497)作曲。
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8月5日
・モーツアルト、友人ジャカンたちと九柱戯の遊び(ボーリングに似たゲーム)に興じながら、ピアノ三重奏曲 変ホ長調 (K498)  「九柱戯場三重奏曲(ケーゲルシュタット・トリオ)」作曲。

7月27日の『管楽器のための十二の二重奏曲』(K487=K6・496a)の自筆譜冒頭にも、「ヴォルフガング・アマデー・モーツァルト作。ウィ-ン、一七八六年七月二十七日。九柱戯をやりながら」とモーツァルトの手で記されている。

著名な女流詩人カロリーネ・フォン・ピヒラーが伝えるところでは、この三重奏曲は、モーツァルトがウィーンで親密な交際を続けていたフォン・ジャカン家での親しい人たちの会合のために、とりわけフランツィスカなる娘のクラヴィーア演奏の目的で書かれたといわれる。フランツィスカはモーツァルトの親友ゴットフリート・フォン・ジャカンの妹で、モーツァルトのクラヴィーアの弟子の一人。
フランツィスカのクラヴィーアを中心に、名手アントーン・シュタードラーのクラリネット、それにモーツァルト自身のヴィオラによるアンサンブルが、ジャカン家の集いで鳴り響いたと推測できる。"
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8月8日
・ドナウエシンゲンのフォン・フュルステンブルク公の侍従セバスチャン・ヴィンターに「自分を宮廷作曲家として採用して欲しい」旨の手紙を送り、見本として次の曲の冒頭主題を書き添えた。 これにも父レオポルトの事前の根回しがあった。(交響曲 K.319, K.338, K.385, K.425、ピアノ協奏曲 K.451, K.453, K.456, K.459, K.488、ピアノとヴァイオリンのためのソナタ K.481、ピアノ三重奏曲 K.496、ピアノ四重奏曲 K.478 )
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8月8日
・ジャック・パルマ、ミシェル・ガブリエル・バカール、モンブラン初登頂成功。
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8月11日
・英東インド会社海兵隊長フランシス・ライト、マレー半島北西岸の小島ペナン島占領
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8月17日
・プロイセン王国、ポツダム郊外のサン・スーシ宮殿においてプロイセン王フリードリヒ2世(大王、74)、没。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(42)、即位。
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8月19日
・モーツアルト、12の変奏曲変ロ長調 (K500)、弦楽四重奏曲第20番 (K499)(通称「ホフマイスター」)作曲。
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8月20日
・フランス、財政総監(蔵相)カロンヌ、ルイ16世に謁見。国家救済のため国家機構の不正の改革が必要と述べる。地租創設を含む財政改革案を提出。

カロンヌ、「国家救済に必要なことは、…真実に財政に秩序をあたえるのに成功する唯一の方法は、国家機構のなかにある不正なもの一切を改革して、国家全体に活気をあたえること」と述べる。

課税割当が、不公平・非生産的。
①貴族は20分の1税と人頭税の納税義務あるも、僧侶は免除。
②農民だけが平民人頭税を納税するが、州により土地に賦課したり個人に賦課したるする。また、自由都市、税金一時払い都市、免税州もある。
③僧侶・特権者・官吏は、塩税は無税。塩の生産地から遠くなるほど重税。

カロンヌの改善策。
①課税の平等(貴族・聖職者の財政特権の廃止)、
②単一の課税で土地に課せられる「土地単一税」の創設、
③テュルゴの試みた穀物流通の自由の再現(国内関税の廃止、市町村議会の創設(こうした議会を持たない過半数の州において)、郡議会・州議会の創設を含む)。
これら議会の議員は、土地所有者からのみ選ばれる筈であるが、ルイ16世はこれらの改革が高等法院や一部特権層の反対にあうことを恐れた為、カロンヌは、これらの案を「名士会」で(16世紀にそうしていたように)採択させる、ということで王を説得。
名士会は、1787年2月22日に召集。
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8月24日
・貸金会所の令を廃す。
吉野山の採鉱検分廃止。
印幡沼開墾中止。
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8月25日
・10代将軍家治(50)、没。

8月上旬、田沼意次の後ろ盾、10代将軍家治が病気(水腫)になった。意次は知り合いの町医者2名(若林啓順(けいじゆん)・日向陶庵(すみあん))を江戸城奥医師に登用し、治療にあたらせた。
しかし、家治は8月19日に2人が調合した薬を用いるや、にわかに病状が悪化し、20日には重体となった。家治はこの20日に死亡したとする説もあるが、実際は25日明け方に死亡したといわれる。

京都町奉行与力をつとめた神沢杜口が著した『翁草』によれば、将軍家治の病状は、田沼が紹介した医師の薬を用いてから、にわかに悪化したため、大奥の女中らは、「主殿頭(意次)御上へ毒を差上たり」と、田沼が将軍を毒殺したと口々にののしったという。田沼は8月22日、病気を理由に家に籠もり、家治の死の翌26日には辞表を提出し、27日に老中を解任された。
しかし、田沼が自ら保護者である将軍家治を毒殺したとは考えられず、反田沼派による情報操作とする見方もある。
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8月27日
・田沼意次、老中罷免。
閏10月5日、差控え命ぜられる。禄高5万7千石のうち加増分2万石・屋敷など召上げ処分。
しかし、12月、雁之間詰として江戸城出仕が許され、翌天明7年の正月の年賀では、将軍家斉に拝謁した席次は老中に準じる。

この時、意次の与党は江戸城に健在。
大奥に筆頭年寄高丘・年寄滝川、中奥に筆頭御用取次横田準松(のりとし)・御用取次本郷泰行(やすあき)・同田沼意致、表向の幕閣に大老井伊直幸・老中首座松平康福(やすよし)・老中水野忠友・同牧野貞長、若年寄井伊直朗。
幕閣の与党は意次と親戚関係にあり、横田の前任の筆頭御用取次稲葉正明(まさあきら)は意次と同月同日に解任される。

松平定信が老中に就任する翌年6月19日迄の10ヶ月間、田沼派と定信派との政争。
翌年の天明7年5月の江戸の打毀しが、この政争で田沼派に決定的打撃を与える。
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