2016年7月21日木曜日

詩人茨木のり子の年譜(12終) 2001(平13)75歳 『見えない配達夫』『対話』『鎮魂歌』復刻刊行 2002年『人名詩集』再刊、『茨木のり子集 言の葉』刊行 2004(平16)『落ちこぼれ』『言葉が通じてこそ、友だちになれる』刊行 2006(平18)年2月17日死去79歳 2007(平19)『歳月』刊行 2008(平20)『女ひとり頬杖をついて』刊行 2010(平22)『茨木のり子全詩集』刊行

鎌倉 本覚寺 2016-07-19
*
(その11)より

2000(平12)74歳
4月、大動脈解離のため入院。
乳がんも発見され手術

2001(平13)75歳
2月、初期の詩集で絶版となっていた詩集『見えない配達夫』、
6月、詩集『対話』、
11月、詩集『鎮魂歌』復刻版、童話屋

2002(平14)76歳
6月、(絶版になっていた)詩集『人名詩集』童話屋から再刊
7月19日、弟、英一死去

二〇〇二(平成十四)年夏、茨木のり子の二歳下の弟、愛知・吉良吉田で医院を営んできた宮崎英一が亡くなっている。医院を受け継いだ長男の仁は、父の英一から「東京の姉を見送るまでは死ねないな」という言葉を幾度か耳にしていたが、姉に先立つこと四年、脳梗塞による急死であった。
(『清冽』)

8~10月、『茨木のり子集 言の葉』(全三巻)筑摩書房から刊行
(収録作品)
行方不明の時間

第三巻に収録されている書き下ろし詩編「行方不明の時間」である。活字化されたものでは最後の詩であるように思われる。

2004(平16)78歳
1月、選詩集『落ちこぼれ』理論社刊。
7月、対談集『言葉が通じてこそ、友だちになれる』(金裕鴻との対談)筑摩書房から刊行

生前に出された茨木の本としては最後である。二人の出会いからいえば二十人年目であった。茨木にとって生涯、金は「金先生」であった。
(『清冽』)

10月、川崎洋死去
12月、石垣りん死去

 二〇〇四年の秋から冬は、茨木にとって幸い季節となった。石垣の死の二カ月前、「櫂」結成以来の盟友、川崎洋が亡くなっている。

 石垣の病篤くなったと耳にし、谷川(俊太郎)は茨木を誘い、杉並区にある浴風会病院に入院中の石垣を見舞った。二〇〇四(平成十六)年十二月二十三日である。石垣は柄模様の可愛いパジャマを着込み、恐縮しつつ少女のようにはにかんでいた。三日後、石垣は亡くなっている。享年八十四。

 翌二〇〇五(平成十七)年二月、お茶の水・山の上ホテルで「さよならの会」が開かれている。茨木の弔辞は二人と付き合いがあったNHKアナウンサー山根基世が代読している。
(『清冽』)

2006(平18) *以下は『清冽』より抜粋
2月14日
東京・新橋区神楽坂の裏通りの一角に「大〆」という名の鮨屋
この店に待ち合わせて集まったのは、茨木、中川美智子、高瀬久子
中川美智子は筑摩書房にあって文芸畑を歩んできた書籍編集者である。筑摩書房から出された茨木の書籍はすべて担当してきた。
高瀬久子は日本画家・高瀬省三の夫人。近年、茨木の書籍の挿画の多くは高瀬省三の手によって描かれている。
四人が揃って出会ったのは、筑摩書房から出された茨木のエッセイ集『一本の茎の上に』の制作のさいであったから一九九四(平成六)年のこと。互いに通じるところがあったのだろう、以降、四人それぞれの誕生日に食事会を開くことを続けてきた。
「三人会」が行なわれた二月十四日は、高瀬久子の誕生日の翌日である。一日延びたのは大〆の定休日だったからである。

2月17日
吉良吉田の弟、故英一の妻絢子は前日、のり子からの着信電話があり、以後、何度か電話するが応答がなかった。ただ、以前もよくそういうことがあった。

2月18日
甥、宮崎治は何度か茨木宅に電話を入れてみたが応答がない。はじめて疑念がかすめた。

2月19日
翌十九日は日曜日。同じく応答なし。昼前、車で東伏見へ向かった。悪い予感がしていた。

死因は、くも膜下出血および脳動脈瘤の破裂であった。

十七日午後の時間帯。郵便物を手に階段を上って居間に戻ろうとしたさい、脳内に異変が起きた。茨木は倒れ、頭部を打った。痛みをこらえて出血をぬぐい、ベッドに横になった。その程度の手当てができる異変であったが、その後、脳内に第二次の異変が起きて息絶えた、と。

遺書で、また口頭でも、死後の処理を託されていた。遺体はすぐ茶毘に付すこと・・・、通夜葬儀や偲ぶ会などは無用・・・、詩碑その他も一切お断りするように・・・、死後、日数を経て近しい人々に「別れの手紙」を差し上げてほしい。

