2018年5月20日日曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート26 (明治43年~大正5年)

大船フラワーセンター
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明治43年
東京市養育院
民報社解散後、次の仕事として、明治43年7月、卓(42歳)は東京市養育院に就職する。異母弟利鎌の年譜に、「明治四十三年七月、姉卓子養育院に勤務」とある。
遺産もほとんど使い果たし、寛之助・利鎌の異母弟2人、九二四郎一家を養うためには働く必要があった。

東京市養育院は、渋沢栄一が生涯力をそそいだ福祉施設である。ロシア皇太子来日をまえに、浮浪者や窮民の救済施設の必要が論じられ、初め東京会議所付養育院として明治5年ごろに開設。ついで府の施設に移り、渋沢は明治7年からその責任者になる。その後、府の援助が打ち切られると私財を投入し、資産家にも寄付を呼びかけて、私的施設として維持した。明治23年に市営になってからも、昭和6年に亡くなるまで、院長として指導的役割をはたし、日本で初の福祉施設の充実に力を注ぎ続けた。

その間、養育院は、年々増える捨て子や孤児、行き倒れの病人ら窮民を収容するため、移転をかさねて施設を拡充していく。はじめは病人も大人も子供も一緒だった収容内容を、児童・青少年と大人を分離したり、その青少年のなかでも犯罪を犯した者の矯正教育をおこなう感化院や、病院・療養施設を分離するなど、機能を整備していった。明治42年、大人も子供も同じ施設に入っていたそれまでの本体から、児童の施設を分離し、病気や健康薄弱な児童のための安房臨界学園と、健康な学齢児童のための巣鴨分院を開設した。

卓はこの巣鴨分院に就職した。「明治四十三年には東京の養育院へ行って孤児のお母さんのようになりきってしまった」(『婦人世界』昭和7年9月号)と後年回想している。そこで彼女は、約8年間、50歳ごろまで働いた。
『婦人世界』の談話は、「今ではその孤児達がそれぞれ大きくなり、中には医者の細君になったり子持ちになったりして、今尚那美さんをお母さんお母さんと慕って寄ってくる」と続く(雑誌記事のタイトルは、「草枕のヒロイン - 那美さんを訪ふの記」で、卓のことを「那美さん」と書いている。)

明治45年
辛亥革命
1911年(明治44年)10月10日の武昌蜂起をきっかけに各地で清国政府からの独立宣言が相次ぎ、年末までにはその趨勢が決まった。翌1912年1月1日、孫文が臨時大統領に就任し、中華民国の成立を宣言する。辛亥革命である。
滔天は、アメリカからヨーロッパを経て帰ってきた孫文を香港で迎え、南京に同道して1月1日の式典に立ち会っている。卓もその式典に国賓として招待されたらしい(『玉名郡小天郷土史』)が、卓は行かなかった。養育院の仕事もあったが、旅費がなかった。

その少し後、大正3年の利鎌の年譜には次のように書かれている。
「一家貧窮。出入りの一米屋に三百円の支払いをためたりといえば、当時窮迫の一端を知るべし」。
辛亥革命の年の利鎌の年譜には、卓の残したと思われる言葉がある。
「この年、第一次シナ革命成り、一族年来の宿志ようやくとげられしも、物質的にむくいられること少なし」。

大正5年
漱石との再会 異母弟利鎌の橋渡し
小天での出会いから18年、熊本五高教授だった漱石は今や高名な作家、卓は小天の名家のお嬢さんから中国革命の支援者、孤児院の保母に変わっていた。もはや接点の持ちようもないほどに隔たった2人の橋渡しとなったのは、異母弟利鎌であった。
利鎌と漱石は、不思議に縁があった。

利鎌年譜の明治32年の項。
「生後いくぱくもなき幼少の故人〔利鎌〕が、姉卓子に抱かれて漱石等に愛撫され、後年その門に親しく出入りせるも亦奇縁というべし」。
利鎌は案山子と愛人林はなの間に生まれ、前田家に入籍されて育った。彼が生まれた当時、卓は永塩亥太郎と別れ、小天に戻っていて、彼ら親子の面倒をみた。そして、利鎌9歳のとき、生母や兄覚之助とともに東京に呼び寄せ一緒に暮らした。その後、利鎌母子は滔天の家に同居したり、母子3人で暮らしたあと、15歳から再び卓と同居する。

