2017年10月18日水曜日

正岡子規『明治卅三年十月十五日記事』〔『ホトトギス』第四巻第二号 明治33年11月20日〕を読む(2) 「...発泡の跡、膿口など白く赤くして、すさまじさいはんやうもなく、二目とは見られぬ様に、顔色をかへて驚きしかば、妹は傍より、「かさね」のやうだ、とひやかし、...」

自宅近くの公園にて 2017-10-18
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今回は、思わず読み手である我々もうめき声を上げてしまうような「繃帯取換」の様子。
「二目とは見られぬ」「『かさね』のやう」な傷口の有様・・・。

 暫くして妹は箱の上に薬、膿盤(のうばん)などを載せ、張子の浅き籠に繃帯木綿、油紙、綿などを一しよに載せ持ち来る。母はガラス戸に窓掛を掩(おお)ひ、襖を尽(ことごと)くしめきりて去る。これより繃帯に取りかかるなり。余は右向きに臥し帯を解き繃帯の紐を解きて用意す。繃帯は背より腹に巻きたる者一つ、臀(しり)を掩(おお)ひて足に繋(つな)ぎたる者一つ、都合二つあり。妹は余の後にありて、先づ臀のを解き膿(うみ)を拭(ぬぐ)ふ。臀部(でんぶ)殊に痛み烈(はげ)しく、綿をもてやはらかに拭ふすら殆(ほとん)ど堪へ難し。もし少しにても強くあたる時は覚えず死声を出して叫ぶなり。次に背部の繃帯を解き膿を拭ふ。ここは平常は痛み少く、膿を拭はるるはむしろ善き心持なり。(左の横腹に手を触れ難き痛み所あり)膿の分量も平日に異ならずとぞ。されど平日の分量といふがどれほどの者か余は知らず。その外痛み所の模様など一切自分には分らぬなり。三年ほど前に、ある時余は鏡に写して背中の有様を窺(うかが)はんと思ひ妹にいふに妹頻(しき)りに止めて聴かず、余は強ひて鏡を持ち来らしめ写し見るに、発泡(はっぽう)の跡、膿口など白く赤くして、すさまじさいはんやうもなく、二目(ふため)とは見られぬ様に、顔色をかへて驚きしかば、妹は傍より、「かさね」のやうだ、とひやかし、余は痛くその無礼を怒りたる事あり。これに懲(こ)りてその後は鏡に照したる事もなけれど、三年の間には幾多の変遷を経たれば定めて荒れまさりたらんを、贔屓目(ひいきめ)は妙なものにて、今頃は奇麗(きれい)な背に奇麗な膿の流れ居るが如く思ふこそはかなき限りなれ。

「死声」をあげる痛み
介護される現場の写生文であり、読む者までがうめき声をあげたくなる痛覚の写生文でもある。述語は動詞の現在形の終止形を軸としながら、断定の助動詞「なり」が、要所に使われている。この文末の組み合わせによって、ほかならぬ「明治三十三年十月十五日」の一回的な出来事と、毎日の日課として繰り返し反復されているところの「繃帯取換」が、同時に読者に伝達されるような文章構造になっている。

妹の律が、「繃帯取換」の道具一式を持ってやって「来る」。
母がなぜか「窓掛」で「ガラス戸」を「掩ひ」、「襖」を全部「しめき」って「去る」。で、「これより繃帯に取りかゝるなり」。いよいよ「繃帯取換」が始まる。

「余」は、「右向き」に姿勢を変え「繃帯の紐を解」いて、「用意す」る。
「繃帯」は、背中から腹へと、臀から足への「二つ」ある。
ここで、なぜ母親が「ガラス戸に窓掛を掩」ったのかがわかる。繃帯をとれば臀部や性器がむき出しになるから、外から見えないようにするのだ。しかし、「襖」まで全部「しめき」る理由はわからない。

主語が「妹」に転換し、「余」は目的語にされ、「先づ臀」の繃帯から解かれ、「膿」が「拭」われていく。
「余」の「痛み」の強さが「堪へ難し」。
「死声を出して叫ぶなり」。
ここで、「襖」が「尽くしめき」られた理由がわかる。子規の「死声」が隣近所に聞こえないようにするための、母の配慮だった。

