2022年6月30日木曜日

〈藤原定家の時代041〉治承3(1179)8月~10月 後白河、重盛の知行国越前を院分国とし側近俊盛・季能父子を知行国主・国守とする 関白基房の子師家(8)権中納言 「法皇の過怠」「関白の罪科」(『玉葉』)   

 



治承3(1179)

8月30日

・後白河法皇、「治承新制32ヶ条」発布。万物沽価法、物価統制法。

新制に基く市町への検非違使4番隊編成の出動巡回(「大夫尉義経畏中記」治承3年10月30日条)

9月

・右大臣九条兼実の歌合。源頼政、病で欠席。

10月

・平知盛、左兵衛督となる。平知盛・平経盛、比叡山追討使に任命。

・京都に強盗横行。

10月3日

・追討使平教盛(参議)・押領使平清貞(きよさだ、教盛の郎党)、延暦寺の堂衆を討ち、近江の寺領3ヶ荘を焼く。

「延暦寺堂衆近江国三ケ庄を追捕す。仍りて件の輩を追討すべきの由、 これを仰せ下さる。参議教盛卿、これをうけたまはり、官兵を遣はすの処、堂衆退散し、城廓を横川に構ふ。仍りて重ねて官軍を差し遣はす。」(「百錬抄」同日条)。

10月9日

・後白河法皇、平重盛家の知行国越前を院分国とし側近藤原俊盛・季能父子を知行国主・国守に据える。平通盛、越前守罷免。重盛は一門主流派と違い後白河との協調を志向していたが、その家が多年確保してきた知行国を押収することは、平氏に対する公然たる挑発、11月のクーデターの引き金の一つになる。

10月9日

・藤原定家の義兄中御門宗家、大納言に就任。定家・成家兄弟は拝賀の行列に騎馬で従う(「山槐集」)。

10月9日

・関白松殿基房の子師家(8)、藤原兼房・基通・隆忠・良通らを差置いて権中納言に昇進。基通を支えてきた清盛の面目は丸潰れ、院との対立尖鋭化

兼実(基実・基房の異母弟)は『玉葉』で、法皇や関白基房のこうした態度について「法皇の過怠」であり、「関白の罪科」であると批判。

「此の事の由来は、法皇、越前国を収公せられ、并びに白川殿の倉預を補せらる、已上両事は法皇の過怠と云々。三位中将師家、二位中将基通を超えて中納言に任ず、師家は年わずかに八歳、古今例なし、これ博陸の罪科なり。凡そこの法皇と博陸と同意し、国政を乱さるるの由、入道相国攀縁すと云々。然るの間、昨日夕、禅門数千騎の随兵を率いて入洛の後、天下鼓騒し、洛中遽動す」(「玉葉」11月15日条)。

10月18日

・藤原俊成を判者に「右大臣兼実家歌合」を開く。これ以降、兼実の和歌の熱は冷める。兼実は和歌を摂関への修業の道と捉え、子の良経にもこれを課す。

兼実は父忠通を範とし摂関となり、子の良経にもこれを求める。兼実は父忠通が娘(皇嘉門院)を崇徳の妃にしたのに倣い、娘を鳥羽の妃とする。王朝の政治と文化の相関関係を学び、これを子息・子女に実践させる。

10月19日

・山門堂衆が横川に城郭を構えたので、この日、知盛・経盛の派遣が決定。しかし、すぐには山門攻撃を行わず、25日には和平を堂衆に勧める。

10月25日

・藤原定家(18)、大納言藤原宗家の拝賀に参仕、前駆を勤める(「山愧記」)。


つづく

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