2021年12月6日月曜日

〈金色の ちひさき鳥の かたちして 銀杏ちるなり 夕日の岡に〉与謝野晶子《恋衣》1905


■この頃の与謝野晶子 

『恋衣』は1905年(明治38)1月1日出版
前年9月には有名な〈君死にたまふことなかれ〉を発表している。

『黙翁年表』でこれを追いかけると、、、

1904(明治37)年9月1日
・与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)(「明星」)。
大町桂月が、「太陽」(10月号)で「国家観念を藐視にしたる危険なる思想の発現なり」と非難。
晶子は「明星」(11月号)に「ひらきぶみ」と題し反論。「当節のやうに死ねよ死ねよと申候事、又なに事にも忠君愛国などの文字や、畏おほき教育勅語等を引きて論ずる事の流行は、この方却て危険と申すものに候はずや…」。
角田剣南は、「読売新聞」に、「理情の弁(大町桂月に与ふ)」を書き、「晶子の詩何ぞ咎むるを須ゐんや、桂月は国家主義に佞し、自ら其非に陥るを悟らざるものなり」と述べる。

桂月は、再び翌年1月の「太陽」に、「詩歌の骨髄」と題し「此の如き詩を作れる作者は、乱臣也、国家の刑罪を加ふべき罪人なり」と糾弾。
鉄幹は「明星」(2月刊行)で、「『詩歌の骨髄』とは何ぞや」を掲載。「理性の錯じらぬ純粋の感情の声…非国家主義を謡ふとか非難する誣妄も亦甚しい」と反論。
大町桂月の糾弾した明治38年1月の「太陽」には、大塚楠緒子の「お百度詣」が掲載。

この頃、反「明星」拠点を作りつつある尾上柴舟のうた「楯」の1首。「小さき平和説きしは誰れぞ誰れぞ再び説かむ子あらば刺さむ」。明治38年の斉藤茂吉「本よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり」。

この頃、与謝野晶子・山川登美子・増田雅子3人の歌集「恋衣」刊行計画すすむ。「明星」に「恋衣」の予告が出ると、日本女子大学は11月、山川登美子・増田雅子を停学処分にする。親・鉄幹・平出修(露花)の尽力で解消されるが、「恋衣」発刊は翌年1月に持ち越さる。

1905(明治38)年1月1日
与謝野晶子(28)・山川登美子・増田雅子、「恋衣」(本郷書院)刊行。登美子は夫の死により明治37新詩社に返り咲く。評判が良く、2月に再版、10月に3版。

与謝野晶子は数え年28歳、鉄幹と結婚して5年目で、長男光4歳、次男秀(しげる)2歳であった。秀の名は、鉄幹夫妻と親交のあった大阪在住の詩人薄田泣菫の命名。 「みだれ髪」以後、晶子の作歌活動は続いていて、明治35年には第二歌集「小扇」を出版、37年5月には、鉄幹と共著の詩歌集「毒草」が刊行され、「恋衣」は4冊目の作品集。

山川登美子は数え年27歳。彼女は明治33年、大阪で鳳晶子と共に鉄幹に逢った時から彼に惹かれていたが、才気と性格の強さで晶子に劣っていたため、晶子ほど大胆に鉄幹に近づくことができなかった。だが、登美子は鉄幹が自分の心を知っていることを慰めとした。
その時期の彼女の歌・・・ 
髪ながき少女と生れしら百合に額(ぬか)はふせつつ君をこそおもへ 
それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ 
彼女には、鉄幹や晶子と逢った時に既に縁談があった。山川家は若狭・小浜の旧酒井家藩士。登美子の父貞蔵は藩政時代に側用人や目附役を務め、維新後は国立十二銀行の頭取をしていた。登美子の縁談の相手は、山川家の本家、山川一郎の養子山川駐七郎(とめしちろう)であった。 
鉄幹と晶子の恋愛が進行中であった明治33年12月、山川駐七郎(30)と登美子(22)は結婚した。 明治34年1月号の『明星』は、「たえんまで泣きてもだえて指さきてかくては猶も人恋ひわたる」という登美子の歌を載せている。 
駐七郎(旧姓都築)は、東京の高等商業学校出身の外交官で、結婚前はメルボルン日本領事館にいたが、結婚後は当時一流の煙草会社と言われた銀座の江副商会の支配人となり、東京に移り住んだ。 
結婚後半年ほどしてから駐七郎は胸を冒されて職を辞し、郷里小浜の海岸で療養生活をしていたが、明治35年12月25日に没した。この時、登美子は23歳。2人の間には子供はなかった。登美子はその後小浜の実家に帰っていたが、明治37年春、教職で身を立てることを目的に上京、日本女子大学英文科に入り、与謝野家に出入りするようになった。
登美子の日本女子大学入学については、鉄幹が、前夫人の滝野に明治34年4月13日付で日本女子大学入学を奨めた手紙が残っていることから、彼が今度はそれを登美子に奨めたという見方が強い。女子大学をでれば教師として身を立てることもできるからと、両親を説得して上京した。

