2017年10月17日火曜日

正岡子規『明治卅三年十月十五日記事』〔『ホトトギス』第四巻第二号 明治33年11月20日〕を読む(1) 「御馳走(ごちそう)は、あたたかきやはらかき飯、堅魚(かつお)の刺肉(さしみ)、薩摩芋の味噌汁の三種なり。皆好物なるが上に配合殊(こと)に善ければうまき事おびただし。飯二碗半、汁二椀、刺肉喰ひ尽す。」

明治33年。
子規34歳。
その死の2年前。
『ホトトギス』で、「写実的の小品文」の一つの実践形態としての「日記」を募集し、それに応じて投稿された日記の手入れを行っているある一日の病床生活を、子規自身の「日記」として発表したのもの。

この年、漱石は熊本を引き払いロンドンに留学する。
7月23日と8月26日、漱石は子規を訪問するが、それが2人の最後の別れとなる。
明治35年、子規没を知らせる虚子からの手紙に応えて漱石は

.....小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と存候。是は双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致、...(明治35年12月1日付 漱石の手紙)

と書いている。

また、この年は、その2年前に『歌よみに与ふる書』で論争した伊藤左千夫が子規を訪れ、その弟子となる年でもある。長塚節もこの年、子規門下に入る。

『明治卅三年十月十五日記事』を読むにあたっては、
小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』の伴走に依った(青字)。


 余が病体の衰へは一年一年とやうやうにはなはだしく此(この)頃は睡眠の時間と睡眠ならざる時間との区別さへ明瞭に判じ難きほどなり。睡(ねむり)さめて見れば眼明(あきら)かにして寝覚(ねざめ)の感じなく、眼を塞(ふさぎ)て静かに臥(ふ)せばうつらうつらとして妄想はそのままに夢となる。されば朝五時六時頃に眼さむるを常とすれど朝の疲労せる時間を起きて頭脳を使はんは少しにても静かにあらんに如(し)かずと、七時八時頃までうつらうつらとして夢と妄想の間に臥し居るなり。今朝眼さめたるは五時頃なるべし。四隣なほ静かに、母は今起き出でたるけはひなり。何となく頭なやましきに再び眠るべくもあらねば雨戸を明けしむ。母来りて南側のガラス障子の外にある雨戸をあけ窓掛を片寄す。外面は霧厚くこめて上野の山も夢の如く、まだほの暗きさまなり。庭先の鶏頭(*「奚+隹」、けいとう)葉鶏頭(*同じ、はげいとう)にさへ霧かかりて少し遠きは紅の薄く見えたる、珍しき大霧なり。余は西枕にて、ガラス戸にやや背を向けながら、今母が枕もとに置きし新聞を取りて臥しながら読む。朝眼さむるや否や一瞬時の猶予(ゆうよ)もなく新聞を取つて読むは毎朝の例なり。『日本』を取りて先づ一ページをざつと見流し直にひろげて二ページを読む。支那問題はいつ果つべくも見えず伊藤内閣も出来さうで出来ず埒(らち)のあかぬ事なり。五ページを見て三ページを見て四ペ一ジを見て復(また)一ページに返り論説雑録文苑などこまかく見る。かくする間に『時事新報』、『大坂毎日新聞』など来る。新聞を読む間、一時間半より二時間半に至る。その間寸時も休む事なし。終りてガラス戸の方を向くに霧漸(ようや)く薄らぎ、葉鶏頭(*同じ)の濡れたる梢(こずえ)に朝日の照る、うつくしく心地よし。

「五時頃」の「今朝」の「眼さめ」から始まって、時間を追って一日の出来事が記されていく。
「母」親が起きたようなので、「雨戸を明け」てもらう。「ガラス戸にやゝ背を向け」 で、秋の明け方の光をとり込みながら、「母が枕もとに置」いていってくれた新聞を読む。まず『日本』からはじめ、『時事新報』、『大阪毎日新聞』、そして『海南新聞』と、「一時間半」から「二時間半」をかけて読む。その頃には「朝日」が「照」り始めて、濡れた葉鶏頭が「うつくしく心地よし」という状態になる。

