2022年6月13日月曜日

〈藤原定家の時代024〉承安4(1174)7~12月 平重盛(38)右近衛大将 基通(もとみち)従三位 法住寺殿において「今様合せ(いまようあわせ)」開催 南都大衆が騒動   

 



承安4(1174)

7月8日

・平重盛(38)、右近衛大将に任命。

源雅通が病を理由に辞した代わり。雅通は嘉応元年(1169)以来、病気で久我(こが)の別荘に寵っていたが、相撲の節会が行われることからついに辞退したもの。大将の候補には重盛と花山院兼雅の二人が挙がっていたが、清盛の意向が重盛にあったことから任じられたという。清盛もついに任じられることのなかった官職である。

重盛は承安元年の年末に大納言に復帰した後、朝廷の公事もよく勤め、同3年4月12日に法住寺の萱御所(かやごしよ)が焼けた際にはいち早く駆けつけ、重盛の侍が火の元に跳び入って中廓の柱を切って火を消し、法皇から称えられている(『建春門院中納言日記』)。5月2日の鵯合では左方の頭人を勤め、7月20日には建春門院の御堂の東側の山を崩す工事を命じられるなど、法皇や建春門院によく仕えており、それが評価された。『玉葉』は「将軍は顕要なり。古来その人を撰び補(ぶ)し来るところなり。今、重盛卿、当時において尤も当たる仁と謂ふべし。ああ悲しきかな」と批判。

21日の拝賀の儀式には、邦綱以下の公卿10人、殿上人27人も扈従し(『公卿補任』)、平氏の栄華を物語るものとなった。重盛を好まぬ兼実はその日の記事は何も書き記していない。

7月27日

・相撲(すまい)の節会(せちえ)が復活。翌日に舞や猿楽などの芸能も行われた。

8月2日

・近衛基通(もとみち)、従三位叙任。19日、乳父の平信範は基通の拝賀の儀式の打ち合わせで福原の清盛を訪ね指示を受ける。拝賀は平氏一門の援助によって行われ、邦綱・宗盛・源雅頼・頼盛・教盛・経盛・信範らの公卿が従っている。清盛は基通を早く摂関につかせるべく動いてゆくことになった。

8月12日

・蓮華王院宝蔵の典籍収集の方針。

「漢家の書籍においては、皆儒家にあり。また、他の御倉にあり。あながちに置かるべからず。ただし証本においてはこの限りにあらず。本朝の書籍および諸家記は、皆ことごとく集めらるべし。よくよく撰び定むべきなり」(『吉記』承安4年8月12日条所引後白河院宣)

8月16日

「久永御厨訴え申す、若狭三河浦住人時定濫行のこと」(「吉記」8月16日条)。

また、「久永御厨訴え申す、若狭在庁時永のこと」(同9月17日条)。

三河浦は、三方郡常神半島の先端近い御賀尾浦(三方町神子)で、京都新日吉社領である三方郡倉見荘の飛地。「若狭三河浦住人時定」「若狭在庁時永」(同一人物か近親者)は、若狭の在庁官人の頂点にある稲庭権守時定本人もしくは若狭中原氏の一族。時定は有勢在庁の筆頭者、在国司で、若狭の浦を活動拠点とする。遠敷郡の内外海地域東端の多烏浦も、時定の命により大飯郡佐分利郷より在家を移築して浦として出発。久永御厨は長講堂領伯耆国汗入郡久永にあり、この紛争は山陰道~若狭経由~京都に運ばれる公納物に対し、時定が津料を課したことに関する紛争。後白河院は、御厨側の訴え通りの処理(津料は違法)との裁定を下す(院司として訴訟を管掌したのは中宮権大夫平時忠)。しかし、9月時永の反論が国守平敦盛を介して送られるが、御厨が長講堂領という天皇家領に属し、院が御厨側に立った裁決を下した以上、時定の勝利はない。権門勢家と在地勢力の対立が在地側の敗退で終わる。また、平氏は時定にとり頼みにならない存在。

9月1日

・十五夜にわたり、後白河法皇御所の法住寺殿において「今様合せ(いまようあわせ)」開催。藤原実定・成親・実国ら公卿30人、毎夜1番ずつを合わせ、雌雄を決す。判者は妙音院大納言藤原師長と源資賢。今様流行の頂点を示す出来事。

13日には今様合の終わった後に御遊があり、法皇が今様を謡う。

この芸能において能力を発揮したのが院北面や近習である。三条殿の院御所を造営した成親は平治の乱に藤原信頼と組んで危うく命を失いかけたが、その後は常に法皇の近くにあって今様の会に出席し、熊野詣の供をしていた。後白河が出家の暇を申しに熊野に詣でた際に供をしたという「成親、親信、業房、能盛」「康頼、親盛、資行」(『梁塵秘抄口伝集』)らの多くは院北面であり、法皇の近くに仕えるうちに権勢を握るようになったのである。なかでも北面の西光は信西の乳母子であって、信西の出家とともに遁世し、院の御倉預(みくらあずかり)となっていた。法皇を招いた浄妙寺堂の供養には公卿や殿上人、院北面が出席し、導師も法皇が帰依する公顕(こうけん)が院宣によって勤めている。

10月10日

・後白河法皇の皇子(9)、仁和寺に入室。

11月13日

・南都大衆が騒動。春日祭使の平維盛(17)と中宮使の少進重頼、病と称し途中で帰洛。神人殺傷事件の報復を恐れる。

維盛は京都・奈良間の交通の要所である丈六(じょうろく)堂(現、京都府城陽市大字奈島)までは行ったが、病と称し無断で引き返す。『玉葉』は、「平将軍(重盛)の郎従等と堂衆騒動のことあり」を理由に、興福寺大衆が蜂起し、それに恐れをなしての帰洛だという。

『顕広王記(あきひろおうき)』同月13日条裏書に、大衆たちが「近衛使を追ひ帰すべ」しと叫び、それは「長者殿(基房)のおんために無礼の人」だから、とある。春日社は藤原氏の氏社である。4年前に藤原氏の氏長者、摂政藤原基房が殿下乗合事件で恥辱に堪えた記憶もまだ生きていた。

12月1日

・平清経、正五位下・左近衛権少将となる。

12月24日

・源通能没


つづく


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