ここに至って、この「繃帯取換」がこの日だけの出来事ではなく、何度も反復されてきた、一連の手順で行われる「繃帯取換」の日々と年月の、母と妹による介護の持続が一気に表象される。
この文は仮定表現「若し」から始まっており、「少しにても強くあたる時」とそうではないときに、それまでの「繃帯取換」の日々を分けることになるからである。実際この日がどうだったのかは実は記されていないが、これまでの「繃帯取換」の日々における「少しにでも強くあたる時」の反復が、「死声」の反復ともなり、それゆえ母は「襖を尽くしめき」るようになったという、介護者と被介護者の、介護の日々の来歴が同時に表現されている。
つまり「死声を出して叫ぶなり」という、断定の助動詞で結ばれているこの文によって、被介護者としての子規の、介護者である妹律に「繃帯取換」をしてもらい続けた日々の記憶が、自らの永い病床生活全体として蘇ってきている。そうした被介護者としての子規の「痛み」と「死声」の記憶の、文字どおりの背後には、「繃帯」を「取換」続けてくれた介護者である、妹の律が常に存在し続けていたことも、読む者の胸に伝わってくる。

つぎに、「背部」の「繃帯取換」となる。
「痛み少く」で、読む者は少しそれまでの緊張を和らげ、「善き心持なり」でさらにほっとする。だが一本目の繃帯が「死声」をあげる「痛み」で、二本目が常に「善き心持」なのかというと、決してそうではない。
「左の横腹に手を触れ難き痛み所あり」とある。
二本目の繃帯は「背より腹に巻きたる者」なのだから、背は「善き心持」でも、背から腹へ移行する「横腹」には「痛み所」があるのだ。
したがって「善き心持」は、「繃帯取換」の間の一瞬に過ぎない。さらに「善き心持」になるのは「平常」の場合であって、なにか特別な場合にはここも痛むのである。痛みはないわけではなく、「少」ないだけなのだ。

背中の様子を鏡で見る
「膿の分量」が、「平日に異ならず」と判断しているのは、「とぞ」という文末詞から妹の律であることがわかる。介護者律の存在が前面に押し出された瞬間、被介護者子規からの、自分を介護し続けてきてくれた、妹律と母への感謝の気持ちすら、読者には伝わってくる。

ここまでの叙述は「明治三十三年十月十五日」の「繃帯取換」に限定されていたが、「平常」あるいは「平日」という語によって、病が悪化してから何年間も繰り返された、この日に至るまでの毎日の「繃帯取換」の記憶が呼び寄せられる。「繃帯取換」は「妹」律が担い続けてきた「毎日の仕事」なのである。

律は、「毎日」毎日、子規の「後に在りて」、「臀」から「背」「腹」と「膿を拭」い続けてきた。その「毎日」の介護の積み重ねがあるからこそ、今日の「膿の分量が「平日に異ならず」ということを、律は兄に伝えることが出来るのだ。先の引用に続けて、子規の「記事」は、過去の記憶に及んでいく。

「膿を拭ふ」のは妹の律で、子規は「膿を拭はるる」だけであり、しかも自分では見ることの出来ない「臀」や「背中」の「膿」であるのだから、「平日の分量」が「どれ程」なのか、「知らず」という状態に置かれているのは当然のことだ。「痛み所」も「臀」と「左の横腹」だから、やはり自分で確認することは出来ない。けれども「三年程前」に、子規は「鏡に写して背中の有様を窺」おうとしたことの記憶を蘇らせるの。
確かに一八九七(明治三〇)年九月二一日の日記(『病床手記』)に、「昨日医師ノ話ニ臀ノ下ノ痛ミノ処二ケ処イヨイヨ穴アキタリト二三日前ヨリ膿出初メタルナリ」という記述がある。「医師ノ話」を受けて、妹律に鏡を持ってこさせようとしたのだろう。

しかし、律はすでに「穴アキタリ」という「臀」の状態は、よく見知っていた。その悲惨な傷を見知っている律だからこそ、「頻りに止め」たのだ。それでも子規は律の言うことを聞かず、彼女に無理矢理「鏡を持ち来らしめ」て、「背中の有様」を「写し見」てしまうのである。その「いはんやうもなく、二目とは見られぬ様」に、子規自身が「顔色をかへて驚」いてしまう。
動揺を隠せない兄に、妹は、その「膿口」の「すさまじさ」を、「かさね」のようだと「ひやかし」た。兄は「無礼」であると「怒り」を爆発させたらしいが、その形容が「痛く」というあたりから、子規独特のユーモアに包まれていく。

