2019年11月17日日曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その13)「〔3日〕東京にいっても、大久保第一六連隊の騎兵は、鮮人を馬で追いながら追い撃ちですよ。それはみんな田の中にたおれてしまって流しっきりだから、証拠不十分ですけどね。こっち〔法典村自警団裁判〕は切って殺してそのまま置いたですから、そういうひっかかりはあったですね。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その12)「〔3日〕泉岳寺近くで朝鮮の人が一人殺されて筵を掛けられていた。〔略〕数珠繋ぎの朝鮮の人達がどこに連れてゆかれるのか巡査に引っ張られてゆく。」
から続く

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;秋川〉
菅生での証言
3日目に、朝鮮人が騒ぎだしたという噂と”福生の戸船場を渡った”というデマが流れて、村中で竹の先を火であぶり竹槍を作ったのだった。
(秋川市教育委員会『秋川の昔の話』秋川市、1992年)

引田での証言
3日の夕方、半鐘が鳴って、”朝鮮人がせめてきた”という噂が流れ、自警団が組織された。竹槍、日本刀、鉄砲など持った男衆が、消防小屋に集まった。女、子どもは山に逃げこんだ。
(秋川市教育委員会『秋川の昔の話』秋川市、1992年)

〈1100の証言;高尾山〉
〔高尾山で〕3日目の夕方ごろに朝鮮人騒ぎがあり、大勢の人が甲州街道を山梨から、長野の方へ逃げて行きました。私が街道で供物を配っていますと、八王子の先まで、朝鮮人が来ていると言う人もいました。若い人ばかり6人で蔵から刀を出し、ふもとへ行き、一晩中警備をしました。5日目にさがみはらに帰ってきました。この辺りでも朝鮮人騒ぎがあり、このときには、町田の先に来ているという話でした。
(相模原市消防本部防災課編『関東大震災40人の体験談 - そのときさがみはらは』相模原市消防本部防災課、1981年)

〈1100の証言;立川〉
石川泰三〔青梅で被災、2日、肉親・知人を探しに東京市内へ。3日、青梅をめざす〕
〔3日〕午前7時頃、自動車は無事立川停車場前に安着した。一同、まずこれまで来れば安心と、心からホッとした。実に警戒線にかかったことは20何回、おかげで、名刺の50枚も、用意したのが余すところ14、5枚ばかりであった。駅前の料理店で昼食した。立川駅の板壁には、いろいろの震災記事やら、内閣の組織、顔触れが大きい洋紙に肉筆で特報してあった。〔略〕「ははあ・・・、内閣組織が出来たかな・・・」次の記事は、東京の火災区域「ずいぶん焼けたな・・・」次の記事は、・・・「ややッ!・・・これは大変!・・・」愕然とした。「朝鮮人目下800名八王子に襲来、盛んに放火しつつあり云々」
一行これを見て、こりゃ、青梅付近も気づかわれる。とんだことが出来たわい!一刻も早く帰らなければならぬ。気はあせるが、汽車はなかなか発車しない。約1時間を経た頃、発車した。車中は、火事や鮮人騒ぎで話が持ちきりだ。(1923年記)
(「大正大震災血涙記」石川いさむ編『先人遺稿』松琴草舎、1983年)

〈1100の証言;府中〉
石川泰三〔青梅で被災、2日、肉親・知人を探しに東京市内へ。3日、青梅をめざす〕
〔3日〕府中付近であったろう、鮮人らしいのが、頭を包帯で巻き立ててはいるが、鮮血がにじみ出て、尻からも生血が滴るのである。それを巡査が護衛して行く。凄惨の気、人を襲うかのようであった。(1923年記)
(「大正大震災血涙記」石川いさむ編『先人遺稿』松琴草舎、1983年)

〈1100の証言;場所不明〉
大谷なみ〔当時東京市立京橋高等小学校1年生〕
3日のばんは親子そろって舟にのった。しばらくすると朝鮮人さわざ。朝鮮人が300人もくるという。私はああこわい、火事でのがれて又朝鮮人でばく発玉をほうりこまれるのかと思うと、じゆみょうがちぢんでしまう。せんどさん私の父さんはほうちょうをもって舟のまはりでねずにばんをしていただけど、2、3人ころしたといった。
(「震災遭難記」東京市立京橋高等小学校『大震災遭難記』東京都復興記念館所蔵)

