2016年1月30日土曜日

元永3年/保安元年(1120) 藤原頼長誕生(関白忠実(42)の二男) 関白藤原忠実失脚(内覧を停止される) 平忠盛、越前守となる(2期8年)

皇居東御苑 2016-01-19
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元永3年/保安元年(1120)
・この頃の日宋貿易。
前年元永2年12月~翌保安元年(1120)6月のこと、丹後国守藤原顕頼、目代に白臈(錫)30斤の入手を命令、目代は若狭国人にこれを依頼、その人物が敦賀の「唐人」に尋ねたところ、1、2年、国司の苛法が続き若狭に「唐人」が来航しなくなったとの回答。少量の白臈しか得られず、別の「唐人」にもあたるが、これ以上得られないと報告。院政期初頭、院近臣が敦賀津で活発に宋人と交易をしていたことがわかる。

若狭・越前は大宰府に次いで日宋貿易が盛んであったが、宋人と国司らとのトラブルも多発。若狭・越前への宋人の来航は、平安時代ではこの前年元永2年頃が最後となる。
最後の史料「唐大和上東征伝」紙背文書では、若狭国にここ1、2年ほど宋人が来ないのは、国司の「御苛法」によるとされている。国司が宋人から不当に貨物を差し押さえるため、来航しなくなり貿易も衰退。
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・頼通の異母弟頼宗の孫宗通、没。
幼時から白河の寵愛を得て叙位任官のたびに諸人を越えて昇進して権大納言に到り、没に際し、「上皇は何事につけて彼に相談したから天下の権威は彼に集中し、家は富み子孫は繁盛した」(『中右記』)と評された。
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・ヘンリ1世とルイ6世、休戦。
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・この頃、ランのアンセルムス学派、「標準的註解、グロッサ・オルディナリア」。聖書研究。
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・フランス、プレモントレ派「聖堂参事会」設立。
ラン近くのプレモントレでクサンテンのノルベール(ノルベルトゥス)が創設した「律修参事会」(ノルベール後任者ユーグ・ド・フォス)。最も組織的なまとまりを持った参事会(設立後30年間で東は聖地(エルサレム)、西はイングランド 迄、100に及ぶ程に拡大)。

聖堂参事会:
教区の司祭達が「使徒的生活」を実践するため集団で生活。修道生活を送りながら、司祭の職務である司牧(宣教)にも従事。教皇庁の奨励によりイタリアで始まる。
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・ヴェルフェン家バイエルン大公ヴェルフ5世(47)、没(1073?~1120、1101年、父ヴェルフ4世没しバイエルン大公を世襲)。弟ハインリヒ黒大公(46)、バイエルン大公を世襲(1074?~1126、ハインリヒ尊大公ユーディット(シュヴァーベン大公フリードリヒ妻)の父)。
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・この頃、フライブルク(西南ドイツ、シュヴァルツヴァルト西南)、シュヴァルツヴァルト伯ツェーリング家コンラート、建設。
12世紀前半、従来の国王都市・司教都市に加え、有力諸侯の建設都市が増大し、都市法を与える(市場設立、商人招聘、自由な土地所有と保護、関税・直接税の免除)。
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・この頃(1120~1138の間)、ヴェローナ、サン・ツェーノ教会建設。
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・ゴルドバ民衆暴動。総督宮殿を掠奪、守備隊を追放、アミールに自分たちを罰しないよう同意させる。
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・バルセローナ伯ラモン・ベレンゲール3世(位1076~1096)、タラゴーナ奪回。トルトーサ(エブロ川下流)に貢納を強要。しかし、ムラービト朝がカタルーニャを攻撃したため、海岸地方に限られバレアース諸島に届かず、内陸部はアラゴンに進出を阻まれる。
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・アラゴン王アルフォンソ1世武人王、タラソナ、ボルハ奪取。
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・聖人ヨハネ修道会1代目総長修道士ジェラール、没。
レーモン・ド・ピュイ(デュピュイ)が2代目総長に就任。この新総長のもとで急速に経済力と軍事力を高め、エルサレム王国の中では、テンプル騎士団と並ぶ軍事集団となり、十字軍や聖地防衛で主要な役割を演じるようになる(聖ヨハネ騎士団創立)。
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・北宋、江南、最大の農民反乱、方臘(ほうろう)の乱(1120~21)。
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1月21日
・ハインリヒ5世、ゴスラールで会議開催。世俗諸侯の大部分が参加。教会諸侯は不参加。
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3月18日
・平忠盛(清盛の父)は早くから実務にも能力を示したことから、父の北面下臈という立場を越え、貴族の家としての地位の基礎を固めていった。
この日の石清水の臨時祭に、院殿上人(いんのでんじようびと)として舞人に召され、大治4年7月の白河院の仏事では院庁(いんのちよう)の「判官代(ほうがんだい)」の筆頭としてその名が見えている(『中右記』)。
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4月10日
・「保安」に改元。
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4月19日
・堀河院、焼失。
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5月
・藤原頼長、関白忠実(42)の二男として誕生。
母は摂関家の家司(けいし)藤原盛実(もりざね、土佐守)の娘。この時代には固定化しつつあった貴族の家格=身分秩序からいえば、いわゆる「諸大夫(しょだいぶ)」の娘。村上源氏・右大臣顕房の娘を母とする異母兄忠通(24歳)とは、出生の時点で歴然たる格差があった。
この頃は、白河院政の晩期で専制権力の頂点のころで、摂関家は、院の分断策と介入によって翻弄される。
翌年(1121年)、忠実が娘泰子の鳥羽天皇への入内を拒否して”院勘”を蒙り宇治に蟄居し、忠通が代わって氏長者・関白となる。そして、摂関家存続の安全牌として、頼長は6歳(1125年)の時、兄忠通の猶子となる。