同じ頃(37年4月)、「明星」同人、増田雅子も上京して日本女子大学に入った。 
増田雅子(本名まき)は、5歳のとき母を失い、古い薬種問屋の奥深い家で育てられた彼女は繊細な情感を持った少女であった。13歳で堂島女学校に入り、のち西本願寺系の相愛女学校に移った。13歳のとき継母がその家に入ったが、その継母の方針で16歳のとき女学校を中退した。彼女は古典文学を読み、「文庫」の投書家となり、明治33年21歳の頃から「明星」の投書家になった。鉄幹が大阪で「明星」の会を開いた時、厳しい旧家の箱入娘だった彼女はその仲間に加わることができなかった。翌34年の会合には出たものの、間もなく行儀見習に京都の岩村男爵家へ小間使として入らぬばならなかった。明治36年、学問を志し父母に願い、改めて大阪の浪花女学校に入学した。本科2年を終えて明治37年25歳のとき、上京して日本女子大学国文科に入った。4月初め、入学式で増田雅子(25)は山川登美子(26)に出逢った。2人はともに晩学であった。雅子は大学の寄宿舎精華寮に入り、登美子は芙蓉寮に入ったが、2人は親しく交わり、日曜日には一緒に与謝野家を訪ねるようになった。

明治37年夏頃、晶子・登美子・雅子合著の歌集を本郷書院から出す話が起ったが、「明星」9月号に晶子の詩「君死にたまふこと勿れ」が出て、輿論が沸騰しているときに、「恋衣」などという題の本を女子大学生が出すことには何等かの危険が予測された。 11月初め、その本の広告が「明星」に出た。 
「山川登美子、増田雅子、与謝野晶子の三女史は、多年、新詩社の閏秀作家として、詩名夙(と)く『明星』紙上に顕れぬ。近時我国短詩壇の潮流いと新しきものあるは、実に女史等首唱の力多きに由れり。わが書院曩(さき)に『毒草』を出だししか、今また切に三女史に乞ひて此集を得たり。与謝野女史は既に二三の著あり。山川・増田二女史に至りては、この集を以て初めてその詩才を窺ふべし。 世を挙げて功利に趨り、未だ文芸の真価を知らず、書を読めりと称する者、往々猶偽善者道学者の口吻を以て詩歌美術を律せむとする時に当り、明峰繊指の人、熱意かばかり自家を語るを見るは、詩界の偉観なるのみならず、人間の栄誉、生命、まことに此に在るを悟るべきなり。」 
この広告文が出ると、大学当局は強硬な態度でこれに臨み、登美子・雅子を停学処分にすることとなった。小浜からは登美子の父が上京し、「明星」同人で弁護士である露花平出修が鉄幹と共に奔走した結果、11月中頃にはどうにか解決した。 
この月出版された「恋衣」には、3人の歌の外に、晶子の「君死にたまふことなかれ」ほか5篇の詩も載せられた。この詩に対する批判はまだ続いていたが、この出版事件が解決したことによって、晶子は世に勝ったような気拝の昂まりを感じた。
歌よみて罪せられきと光ある今の世を見よ後の千とせに 
師と友とわれとし読みてうなづかば足るべき集(しう)と智者(ちしや)達に言へ 
と、登美子は停学処分への憤りの歌をよむ。 
『恋衣』は師と晶子、雅子、自分が読んで、お互いにうなずき合えばよい集なのだから、とよむ。
『恋衣』の評判は良好で、2月に2版、10月に3版を出すことになる。 
かつて、鉄幹におくった「あたらしくひらきましたる歌の道に君が名よびて死なんとぞ思ふ」という登美子の歌は、『恋衣』では「歌」が「詩」に、「よびて」が「讃へ」になっている。和歌を詩に止揚することを課題とする鉄幹の心が現われている。『恋衣』の登美子の歌は、多くが恋愛で、夫に死別した悲しみの歌は10首足らずである。