加藤曾野〔当時四谷区四谷高等小学校1年生〕
〔3日〕いつものようにうらの空地へ近所の人々と一所にやすんだ。夜のまくは刻々せまる。木の枝には提灯が3つさげてあるばかりでやみ夜も同然である。夜警の人々は絶ずまわっている。はるか向こうで時々ワァーと鬨の声のようにあげる。私たちの心は〇〇人襲来の話でひどくおびえていた。今ならばさほどでもないが、その時はほんとうにおそってくるものと思って少しの音にも気をくばった。
ワア・・・ワア・・・来た!! 来た!! ドンッドンッドンッドンッ!! 警告のひびき!! 銃声の音? あたりの静寂を破って起こった。おう!! あの声は暗夜にひびくするどい銃声? さては〇〇人がおそって来たのか大へんなことになった。今に修羅の巷が開かれはしないであろうか。
そうなったら、どうしたらいいだろう。がばとはね起きた私は唖然として恐しさに身をふるわすばかりであった。胸はどきどきと波うっている。何というものすごい晩であろう。戦地へ行ったような気がした。あまりに早くかわり果てたこの世の様をおどろかずにはいられなかった。
しばらくしてまたもとの静けさに帰った。
(「暗夜銃声?の思出」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・高等科の巻』培風館、1924年) 

高橋定五郎〔当時法典村(現・船橋市)警防団長〕
〔3日〕東京にいっても、大久保第一六連隊の騎兵は、鮮人を馬で追いながら追い撃ちですよ。それはみんな田の中にたおれてしまって流しっきりだから、証拠不十分ですけどね。こっち〔法典村自警団裁判〕は切って殺してそのまま置いたですから、そういうひっかかりはあったですね。
(千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者迫悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと - 関東大震災と朝鮮人』青木書店、1983年)

田邊禮子〔当時成蹊小学校4年生〕
3日の5時ごろから朝鮮人さわざになりました。〔略〕 四つかどではなわばりをしてしらべています。8時ごろ車にのった人がきました。その人はごくまずしい風をして八百屋のようにざるにお大根を入れてもっていました。車屋の車夫は学生のみなりをしていました。へんだへんだとおもっていたらよつかどでとめさせられました。しかも朝鮮人によくにてます。朝鮮人と思ったのか言葉もなんだかすこしへんでした。ちょうちんをもっていない人はとおさないことにしてあるのでした。その人はちょうちんをもっていなかったのです。あやしいなと思ったら、その人はゆるしてくださいとすこしこえがふるえているようでした。私はそんなあやしいものではありません、あとで3人いっしょにちょうちんをもってきますからおゆるし下さいといっていましたのでゆるしました。その人はいつまでたっても3人できませんでした。
1時かんぐらいたつと、わあわあというこえのなかにまじって、つかまったつかまったというこえかしました。するとじ転車にのった人が、つかまりました、つかまりました、といってめがほんを口にあてています。私はこわいながらもみようとおもいました。それからすこしたったら人がぞろぞろかえってきたので、なんだとおもったら、朝鮮人とまちがえたのは犬でした。
(成蹊小学校編『大震大火おもひでの記』成蹊小学校、1924年)

柳瀬正夢〔画家〕
私の頭を3日目の昼間、市内で目撃した情景が走った。〔略〕 Xに塗れて引づられて行くXX。お濠の土手の背の低い樹木の中に、戦(おのの)きちぢかんでいるXXを、四方からXXが囲んでXXでXXXいている。橋下から数珠繋ぎに引出されてくる半死のXX達の間には女さえ混っている。針金で後手に結えられた菜っ葉服のXXの十数個のXX體の真中におったっている焼残りの交番。焼跡の街の街角に放り出されたXX人の死体。四谷見附、本所相生橋付近、車坂下その他。
上野広小路の十字路、松坂屋の前の今雑貨店のある所には、ズボンと片足の靴だけを残した裸体の労働者が、XXXXXX出されて放り出されていた。XXでXかれたと覚しき、幾箇所からも皮を破いて流れた脱腸、流出した血は黒く乾上がって焼土にこびりつき、頭髪は所々剥ぎ取られている。焼跡の掘り返しに往来する人の列が、その大きな死体を土足と鉄棒にかけてXみXって行く。側にはこんな立札がたててあった。「いやしくも日本人たるものは必ずこの憎むべきXXXに一撃を加えて下さい」
(「狂犬に噛まれる」『戦旗』1928年10月号、戦旗社)

山口博〔当時成蹊小学校5年生〕
9月3日の夜の事である。僕等が夜の9時頃いると、近所の自警団が、「あなたの家に今〇人が入りました」と言って、どんどん中に入って行った。なにをするかと見ていると、石のつんである所に行って、ちょうちんでそこいらを、てらして出て来ました。そうしたらそこにいたもう一人の自警団が「いたか」と言いました。すると今の人が「いたぞ」と言いながら出て行ってしまいました。あとで叔父様が、懐中電灯を持って家のすみからすみまでさがしました。そして「なあになんにも居はしません」とおっしゃいました。それから竹さんがさがしに行きました。そして又「なんにもいません」と言いました。〔略〕
「さっきの自警団はなにを〇人と言ったのだろう。たぶんおどろいているから、石でも〇人に見えたのだろう」とおっしゃってお笑いになりました。
(「〇〇人さわざ」成蹊小学校編『大震大火おもひでの記』成蹊小学校、1924年)
つづく

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