2015年9月26日土曜日

天仁2年(1109) 源為義、河内源氏嫡流の義忠が暗殺されたため河内源氏嫡流を継承 翌月、義忠暗殺の犯人とされた義鋼追討の功により左衛門尉に任命

キンモクセイ 横浜 2015-09-26
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天仁2年(1109)
この年
・ルイ6世、ヘンリ1世と戦う(1109~1113)。
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・この頃、イングランドの在地統治組織が組織化。
①行政長官:チーフ・ジャスティシア、王の代理人、司法行政機構を統括、ソールズベリ司教ロージャ。
②財務府:行政長官の下部、行政機構の中核。
③裁判組織:一群の任裁判官を任命、巡回裁判。
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・第6代クリュニー修道院長聖ユーグ(85)、没(1024~1109、位1049~1109)。ベネディクト会修道士。教皇レオ9世、教皇ステファヌス9世、教皇グレゴリウス7世の教会改革の支持者。
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・アーダルベルト1世・フォン・ザールブリュッケン、マインツ大司教に就任(位1109/11~1137、ハインリヒ5世宰相(官房長)、ザールブリュッケン伯(ザール地方、マインツ南西125km))。
後、ハインリヒ5世の敵となる
(1111年ロタール・フォン・ズップリンブルクと共にハインリヒ5世に反乱。
1115年ハインリヒ5世に再度反乱、ヴェルフェスホルツの戦いで勝利。
1125年ハインリヒ5世没後の国王選挙でロタール・フォン・ズップリンブルクを即位させる)。
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フルク・ダンジュー(フルク5世、若フルク):アンジュー伯1109(14)~1128(33)、エルサレム王1131(36)~1143(48)。
初婚の妻はエランブール(エランビュルジュ、アランブルジュ)・デュ・メーヌ。
①息子ジョフロワ・ル・ベル(ジョフロワ5世美男公、ヘンリ2世父)。
②娘マチルダ(ヘンリ1世息子ウィリアム妻)。
③娘シビル(フランドル伯ティエリー・ダルザスと再婚、1157年エルサレム巡礼の際、父の思い出に感動し聖ラザロ修道院入り)。

再婚は1129年、妻はエルサレムのメリザンド。
①息子エルサレム王ボードワン3世(1130~1163、位1143~1163)。
②息子エルサレム王アモーリ1世(1136~1174、位1163~1174)。1128年、ルシャン孫フルク5世息子ジョフロワ(1113 ~ 1151、ジョフロワ・ル・ベル(渾名プランタジネット))がマティルダ(1102 ~ 1167、イングランド王ヘンリ1世娘、1114年皇帝ハインリヒ4世と結婚)と結婚、2人の間の息子がヘンリ2世(1133~1189、位1154(21)~1189、妻アリエノール)。

フルク・ダンジュー:
1109年、メーヌのエランビュルジュ(エランブール・デ・メーヌ)と結婚。
1109年末、ドゥエとイル・ブシャールの領主を服従させる。
1110年、メーヌ伯エリー没後、メーヌ伯領併合。
1113年、ヘンリ1世と和解。
1119年、ヘンリ1世息子ウィリアム・エシリングとアンジュー伯フルク5世娘マティルダ結婚。
1120年5月エルサレム巡礼。
1120年11月25日、ヘンリ1世息子ウィリアム・エシリング、白舟号の遭難で没。
1123年、典型的な強盗騎士モントルイユ・ベレ領主ギロー・ベルレを降伏させる。
1125年、妻エランビュルジュ(アランブルジュ)没。
1128年、ヘンリ1世娘マティルダ(皇帝ハインリヒ5世未亡人)とアンジュー伯フルク5世息子ジョフロワ結婚。
1128年、ジョフロワにアンジュー・メーヌ・トゥーレーヌを合併した大アンジューを譲位(エルサレム巡礼出発)。
1129年6月2日、エルサレムでメリザンドと結婚。
1131年9月14日、エルサレム王即位。
1133年、ジョフロワとマティルダ息子、ヘンリ2世誕生。
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・ムラービト朝アミールのアリー・イブン・ユースフ、スペイン遠征。
タラベーラ(トレード西方)を攻撃・掠奪(トレードは東のウクレス、西のタラベーラが陥落、東西から脅かされる)。
トレードの外城サン・セルバンド城・アセーカ城を破壊、数日間、トレードを包囲・攻撃。
アリー、結局トレードより退き他の町を攻撃、マドリード、オルモス、カナーレス市壁を破壊、住民避難の要塞を攻略出来ず。
後、ムラービト朝セビーリャ総督とコルドバ総督がターホ川流域の町を征服。
オレーハ(1113年)、ソリータ、アルバラーを攻略。
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1月22日
・正四位上藤原為房を越前権守に任じる。
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2月3日
・源義家の嫡流を継いだ源義忠、刃傷を受け殺害。
義家の次男義親の子為義(14)、家督継承。