忠実は、右大臣顕房の女(従一位師子)との間に一男一女を得ている。一男は忠通、一女は高陽院泰子。泰子は忠通より2歳年長で、鳥羽上皇の後宮に入って后位に昇り、ついで女院となって高陽院と称される。

頼長とその実母の生家(藤原盛実)との密接な関係:
盛実の男顕憲を始め、その子盛憲・憲親・経憲は頼長の家司として近習。
保元の乱では、故人であった顕憲を除き、盛憲ら三兄弟は最後まで頼長の身辺に従い、乱後は遠流(おんる)に処される。頼長が重傷の身を寄せてついに息をひきとった所も、盛実の男である奈良の千覚律師の房であり、その最後をみとって朝廷にそれを申告した僧玄顕(げんけん)も顕憲の子である。
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・アンジュー伯フルク5世、エルサレム巡礼。騎士100人を1年間自分の費用で養い、海外の諸侯達を感動させる。この巡礼が1129年メリザンドと再婚する契機となる
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6月3日
・教会分離終了。
教皇カリストゥス2世、ローマ帰還。対立教皇グレゴリウス8世、ストゥリに逃亡、ノルマン軍に逮捕、ア・カバの僧院に幽閉。
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6月18日
・クタンダの戦い。
アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、カラタユー(ハロン川とヒローカ川の合流点近く)を包囲、ムラービト朝イブラーヒーム・イブン・ユースフ率いるムラービト朝の援軍を撃破。十字軍兵士600が参加。
24日、アルフォンソ1世、カラタユー攻略。後、ハロン川上流アラーマ・デ・アルゴン、ブビエルカ、アリーサ、ヒローカ川上流モンレアル・デル・カンポまで攻略。
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7月12日
・清盛(3歳)の母、没。清盛を祗園女御の融子とする。
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10月
・白河法皇、熊野参詣。
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11月
・平正盛、讃岐守補任。
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11月12日
・関白藤原忠実(43)が娘泰子(26)を鳥羽天皇の妃にすることを拒んだため、白河法皇は忠実の内覧の職を停止。