 いたく疲労を覚ゆるに再び眠りたく眼を塞ぎたるも例のうつらうつらとするばかりにて安眠を得ず。溲瓶(しびん)を呼ぶ。『海南新聞』来る。中に知人の消息はなきやとひろげて見る。妹に繃帯(ほうたい)取換を命ず。繃帯取換は毎日の仕事なり。未だ取りかからざる内に怪庵(かいあん)来る。枕元の襖(ふすま)をあけて敷居ごしに話す。余は右向きになり頭を擡(もた)げ右手の肱(ひじ)を蒲団の上につき居り。こは客に接する時、飯くふ時、筆を持つ時に取る所の態度なり。先日手紙にて頼み置きたる者出来居るか、と怪庵いふ。余、僕は字を書く事は誰にもことわつて居るのだからこの分だけ書く訳にゆかず、宜(よろ)しく先方へさういふてくれ、と頼む。怪庵、小ぎれに書きたる木堂(もくどう)の書を出して示す。それより書の話に移る。怪庵、僕は外に望はない、書ばかりは少し書いて見たい、といふ。僕も時々大きな字をなぐりつけたけれど筆がないので買ひにやると一六先生用筆といふ二十銭の筆を買ふて来た、書いて見ると一六先生に似たやうなよつぽど変な字が出来るので呆(あき)れてしまふた、と話して笑ふ。一六はいやだ、と怪庵口をとがらしていふ。きのふ蘇山人(そさんじん)に貰ひたる支那土産の小筆二本と香嚢(こうのう)とを出させて怪庵に示す。怪庵、筆にかぶせてある銅の筆套(ひっとう)を抜き、指の尖(さき)にて筆の穂をいぢりながら、善く書けさうだな、といふ。それより、能書不択筆(のうしょふでをえらばず)といふが昔の書家は多く筆を択びし事、不折が近来法帖(ほうじょう)気違となりし事、不折の鵞群帖の善き事、『ホトトギス』が発行期日をあやまる事、西洋の新聞雑誌が皆大金をかけて思ひきつた仕事をする事、雪嶺(せつれい)翁が校正の時に文章を非常に直すので活版屋が小言をいふ事、外に、嶺雲(れいうん)その他の消息など暫(しばら)く話して、怪庵は帰る。

 日光はガラス戸ごしに寐牀の際まで一間ほどさしこみて、午時は近づきたり。心地よくしかも疲れを覚ゆ。再び枕に臥して飯を待つ。朝餉(あさげ)くはぬ例なれば昼飯待たるるなり。やがて母は、歯磨粉、楊枝(ようじ)、温湯入れしコツプ、小きブリキの金盥(かなだらい)など持ち来りて枕元に置く。少しうがひして金盥に吐く。大きなブリキの金盥に温湯を入れ来る。これにてかたばかり顔を洗ふ。寐て居て顔は洗へぬものなり。

来客(怪庵)があり、応対しているうちに、陽の光は「ガラス戸ごしに寝床の際迄一間程さしこ」んできて、昼近くなっている。「心地よくしかも疲れを覚ゆ」とある。
朝食は食べないので、「昼飯待たるゝなり」と記している。やがて「母」が「ブリキの金盥」と洗面用具を持って来る。「これにてかたばかり顔を洗ふ。寝て居て顔は洗へぬものなり」。絶妙なユーモアに包んでいるが、寝たきりの病人の不自由さが、読む者に身体感覚的に伝達されていく。

 あるいは枕に就きあるいは頬杖つきて待つ。午(ひる)過ぐる頃やうやうに母、飯を運び来る。膳の代りにしたる長方形の木地の盆を蒲団の上に置く。御馳走(ごちそう)は、あたたかきやはらかき飯、堅魚(かつお)の刺肉(さしみ)、薩摩芋の味噌汁の三種なり。皆好物なるが上に配合殊(こと)に善ければうまき事おびただし。飯二碗半、汁二椀、刺肉喰ひ尽す。ブランデー一口を飲む。母は給仕しながら、そこに坐りて膠嚢(こうのう)にクレオソート液を入れ居り。食了(くいおわ)りて、クレオソート三嚢を呑む。漬物と茶は用ゐぬ例なり。自ら梨二個を剥(む)いで喰ふ。終に心(しん)を噛(か)み皮を吸ふ。

待ちに待った「御馳走」を「母」が「運び来る」。
この日のメニューは「あたゝかきやはらかき飯、堅魚の刺肉、薩摩芋の味噌汁の三種」である。「皆好物なるが上に配合殊に善ければうまき事おびたゞし」という一文からは、子規の味覚的な喜びと、空腹が一つひとつ満たされていく内臓感覚の充足が読者に伝わってくる。おどろくほどの子規の食欲が「飯二碗半、汁二椀、刺肉喰ひ尽す」という叙述にあらわれている。

 食後、硯箱、原稿紙、手入すべき投書など寝床近く寄せしめ置きたれど、喰ひ労れに労れたれば筆を取る元気もなくてまた枕に就く。

食べ終って「硯箱、原稿紙、手入すべき投書を枕元に運んでもらうのだが「喰ひ労れれに労れたれば筆を取る元気もなくて又枕に就く」からは、どれだけの勢いで食事をしたかということと、病人は食事をするだけで体力を消耗すること、そして仕事をしようと思ったものの、その体力が残っていなかったことに直面した落胆とが、短い表現ではあるが、正確に読者に伝えられている。

つづく



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