天永3年(1112)
この年
・ヘンリ1世とアンジュー伯との紛争続く。
ノルマンディー公領内にも不穏な動きが起こり、ヘンリ1世はノルマンディー公領内の敵対勢力粛正を行い内部を固める。
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・ザクセン人反乱、スラブ人も動揺、フリースラント人は貢納を拒否。
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・パヴィーア、コンスル、市民2人と僧院との事件を審理。都市内部でコムーネが司教・領主権威と漸次入替る。
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・~1116の間、クレモナ、コンスル制成立。
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・ポルトガル、ポルトカーレ伯領・コインブラ伯領統治のエンリケ・デ・ボルゴーニャ、没。妻テレサが摂政として統治。
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1月26日
・正四位上参議越前権守藤原為房に大蔵卿を兼任させ、文章得業生藤原顕業を越前大掾に任じる。
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3月
・~6月、シチリア・カラーブリア伯ロゲリウス2世(17)、成人(1095~1154、位1105~1154)。
実質的に君主としての一人立ちは、1113年夏、摂政母アデラシアがエルサレム王と結婚のためシチリアを離れた時。首都をメッシーナからパレルモに定める(ロゲリウス1世時代、カラーブリアが伯領の中心(首都カラーブリアのミレート)。
アデラシア摂政期(1109年)、首都がミレートからメッシーナに移動)。シチリアが伯領の中心(シチリアのイスラム教徒の方がカラーブリアのギリシア人より重要)。
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3月16日
・白河法皇の六十の賀。
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3月18日
・ラテラノ公会議。1111年4月ハインリヒ5世に強奪された「特許状」取り消し。
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4月10日
・ティールの住民、130日にわたる篭城の末、フランク軍に勝利。バグダード暴動、アスカロンの蜂起、ティールの勝利で、侵略者と結ぶムスリム指導者への反抗が芽生え始める。
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5月11日
・地震あり。
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5月13日
・高陽院焼失。
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7月16日
・法勝寺で、旱魃のため降雨を祈り、僧1千人が読経。
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7月22日
・地震あり。
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9月2日
・地震あり。
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9月16日
・ヴィエンヌ公会議。ヴィエンヌ大司教ギュイ、俗人叙任を異端と宣言、ハインリヒ5世を破門。
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10月
・伊豆大島噴火。鳴動雷の如く、京まで聞こえる。
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10月20日
・教皇パスカリス2世、ヴィエンヌ公会議の決定を曖昧な形で承認。皇帝ハインリヒ5世の破門は拒否。教皇・皇帝とも和解を求める。
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11月2日
・陣定で越前国司藤原仲実が言上した唐人来着のことを評議。帰粮を給し廻却させるとの意見強い(「中右記」)。
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12月8日
・摂政右大臣藤原忠実宅での上達部饌、越前守藤原仲実が勤める。
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12月14日
・摂政右大臣藤原忠実、太政大臣に任じられ大饗を行う。
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天永4/永久元年(1113)
この年
・平正盛(清盛祖父)、六波羅蜜堂建立。
祇園女御が一切経供養を行う。祇園女御は晩年の白河法皇の寵姫、実際は女御ではないが、寵愛の大きさから女御と呼ばれ、専制君主白河の権力を背景の絶大な力を持つ。正盛は祇園女御に仕えている。
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・現ハルビン西南の辺りに居住の生女真から英雄、完顔阿骨打(わんやんあぐだ、1068~1123、金の太祖、位1115~23)が出て父・兄の後を継いで首長となる。
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・アンジュー伯フルク5世、ヘンリ1世と和解。ヘンリ1世息子ウィリアム・エシリングとアンジュー伯フルク5世娘マティルダが婚約(6年後の1119年結婚)。
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・スコットランド、デイヴィッド(33、アレグザンダー1世弟、1080頃~1153、位1124~1153)、ミドランズ伯娘マティルダと結婚、マティルダの持参金として「アイスランド伯領」取得。
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・トリポリ伯ベルトラン、没(位1105~1113)。息子ポンス、トリポリ伯即位(1113~1137)。
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・聖ベルナール(23、1090~1153)、一族の騎士30名と共にシトー会に入会。シトー会修道院長ハルディングが修練士(初誓願を立てる前1~2年間、修道生活をして自分が適するかどうか見極める)を許可。
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・ヴィクトリン派、パリで「カノン法」の塾を創立。
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・ルイ6世(肥満王)、サン・ヴィクトール修道院(律修聖職者の共住組織)認可。