大正4年(1915年)、利鎌(17歳)が一高に入学した年に彼女の養子となった。卓の養子になり一高に入学したことが、利鎌に漱石に会う決心をさせた。
卓は森田草平のインタビューで、「あれはわたくしが上京してからもう十年も経った後のことでございました。利鎌が高等学校へ入って、早稲田のお宅へ出入りさせていただくようになってから、わたくしも二・三度お伺いしました」(『漱石全集』月報)と語っている。まず利鎌が漱石に会いに行き、そして卓を連れて行った。

大正5年4月12日付けの利鎌宛の漱石の手紙。

拝復私はあなたの名前を忘れていました。前田利鎌という名前を眺めているうちに若しやあの人ではなかったかと思い出しましたが、それも半信半疑でありました。穴八幡の処で会った人があなただろうとは夢にも思いませんでした。若しあれがあなたなら私の小説の縮刷を手にしていはしませんでしたか。
私は多忙だから面会日の外は普通の御客には会わない事に極めています。面会日は木曜日ですが、木曜は学校があるからあなたも忙しいでしょう。然し学校が済んでから来る勇気があるなら入らっしゃい。お目にかかりますから 以上
四月十二日 夏目金之助
前田利鎌様

この手紙の少しまえに漱石と利鎌は偶然、早稲田の穴八幡神社で出会った。日頃漱石に親しみを感じていた利鎌は、思い切って挨拶した。九州、熊本の前田であると。その時はほんの短い立ち話で、漱石もそれが卓の弟だと気づかなかった。追いかけるように、利鎌から手紙が届く。先日穴八幡で出会った自分は、前田卓の弟であることや、今は一高生であること、訪問してもよいかという伺いなどが書かれていたのだろう。漱石は思いがけない出会いに驚いて、返事を書いた。若い人に対して隔てなく親切であった漱石は、面会日ならいつでもいらっしゃいという。ただ高校の授業があるだろうから、それがすんでから、と。そして、大勢の弟子や訪問客がいることは分かっているだろうが、それでもよければ勇気を出して、という。

利鎌は木曜会に出かけて卓の近況を漱石に伝えた。漱石がお会いしたいものですと言ったのだろうか、卓は利鎌とともに、早稲田南町7番地の漱石の家を訪ねた。一度ならず、二、三度に及んだ。

「月報」の卓の談話。
「或時先生にお目に懸って、しみじみわたくしの身の上をお話し申し上げますと、『そういう方であったのか、それでは一つ『草枕』も書き直さなければならぬかな』と仰しゃってでございました。本当にわたくしという女が解っていただけたのだろうと存じます」。

この「本当にわたくしという女が解っていただけたのだろうと存じます」という言葉に、卓の万感の思いがあふれている。最初の出会いから遠い年月の間に、卓が生きた波乱に満ちた人生を、漱石は理解してくれた。『草枕』も書き直さなければならぬかな」というのは、一種の社交辞令だったかもしれないが、『草枕』の那美さんだけではない自分の姿を、分かってもらったということだろう。それは単に新しい女、男まさりの奇矯な行動をとる女というだけでなく、どんな障害も恐れず、まっすぐに自立して生きてきたことへの誇りが卓にはあり、それを「解っていただけた」と感じた。

森田草平(記事の後記で「『草枕』も書き直さなければならぬかな」について)
「先生は生前決してお座なりを云う人ではなかった」として、この言葉は卓の思い違いではないかと指摘。もその後に、「しかし又よくよく考えれば」.....「刀自〔卓のこと〕の身の上をしみじみと聞いて、これはもう一つ小説に書く価値があるという意味で、同じ言葉を使われたのであろうとも解せられる」と記す。

いずれにしても、漱石が思わずそういう言葉を発してしまうほどの感動が、その時にあったのだろう。

インタビューでは、『草枕』のモデルとされてきたことでの卓の忸怩たる思いが、長い間鬱積していたことも示している。

上京して民報社に勤めることになったとき、卓は山川信次郎には手紙で知らせたが、漱石には遠慮して知らせなかった。その翌年、『草枕』が出版され、熊本五高から東大に入った顔見知りの学生たちが「小母さんのことが小説になったよ」とわざわざ知らせてくれたので、自分も神楽坂に行って雑誌を買って読んだ。
モデルにされたことは、一時あまり気持ちよく思わなかった。熊本から小天湯の浦までの風景や、父の隠居所(別邸)の様子はほとんどそのままだが、違うところもある。自分は出戻りだったのでいつも地味な着物を着て、決して振袖などは着なかった。男湯に入ったのも、女湯がぬるく夜も遅かったので、誰もいないと思ったからだ。「すると、水蒸気の深々と立ち籠めた奥の方で、お二人がくすくす笑っていらっしゃる声がするじゃありませんか。わたくしはもう吃驚して、そのまま飛び出してしまいました。それだけは事実でございます」と訴えている。