この衝撃的な「三年程前」の「鏡に写」った「白く赤く」なっていた「膿口」の記憶を想起している三年後の現在の子規は、「三年の間」の「幾多の変遷」という形で、そのとき以来の闘病生活全体を振り返っていることになる。もちろん「幾多の変遷」とは、妹律に「毎日」「膿を拭」い続けてもらった被介護者の日々の記憶の想起でもある。
律という妹と、兄である自分とのやり取りを、『ホトトギス』の読者に伝えているということを考慮に入れると、文末が「こそ」「なれ」と係り結びになり、古雅な調子を出している表現法に気づく。
一気におよそ千年の「かさね」をめぐる文学的記憶が作動し始め、先に述べた子規独特のユーモアに読者ははたと出会うことになる。ここにも、大江氏が指摘していた「デモクラティツク」な表現の達成がある。

妹律が言った「かさね」のようだという一言は、明治三〇年代の読者にとっては、まず三遊亭円朝の怪談噺『真景累ヶ淵(かさねがふち)』の「累」を想起させるであろう。
下総国羽生村の百姓与右衛門の妻で、夫に鬼怒川で殺害され、彼女の怨念がずっと崇るという伝説が基になっていて、さらに一〇〇年ほどさかのぼると『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』にもこの伝説が織り込まれている。醜さの象徴のような女性として「累」は位置づけられてきた。

しかし、こうした「かさね」の連想は江戸時代以後の集合的記憶であり、「重ね」あるいは「襲(かさね)」は、衣服を重ねて着ることを意味し、「下襲」の袷(あわせ)としての「かさね」であれば、束帯のとき、袍(ほう)や半臀(はんぴ)の下に着た衣で、背後の裾を長くして、袍の下に出して引いたまま歩いたりし、その地紋や色目は、職階や季節できまりがあったという、千年来の言葉の記憶が想起され、そこに至れば「奇麗な背に奇麗な膿の流れ居るが如く思ふ」という子規の連想に納得がいくのである。

その瞬間、「明治三十三年十月十五日」における兄子規が、「三年程前」の妹律の発した「かさね」という言葉に、三年前は「怒り」を発していたにもかかわらず、今は三年間の記憶と共に、「奇麗」なイメージへ転換させ、心身の緊張を解く機能を発揮しているという劇的な変化に読者は出会うのである。
そのような表現の構造において、兄は妹に感謝を捧げているとさえ思われる。

 膿を拭ひ終れば、油薬を塗り、脱脂綿を掩(おお)ひ、その上に油紙を掩ひ、またその上にただの綿を掩ひ、その上をまた清潔なる木綿の繃帯にて掩ひ、それにて事済むなり。この際浣腸(かんちょう)するを例とす。今日は浣腸せず。便通善し。毎日のこの日課に要する時間は凡(およ)そ四、五十分間なるべし。この頃の如く痛み少き時は繃帯取換は少しも苦にならずしてむしろ急がるるほどなり。そは、繃帯取換後は非常に愉快にして、時として一、二時間の安眠を得る事あるに因る。

「介護労働」の現実
ここまで読み進めて、読者は、先に読んだ「繃帯を解き」という、五文字で示されていた妹律の作業がどれだけ大変だったのかを、改めて再確認させられることになる。
まず「木綿の繃帯」を「解」く。ここでわざわざ「清潔なる」という形容を入れるのは、「解」くときの「木綿の鰯帯」が不潔になっていることとの対比を強調するためだ。
膿は「脱脂綿」や「油紙」さえからも「繃帯」に滲み出して来ているのだ。

「繃帯」を「解」いた後は、次の「綿」を取り、「油紙」をはずし、最後に傷口に直接あてられている「脱脂綿」を取り除くという四つの作業が、「繃帯を解き」という五文字の中に組み込まれていたことに読む者は改めて気づかされる。

傷口に直接あてられている「脱脂綿」を取り除く作業自体が「膿を拭ふ」ということだった、ということにも・・・。
そこまで気づいて、改めて、そのときの痛みはどれほどのものだったのかということに思いを馳せて、子規の痛覚へ読者は想像力をのばすことになる。

「繃帯を解き」という作業の内実、妹律の介護労働の現実と子規の痛みへの、改めての気づきを媒介にして自らの身体感覚を開かされた読者は、同時に「繃帯取換」に排便が連動していたことを知らされるのである。
いつも「平日」ならここで「浣腸する」のだが、「今日」は「便通」が「善」かったので、「浣腸」はしないで済んだのである。「繃帯取換」と「浣腸」(「便通」)が対になって「毎日」の「日課」となり、それを全てこなすには「四五十分間」かかるのである。


つづく



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