律修聖職者:司教区所属の聖職者、戒律の下に半ば 修道士的共同生活を営む。
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・ノルマンディ、カーン聖三位一体女子修道院長マティルダ(ウイリアム征服王娘)、「使者の巻物」(現存するものでは一番長い)。
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1月1日
・鳥羽天皇(11)、元服。
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1月28日
・従四位上参議右大弁藤原長忠に越前権守を兼任させる。
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2月15日
・聖ヨハネ病院修道会発足。
教皇パスカリス2世、修道士ジェラールがエルサレムに建設した病院組織を正式に新修道会と認める教書を発表、教皇直属の位置に置く。
この段階では巡礼と居留民救護に限定。騎士団に仕上げるのは2代目総長レーモン・デュピュイ。
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3月
・平忠盛(18、正盛嫡男、清盛父)、郎等と共に盗賊夏焼太夫の宿所を襲撃、捕縛。郎等2人が重傷。忠盛は従五位下に叙任。
また、この月、正盛・忠盛は、清水寺別当任命を巡る興福寺・延暦寺の強訴事件で、興福寺大衆の入洛に備え宇治を防衛。京で興福寺の要求を容れるかどうかの卜が行われている間に、宇治の一の坂南原で合戦、南都大衆を奈良に押し返す。
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3月29日
・延暦寺僧徒、清水寺の堂舎を破壊、法皇御所に至って興福寺僧徒の罪を訴える。
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4月5日
・南都・北嶺の争い(清水寺支配を巡る対立)
延暦寺・興福寺僧徒の争議を抑える為、検非違使平忠盛を興福寺に、源光国を延暦寺に向かわせる。
12日、延暦寺・興福寺両寺の僧徒、和解を拒否。
「南都衆徒の蜂起、敢えて休せずと云々。金峯山吉野の軍兵、大和国の土民、庄民、弓箭を携うるの輩、皆以て相従う。幾万なるやを知らず」(「永久元年記」4月14日条)。
この月、興福寺僧兵が春日大社の神木を、また、比叡山延暦寺僧兵が日吉山王の神輿を担いで、政府に強訴(南都北嶺の強訴)。
『永久元年記』(『群書類従』25)に引用された『中右記』では、宗忠は、僧兵が大挙して都に押し寄せてきたことに対して、
「京中の騒動、記し尽くすべからず」
「天下の災い、末だかくの如きこと有らず」
「開闢以来、未だかくの如きこと有らず」などと嘆いた上で、
「将門の乱逆の如くんば、偏(ひとえ)に追討すべきに依り、強いて大事に非ざるか。今度においては、天台(延暦寺のこと)・法相(興福寺のこと)一時に滅亡せんと欲す。天下の嘆き、誠に骨肉に入るか。」
とし、この度の争乱は将門の謀反を上回ると述べている。将門の乱が争乱の深刻さの判断基準となっていることがうかがえる。
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4月14日
・藤原忠実、太政大臣辞職。
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6月13日
・地震あり。
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7月13日
・「永久」に改元。
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8月
・シチリアのロジェ1世未亡人アデレード(アデラシア)、アッカ到着。
エルサレム王ボードアン1世と再婚(1113~1117)。ボードアン1世(位1000~1118)、重婚を隠し、アデレードの財産を巻き上げる
結婚の条件:2人の間に息子が生まれなかったら、アデレードの息子ロゲリウス2世がエルサレム王継承。
アデライド、1117年イタリアに帰国、ロジェ2世のエルサレム王継承も水泡に帰す。
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9月4日
・平正盛(清盛の祖父)、備前守に任じられる。
丹後守の時には石清水八幡宮の大塔を造営し、備前知行の時に白河の泉殿御所内に九体(くたい)阿弥陀堂を建立。豊富な資金を駆使して、大規模な建築を請け負うことができるほど富裕であった。
正盛は、隠岐守の後、若狭・困幡・但馬・丹後のそれぞれの受領を歴任。
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10月
・鳥羽天皇暗殺未遂事件。
源俊房次子・醍醐寺僧の仁寛首謀者。仁寛は流罪、白河法皇の次々弟輔仁親王も蟄居、源俊房・師時父子は翌年11月まで閉門。
白河院の家父長権が確立
白河法皇の孫である鳥羽天皇の即位で、白河の異母弟である輔仁の即位は遠のく。
幼帝鳥羽の即位後、法皇は内裏六条院に近い院御所に住み、輔仁勢力の動きを警戒して、源為義(義家の孫)や同光信(頼光の玄孫)らの武士に終日内裏警固を命じている。
このとき、鳥羽天皇暗殺未遂事件(天皇呪詛)が発覚。
輔仁の護持僧仁寛(にんかん)と醍醐寺座主勝覚(しようかく)の童子千手丸(せんじゆまる)が流罪となる。
仁寛は、輔仁勢力の中心人物とされる源俊房(藤原頼通の養子源師房の子)の子であり、勝覚は仁寛の兄。
真偽は不明であるが、この政治的事件によって、白河法皇の家父長権が確立する。
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10月2日
・スルタン・ムハマドに全ムスリム(アレッポのリドワーン除く)集結を託されたモースル総督マウドゥード、ダマスカスに司令部をおく。
この日、マウドゥードはダマスカスで殺害。犯人はダマスカスのアターベク、トゥグティキンともくされる。彼も、アレッポのリドワーン王と同様にスルタンの魂胆に疑心暗鬼。
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12月10日
・アレッポのリドワーン王、没。
カーディーのイブン・アル・ハシャーブが準備した武装民兵はリドワーン派・暗殺教団を逮捕、親フランクを理由に処刑。
カーディーはリドワーン息子アルブ・アルスラン(16)を父と異なる政策をとらせようとするが、狂気の処刑を行うのみ。
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12月17日
・越中守高階宗章と若狭守源俊親、交替。
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12月26日
・摂政藤原忠実、関白となる。
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