そして、民報社での孫文と黄興の旗争いの時の腰巻きのエピソードを話し、「こんな女でございますから、『草枕』の中でわたくしが『き印』だとされるのは仕方ありませんが、母までが狂人扱いされているのはどうも残念でなりません。わたくしの口から申しては何ですが、母は昔気質のまことに優しい、典型的な日本の女でございまして、これだけは何処までも弁護してやりとうございます」という。
つまり、モデルということで、いろいろと世間に誤解されたことへの釈然としない思いを率直に述べている。そして、そうした奇矯な行勤と取られがちな自分の物怖じしない気性を、漱石は那美に反映させたのだと卓は受け取った。「これを要するに、『草枕』の女主人公は、わたくしの気持ちと申して宜しいか、気性と申して宜しいか、そんなものを取ってお書きになったものとは存じます」との言葉には、「私にはもっとちがう側面もある」という思いがにじむ。
それは、その気性の裏にひそむ、自由や平等への思い、男女同権への希求といった精神性だろう。那美にはそれが反映されていない。彼女は長年その思いを抱いていたのだと思う。だから、この再会のときに中国の革命家たちとの交流のいきさつを話し、やっと自分という人間の全体を漱石に分かってもらえたと思えた。「本当にわたくしという女が解っていただけたのだろうと存じます」の言葉には、その喜びがある。

漱石にとってこの再会はどうだったのか。
このことについて漱石の思いを語るものは残されていない。この再会は、漱石の最晩年のことである。再会から約半年後、この年(大正5年)12月9日に漱石は亡くなる。この頃の漱石の関心は、連載中の小説『明暗』執筆のことや、芥川龍之介や久米正雄ら新しい弟子たちのことであった。体調も悪く、その頃の日記はほぼ毎日、糖尿病のための尿検査のことや食事のことを記している。

この頃、漱石は『草枕』自体にあまり愛着を持っていなかったようだ。
『草枕』をドイツ語に翻訳したいと申し出てきた山田幸三郎への8月9日付の手紙。
「拝復御手紙拝見致しました。『草枕』を独訳なされる事は始め(て)承知致しました。あんなものに興味をもたれ御訳し下さるる段、甚だ有難い仕合せです。私の方から御礼を申上ます。然しあれは外国語などへ翻訳する価値のないものであります。現在の私はあれを四五頁つづけて読む勇気がないのです。始めから御相談があれば無論御断り致す積(つもり)でした。そういう訳ですから雑誌はよろしう御座いますが、単行本にして出版する事丈はよして下さいまし。以上」。

『草枕』だけでなく、同じく翻訳の申し出のあった『二百十日』や『倫敦搭』についても、同じような手紙を書いている。芸術論や人生観を美文調で直接的に披瀝した『草枕』は、晩年の漱石にとって多少面はゆいものになっていたのだろう。

卓が森田草平のインタビューを受けたのは、大正5年の再会からさらに20年後の昭和10年9月のこと。森田はその頃の卓の姿をこう記している。
前田案山子の娘であり、宮崎滔天の義姉で、さらに「私どもの友人で、『宗教的人間』一巻を遺して、世を早うした故前田利鎌君の姉君、本年六十九歳〔数え年〕」、一般に『草枕』の女主人公お那美さんのモデルと云い倣されている方である」と紹介。

そして「刀自〔卓のこと〕は二十有余年来、令弟前田九二四郎氏と共に、目白の奥の雑木林の中の一つ家に、しづかに老いを養っていられる」と。この家は、池袋字大原一三九〇番地(現在の豊島区西池袋)で、宮崎滔天家と広場を隔てて向かい合って建てられていた。滔天と槌の孫にあたる宮崎蕗苳(ふき)さんによれば、「朝、起きて、お早うと言い合えるような距離でした。小さな家に、みんなで住んでいましたよ」という。九二四郎一家や生前の利鎌らが共に暮らした家である。このインタビューの3年後に卓は亡くなるのだが、その最晩年の70歳に手の届こうという彼女が、漱石とのことや『草枕』のことを、まるで昨日のことのように答えている。

(つづく)


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