この日、鳥羽殿(京の南郊の離宮)から京中三粂殿に入った法皇は、ただちに忠実の内覧を停止する決定を下し、左大臣源俊房に命じて、宣旨を出させた。内覧とは、天皇に奏上される文書を内見する職務であり、関白の職掌の根幹をなしている。内覧を止められた忠実は、関白の地位にある意味を失った。
関白も内覧も天皇による任命ということになっているが、実際には追認でありその地位は事実上、道長の子孫、つまり摂関家に世襲されてきた。そのために、いちおう摂関家に配慮して、直接関白罷免というかたちにしなかっただけで、実際には関白の罷免に等しいのである。
これを聞いた忠実の衝撃は激しく、驚いて駆けつけてきた藤原宗忠に「運が尽きた」ともらしたという。
『愚管抄』によると、法皇が熊野御幸で留守の間に、鳥羽天皇からの申し入れをうけて、忠実が勲子入内の交渉に入ったことが、法皇激怒の原因であるという。

忠実は自邸の門を閉ざして謹慎し、2ヶ月後の保安2年(1121)正月1日、いったん内覧に復帰ののち、嫡子忠通が父に代わって内覧となる。
そして、忠通が正式に関白に就任したのは、3月。忠通は以降、4代38年、摂関をつとめる。
こうして、忠実は関白を罷免され、宇治に配流同然の身となる。以後、法皇存命中は、上洛も許されなかったのである。

(法皇の在世中は全く宮廷に出仕せず、宇治に寵居して11年の歳月を送り、その間摂関家の勢威は地に墜ちて、宮廷は藤原顕隆などのいわゆる院の近臣の跳梁にゆだねられた)

摂関政権の確立以来、摂政・関白の地位は事実上前任者の譲渡によって補任されて来たのであり、この慣例を破った白河法皇の関白罷免の挙は、摂関家を始め廷臣間に甚大な衝撃を与えた。

忠実女泰子の入内問題
永久元年(1113)頃、白河法皇は忠実の女泰子を鳥羽天皇の後宮(こうきゆう)に納れようとした。それはこの年正月天皇が元服の礼を挙げたので、これを機に摂関家の女子を入内させようとしたものであろう。
忠実も7月4日には、法皇の催促によって入内の祈祷を春日社以下に修しているが、その日の日記に「但し思う所ありて入内は暫く遅々なり」と記している。
その後泰子入内のことは全くこの日記には見えないが、結局忠実は考える所があって入内を固辞し、永久5年法皇はやむなく、忠通に嫁がせようとしていた法皇の猶子藤原璋子(公実女)を宮中に納れた。
しかるにその後保安元年、この問題が再燃し、ついに現任の関白が事実上罷免される事態にまで発展し、宮廷内外に大きな衝撃を与えた。

『愚管抄』の伝えるところによると、保安元年10月、法皇の熊野詣の留守中に、天皇から泰子入内の叡慮が忠実に伝えられ、忠実も内心これを悦んで御意に副おうとしたところ、これを伝え聞いた法皇は、自分が召した時には固辞しながら、いまになって自分に知らせもせずに入内させようとするとははなはだ不都合であると激怒し、忽ち忠実の内覧停止を宣下させたという。
この泰子の入内問題には、宮廷内の複雑な事情が背後にかくされているらしいが、一方法皇が忠通に嫁がせようとした璋子については、当時いろいろな風聞があり、忠通との結婚には忠実が強く反対しているから、このこともからんで泰子の入内問題が忠実失脚の原因となったのであろう。
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11月25日
・臨時除目。
平忠盛を越前守に、藤原顕盛を伯耆守に任じる(「中右記」)。
忠盛の越前守は、2期8年、その間の保安4年に強訴事件発生。更に、大治2年(1127)に備前守と、大国の受領となって富を蓄えていった。右馬権頭という顕官についたのも正盛の地位を継承したものである。
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11月25日
・ヘンリ1世(52)1人息子ウィリアム(19)の乗ったホワイト・シップ号、ノルマンディー・バルフルール沖で難破、水死。ウイリアム妻マチルダ・ダンジュー、事故後、フォントヴロー修道院に戻り、数年後、修道院長に就任。
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