 - 茨木の死は、東亜日報東京特派員の速報によって韓国内に伝えられている。「現代における韓国の代表的な詩を日本にはじめて伝え、韓国にとっても忘れられない詩人となった・・・」
その日の早朝、金裕鴻の自宅に、東亜日報を読んだ洪充淑より国際電話が入った。互いに茨木の思い出を語りつつ、やがて茨木の代表詩「倚りかからず」へ、さらに茨木の生き方への思いを口にした。

4月、長谷川宏との共著『思索の淵にて 詩と哲学のデュオ』(近代出版)刊行
6月、書斎から、夫への想いを綴った詩が入った「Y」の箱が発見される。

2007(平19)
2月、「Y」の箱に収められた詩は、花神社より詩集『歳月』として刊行された。

茨木の死後、夫との日々を綴った『歳月』(花神社、二〇〇七年)が刊行された。谷川は「無意識下を解放した」作として高く評価する。このことは後に譲るが、作品への評価は谷川と茨木が捉える詩の意味をめぐる差異、さらにいえば二人の人としての”組成”の相違にまで行き着くのだろう。

二人の若き日の官能のときを記した「その時」、湯上がりでうたた寝をしている夫の姿を思い描く「月の光」、夫が病を得て入院する前夜を追想する「最後の晩餐」、遺骨を海の見える菩提寺の基地に埋葬した日を綴る「お経」、社(やしろ)の蝉の声に霊界からの返答を聞く「蝉しぐれ」、独り身となって過ぎ行く索漠たる日々を詠む「ひとり暮し」、いつか夫の眠る地のかたわらで永遠の眠りをと願う「急がなくては」・・・などなど、在りし日の追慕、追想、あるいは夢想、幻想をからめた”愛夫詩集”となっている。

「櫂」結成以来の仲間、詩人・谷川俊太郎は、茨木の全詩集のなかでも『歳月』をもっとも高く評価する。谷川は茨木のよき理解者であると同時に、その”行儀の良さ”への批判者であったことは以前に触れた。

「一編一編がいいというより、トータルとしていい。一個の人間、一個の女性であることがにじみ出ている。へえ、茨木さんもこんな言葉を使うんだ、という驚きですね。これまで閉ざしていた無憲識下の一部をパーソナルとして言葉化したという感じがした。でも茨木さんらしくまだまだ控え目で可愛い出し方ではありますけれどもね」

一読した谷川は、思わず茨木宅に電話をしようとして受話器に手が伸びた。

「茨木さん、今度の詩集はとてもいいじゃん、といいたくなりましてね。でも、もうそれはかなわない。そう思うとひどく辛くなりましたね」

自身の秘め事を解き放ったという意味で、谷川が『歳月』を高く評価するのは十分うなずける。ただ、一部で留保したい気特も私にはある。

正直、一部の詩には戸惑うものがある。茨木が持ち味とした抑制と自省、あるいはほのかなユーモアと諧謔の味が薄れ、直截的で生々しい描写は詩の余韻を乏しくさせているようにも思えるからである。
(『清冽』)

■『歳月』あとがき
「Y」の箱

 『歳月』は、詩人茨木のり子が最愛の夫・三浦安信への想いを綴った詩集である。
伯母は夫に先立たれた一九七五年五月以降、三十一年の長い歳月の間に四十篇近い詩を書き溜めていたが、それらの詩は自分が生きている間には公表したくなかったようである。
 何故生きている間に新しい詩集として出版しないのか以前尋ねたことがあるが、一種のラブレターのようなものなので、ちょっと照れくさいのだという答えであった。
 そして伯母はその詳細について多くを語ることなく、二〇〇六年二月十七日、突然伯父の元へと旅立ってしまった。
 急逝から一週間後の二月二十五日、岸田衿子さんのご尽力で「櫂」のメンバーや知人が弔問に集まった際、花神社の大久保さんに初めてお会いし、伯母が夫への気持ちを綴った挽歌の出版の意思を、生前大久保さんに伝えていたことを改めて知った。
 その後、伯母の遺言に従って密葬を行い、お別れの手紙を二百通余り郵送し、伯父の眠る山形県鶴岡市の菩提寺での納骨を済ませ、毎日妻と二人で伯母の家を片付けていた。
 もうすぐ伯母の誕生日という六月の初旬に、書斎の書類の中から、原稿の入ったクラフトボックスを発見した。伯母愛用の無印良品のその箱には、小さく「Y」とだけ書かれていたが、それが伯父のイニシャルであることですべてが理解できた。
 箱を開けてみると、その中には推敲が済み、清書され、几帳面に一篇ごとクリップでとめられた未発表の詩と、詩のタイトルを順番に並べた目次のメモ、草稿のノートなどが収められていた。
 (略)

4月、詩人評伝『智恵子と生きた - 高村光太郎の生涯』、
詩人評伝『君死にたもうことなかれ - 与謝野晶子の真実と母性』童話屋から刊行。
CD「りゅうりぇんれんの物語」(沢知恵・歌)コスモスレコーズ

2008(平20)
1月、選詩集『女ひとり頬杖をついて』童話屋から刊行

2010(平22)
10月、『茨木のり子全詩集』(宮崎治編)花神社から刊行
*
*

0 件のコメント:

コメントを投稿