2017年9月17日日曜日

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月4日(その4) 品川区/品川・北品川・大崎、渋谷区の証言 「実は猟師町の一青年の鮮人と誤解せられ、瀕死の重傷を負えるなりしかばこれを品海病院に護送して手当を加えたれども数時間にして絶命せり。」

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月4日(その3) 江東区/大島/亀戸/旧羅漢寺/丸八橋・新開橋の証言 「.....ぼくは愕然として、わきへとびのいた。われわれの同胞が、こんな残酷なことまでしたのだろうか。いかに恐怖心に逆上したとはいえ、こんなことまでしなくてもよかろうにと、ぼくはいいようのない怒りにかられた。日本人であることをあのときほど恥辱に感じたことはない。」
より続く

大正12年(1923)9月4日

〈1100の証言;品川区/品川・北品川・大崎〉 
伴敏子〔画家。当時15歳。北品川で被災〕
〔1日夜〕そこにサーベルの音もものものしく、制服の巡査が巡って来て、「皆さん、今この非常な天災の時につけ込んで鮮人が暴動を起こして市民の井戸などに毒物を入れて歩いたり、暴れ込むということもあるかもしれない。井戸水は気をつけてなるべく呑まないようにし、警察の方も手が回りかねるので、皆近隣のグループグループで組織を作って、各地区は自分達で守ってほしい。鮮人を見つけたら警察につき出すこと、いいね」とふれて行った。
しばらくすると高台の方から軍隊のラッパの音が響いて来た。〔略〕父は、「近衛兵が護衛に来たらしいからこの辺はもう大丈夫だ」といったが、おびえた皆は、「いや伴さんが指揮を取って下さって、やはりこの辺も下の方はあぶないかもしれませんから夜警団を作りましょう」といい出し、女は落ちた瓦を皆1カ所に集め、男はもし多数が攻め込んで来たら、武器のない者は女がリレー式に渡す瓦を投げて何としても黒門の所で食い止める。などと今考えればまるで子供の戦争ごつこのようでおかしいことを大の男達が大まじめで話し合った。そしてそれから4、5日の夜は2、3人ずつかたまって夜警の巡回をした
初めての夜、疲れ果て、ようやく皆がうとうとした頃、誰かが、「わあー、来た、来た」と大声を挙げてわめいた。皆あわてて瓦の山のそばに走る人、重要物を入れたカバンに手をかける人、おおさわざとなったが、私はなれない床では眠れない性分であったから、何も来た様子はないのにと見回すと、木の枝に掛けてあった提灯が風にあおられたか燃えあがっている。急いで飛び出して離れの前の手洗い水を汲んで来て叩き落としてからそれをかけて消した。
〔略〕段々と皆も落ちついて、制服巡査のふれ歩いた朝鮮人騒ぎも何のことだったのか、その後の報告も、発表は何もなかった。〔略〕毒を入れられたという井戸は何でもなかった。朝鮮の人は誰も暴れなかったようだった。だのに・・・・。「かぎぐげごといってみろ」などといわれて、少しでもなまりが変だと町の人に取りかこまれてビール瓶で叩き殺されたりしたのはなぜだ。
(伴敏子『断層 - 自立への脱皮を繰り返した画家の自伝』かど創房、1988年)

山岡芳子〔当時6歳。北品川6丁目で被災〕
翌日〔4日〕、当局からの通達があった。
一、日中でも、門、戸、窓、雨戸のすべてを、厳重に鍵をかけ又は、釘づげにする事。
二、女、子供、年寄りの外用は、一切禁止。
三、止むを得ず外出する場合は、特に屈強な男子に限る。
四、但し、その場合は、必ず武器又は、竹槍を携えている事。
五、各区域毎に、自警団、夜警団を設ける。
六、更に各家毎に、一人以上の頑強な男子が、この自警団又は夜警団に出動し、日夜交代で警備に当る事。
〔略〕我家から50メートル程離れた北側の小高い丘の上に、バラックの小屋が急造され、そこに数人の自警団や夜警団員達が、昼夜の区別なしに、警備している。
〔略〕挙動不審を者や、朝鮮人に似た顔つきの人間が目に止まったら、直ちに空缶を強打して人を集め、最寄りの警察署なり、又は憲兵隊の屯所に、引き渡す事になっているとの事。〔略〕
晴天の日が続いた。しかし私達家族の者達は、雨戸をしめ切った暗い家の中で、不安と恐怖に怯える日々を過していた。そんな私達に、更に追い打ちをかけるように、外からさまざまな噂が、耳に入ってくる。「井戸の中へ、毒を入れた朝鮮人を見た」「総出で、この辺りの家を、焼き打ちにするそうだ」どの言葉を取り上げても、人の神経を逆撫でさせるに余りある。そんな中で何日かが過ぎていった。しかし、何事も起らなかった。 
(「流言蜚語に惑わされて」『東京に生きる 第12回』東京いきいきらいふ推進センター、1996年)

品川警察署
かくて鮮人に対する人心の動揺は日を遂いてはなはだしく、9月4日大井町方面においては鮮人既に管内に入れりとて警鐘を乱打するものあり、警戒隊馳せて現場に赴けば、横浜より来れる7名の鮮人と1名の同胞とを包囲せる多数の民衆は将にこれに危害を加えんとして闘争中なりしかば、即ち民衆を戒めて鮮人等を保護検束したるに、幾もなくして品川橋南側において鮮人を殺害せりとの報告に接し、直に署員を急行せしめたるに、実は猟師町の一青年の鮮人と誤解せられ、瀕死の重傷を負えるなりしかばこれを品海病院に護送して手当を加えたれども数時間にして絶命せり。この外大井町の某々等2名の内1名は同町において殺害せられ、1名は重傷を受けたり、しこうしてまさに迫害を受けんとする鮮人を救護して本署に収容せるもの47名に及べり。
既にしてまた流言あり「鮮人を使嗾する者は社会主義者なるぺければその患を除かんにはこれを応懲するに若かず」と。時に要視察人某は同志十数名と共に大井町に住し、某雑誌を発刊し居たるが、これを知れる民衆はこれを危険視して注意を怠らざりしが、會ゝ(いよいよ)某等もまた自警団員としてその任に就けるの際、部下の某は兇器を忘れたりとてその寓に到りしに、門戸堅く鎖して閲かざるを以て、板塀を乗りこえて屋内に入りしが、これを見たる民衆は鮮人が主義者の家に来りしものと誤解してこれを殴打して昏倒せしむるに至れり。
かくて要視察人の身辺また危険なるを慮り、遂に某々等を始め数名を保護検束し、かつ某は曩に負傷せるを以て応急手当を加えたり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

〈1100の証言;渋谷区〉
4、5日頃代官山の方でも西郷の方から朝鮮人が攻めてくるとかで学校へ逃げ、又、別の学校へ逃げたりした。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第50号、1985年)

内田良平〔政治活動家〕
4日夕刻代々木富ヶ谷に於て1台の自動車渋谷方面に向って疾走し来れり。〔略〕第二の警戒線たる富ヶ谷二ノ橋に差しかかりたる時あたかも第一警戒線より追跡し来りたるものに追付かれ、この第二線に於て喰い止められたり。その自動車内には4人の鮮人と日本人の運転手とありたるが、詰問の結果その答弁頗る曖昧にして不逞鮮人なること明かとなりたるため或はこれを殴殺し或はこれを傷けたる末渋谷驚察署に引渡したり
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)


続く






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