源為義(1096~1156):義親4男。六条判官または陸奥判官と号する。
義親が国守として対馬に赴任した際、京都に残り、祖父義家のもとで養育。
義親が西海道で謀叛を起こしたため、義家継嗣となった叔父義忠の養子となる。
天仁2(1109)年2月、義忠暗殺後、河内源氏嫡流を継承。
翌月、義忠暗殺の犯人とされた源義鋼追討の功により左衛門尉に任命。
後、都の武者として僧兵強訴の防衛に当たり、大治4(1129)年迄に検非違使に補される。
武士社会の主従結合を重んじるあまり、郎等共々反社会的行動が多く、平家のように院や貴族の支持を得ることなく、保延2(1136)年10月、左衛門尉を辞任。後、10年間無官。
この間、摂関家への接近を図り、康治2年(1143)年10月、藤原頼長に臣従の礼をとる。
久安2(1146)年正月、左衛門大尉に還任、再び検非違使となる。嫡子義朝を坂東で、八男為朝を鎮西で育てるなど、全国的な主従関係の形成・拡大に努める。
久寿元(1154)年11月、為朝の鎮西での濫行を制止せず、召喚を怠ったとして又も解官。
保元の乱で、崇徳上皇方で内裏への先制攻撃を主張。容れられず敗戦、
後、義朝を頼って自首するが許されず、京都船岡山辺で処刑。
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2月17日
・源為義、検非違使源義忠(義家の子)殺害の罪で、前九年の役で活躍した源義綱を捕縛。
3月10日左衛門少尉に任命。
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2月29日
・源義綱、佐渡に流される。

源義綱(1042?~1232?):頼義2男。義家の弟。母は義家と同じ上野介平直方の娘。
前九年の役には兄義家と共に父に従って活躍し、左衛門尉に任ぜられる。
寛治5(1091)年義家と互いの郎等同士の争いから対立、兵を構える。
翌年陸奥守、嘉保元(1094)年出羽の叛乱の鎮圧の功により従四位上美濃守。
義家の死後、源氏の一族内訌が起こり、天仁2(1109)年義家4男で源氏嫡流を継いだ義忠が殺害。この事件を指嗾人に3男義明が推定され、父義綱にも嫌疑。近江甲賀山中に篭ったところを源為義(義家孫、義忠養子)の追討を受けて出家、降伏。
しかし、長男義弘は父に自害を勧めるため、谷間に身を投じて自殺、弟義俊も兄を追い投身自殺。4男義仲は火中に飛び込み焼身自殺、5男義範は切腹、6男義公は後日自害。病気の為に父に随行していない3男義明は追っ手の源重時の兵を受けて戦死。義綱自身も佐渡に配流、再び追討を受けて自害。後、義忠殺害の嫌疑は冤罪と判明。一門は滅びる。
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3月
・この頃、海陸からのトリポリ攻撃準備完了。
トリポリ奪取のため、エルサレムのボードワン、エデッサのボードワン、アンティオキアのタンクレードは和解。これに、ジェノヴァ船で着いたばかりのサンジル一族らが加わる。
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4月21日
・イングランド、カンタベリ大司教聖アンセルムス(75)、没(アオスタのアンセルムス、1033~1109、ベック修道院出身)。
司教座は没後5年間空位(ヘンリ1世、司教達支配者であることを主張するため、司教座の空位期をのばす)。
アンセルムス:「最後の教父」「最初のスコラ学者、スコラ学の父」。
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7月
・カスティーリャ・レオン王アルフォンソ6世、没(レオン王1065~1072、カスティーリャ王1072~1109)。
娘ウラーカ、即位(位1009~1026、アルフォンソ6世とブルゴーニュ公ロベール1世娘コンスタンスとの娘)。
首都トレードはアルバル・ファーニェス(1114年没)とトレード大司教ベルナールが守る。
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7月12日
・エルサレム王ボードゥアン1世ら、トリポリ占領。エジプト艦隊は、陥落8日後にティールに到着。
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7月22日
・十字軍、ジャバラを占領。
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7月23日
・京で地震。
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12月
・末、ハインリヒ5世、トリーア大司教ブルーノ他の叙任権交渉団をローマに派遣。
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