鉄幹は『明星』明治39年8月号に「ふたなさけ」という長詩を発表している。晶子、登美子への「ふたなさけ」は、ふたつながらに偽りでないという。また、『明星』廃刊2年後の明治42年3月刊行の第7歌集『相聞』に 
常世物(とこよもの)はなたちばなを喚ぐ如し少時(しばし)絶えたる恋かへりきぬ 
古歌(ふるうた)のきよき調を次ぐごとく昔の恋にまた蓮へるかな 
を載せているが、これらの歌は登美子のことをよんだもの。 
また登美子にはみずから薦める歌として、 
みてづからひと葉つみませこのすみれ君おもひでのなさけこもれり 
花さかばふたりかざしにさして見むこのすみれぐさ色はうつらじ 
といったものがみられるが、登美子の恋歌は空想的なものが多く、必ずしも鉄幹にあてたものばかりとは限らない。 
みいくさの艦(ふね)の帆づなに錨づなに召せや千すぢの魔もからむ髪 
などは、登美子の弟、昌蔵の友人で海軍兵学校にいた土田数雄にあてたものといわれる。 
かつて登美子は鉄幹にあて、 利鎌(とがま)もて刈らるともよし君が背の小草のかずにせめてにほはん 
(『恋衣』では『明星』初出のときとは漢字などが訂正されている) 
とうたったが、今はもっと積極的なうたいぶりである。 
狂ふ子に狂へる馬の綱あたへ狂へる人に鞭とらしめむ
「狂う子」は登美子、「狂える人」は鉄幹。登美子はこらえきれない熱い情念に身をゆだね、狂える馬にまたがる。師もまた鞭をとりて、狂える馬を狂えるままに疾駆させよ、という。 
こういう風体で実生活の感情をうちだすのが『明星』風でなのである。 
佐藤春夫の『晶子曼荼羅』では、晶子は2人の関係を知り、夫の薄情を怨み、登美子を呼び出して難詰したとあるが、これはまずないだろう。 
そもそも晶子は、滝野という妻がいるのに鉄幹と一緒になった。また友である登美子の鉄幹への恋慕の心をも知っている。 
もちろん、2人の関係を知って平気ではないだろうが、晶子のこのしっかりしたうたいぶりは、なみの女には真似のできるものではない。 
恋ひぬべき人をわすれて相よりぬその不覚びとこの不覚びと

その後、登美子は肺を患い、明治40年2月、日本女子大学を退学し療養生活に入るが、42年4月15日、母に看取られながら29歳で没する。 
登美子の残した悲痛な歌・・・ 
おつとせい氷に眠るさいはひを我も今知るおもしろきかな 

晶子は、 婿(せ)とわれと死にたる人と三人して甕(もたひ)の中に封じつること 
とうたう。 
背の君と自分と亡き登美子と三人して、あのことは墓の下に封じてしまおう、という。 
単なる嫉妬ではこの歌はよめない。あの世へとわたる三人の固い精神共同体を守りきる晶子の毅然たる姿勢はけなげ美しい。

明治38年1月は、夏目漱石『吾輩は猫である(一)』が「ホトトギス」に発表された月であり、漱石の友人大塚保治の妻で漱石との因縁浅からぬ大塚楠緒子が「お百度詣で」(「太陽」)に発表した月でもある。   


【追加】

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