2018年3月22日木曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート9 (明治30年ー1)

*
明治30年
前田家の財産を巡る争い
その争いは、『草枕』で「本家の兄(あにき)たあ、仲がわるしさ」(五)と床屋にいわせているように漱石の耳にも届いた。
卓の恐れの一つは、兄下学の浪費的体質にあった。下学は、案山子と同じ時期に政治活動から離れた後、さまざまな事業に手を出していく。ヒッピー老人イサクの学校設立にもすぐに同意し、出資したように、気のいいボンボンであった。
明治30年には、烏丸伯爵、勘解由小路子爵らと、乾燥機と石油コンロの製造・販売をする日本乾燥合資会社を設立。日本橋と銀座に販売店を、上根岸に工場を建てた。翌年には、熊本市西唐人町にも販売所を作った。けれども、設立メンバーの顔ぶれを見ても、商売に長けていたとは思えない。間もなくその会社は失敗するが、3年後、今度は、舶来の農具や化学肥料を輸入販売する会社を作った。しかし、それもまた、3年後に廃業した。孫の佑子さんによれば、下学は「本当は画家になりたかった」そうで、政治や経済よりも芸術家肌の人だったのかもしれない。「とても優しい人で、『佑子さん、めしあがれ』といって、お菓子をおはしでとり分けてくれたりしましたよ」と思い地を語る。

こうした下学の商才のなさが、さらに家産を削ることになり、そのことがなお一層卓の主張を強めさせた。
成人に達していた3男行蔵(明治7年生)、4男九二四郎(同10年生)らの生活をどう立てさせるか、更に異母弟の寛之助と利鎌もいし、滔天に嫁いだが苦労している槌がいる。しかもこの頃、行蔵と九二四郎に関しては、滔天の手紙に「行蔵九二四郎両人のこと如何相成り候や」(明治29年11月19日付)といった記述が何度か見られる。2人は前田家の書画骨董など持ち出し、それをかたに借金したり、金に換えていたらしい。10代後半から20代にかけての2人は、定職もなく、そうして小遣いを作っていた。
下学は長男として、石油コンロの販売所を熊本に開いたり、熊本の自宅の裏に剣道道場を開かせるなど、行蔵と九二四郎の暮らしを立てさせようとしたが、行蔵も九二四郎も商売に身を入れることはなく、滔天の渦に巻き込まれていく。それは、下学も含めた前田家の兄弟が案山子から受け継いだ体質であった。特に九二四郎はその傾向が強く、下学の孫の前田佑子さんは、「行蔵は剣の達人で、品のいい人でしたが、九二四郎は生涯働かないで悪いことばかりしていましたよ」と語る。悪いことというのは、革命運動に立ち混じったり、何か新しいことをやろうとするような「奔走する体質」をさす。

九二四郎の孫である竹中彩普(あやひろ)さん(次女幸の長男、昭利14年生)も、「晩年九二四郎はよく私の家に来ていましたが、昔は悪いことばかりしていたと話していました。そのころ(晩年)も、碁を打つ友達と、いろんなことをやろうとしては失敗していたようですね」と話す。けれども、卓はそういう九二四郎を叱ることはなかったという。「厳しかったという話はいっさい聞いてません。九二四郎のやることは何でも認めていたようです」と。明治10年に生まれた九二四郎が、あの家庭環境の中でそのように育ったことを、卓は理解していた。卓は最後まで彼と暮らし、その生活を支え続けた。

明治30年の漱石 - 狩野亨吉の熊本招聘
山川(信次郎)を熊本五高へ招聘したのが漱石である。山川の赴任は明治30年4月で、赴任後しばらくは合羽町の漱石宅に居候していた。この家は安普請であったが部屋数が多く、山川の前には歴史教師の長谷川貞一郎も同居しており、この2人が一緒に居候していた時期もあった。同じ家に暮らす漱石と山川は、話し出すと止まらなかった。

11月、山川信次郎は前田案山子の小天の別邸を訪問、そしてまたすぐ正月にも、今度は漱石を伴って訪問する。

英語教師の陣容強化のため、4月に山川を招聘したのにつづき、9月からは東京帝大を卒業したばかりの赤木通弘を迎えた。ところが赤木は12月3日に突然辞表を提出した。赤木は、赴任当時から授業に自信が持てず、学生の評判もあまりよくなかった。漱石と山川は彼を励ましてきたが、「病的神経質に陥り」、もはや引き留めることができなくなった。

代わりの教員について、漱石は、赤木を推薦した狩野亨吉本人に依頼しようとするが、漱石らの先輩であり、教育者としてもすでに高名な狩野を呼ぶことに、校長は躊躇した。それでも漱石は教頭の待遇で狩野を迎えることで押し通した。そして狩野は快くこれに応じた。

12月24日付けの漱石の狩野宛て手紙には、いつ到着するかを問い合わせ、年末年始の旅行について書いている。
「最後に一言申上候は小生は年末(二十七八日頃)より来年三四日頃迄何方(いづかた)へか旅行致す心算に有之。尤も大兄御来熊の日限により、また御問合せ等の有無により、或は全然旅行を廃する決心〔略〕小生は旅行をやめても大兄の早く御着になる事を希望致候〔略〕二十八日午前中に何等の御打電なきときは、来年六日頃迄には当地へ御着なきもの、又小生の其間御用なきものと見做し旅行可致候」(明治30年12月24日付)。

(つづく)




0 件のコメント:

コメントを投稿