2022年8月21日日曜日

〈藤原定家の時代094〉治承4(1180)9月10日~14日 甲斐源氏武田信義挙兵(大田切城合戦) 頼朝(300余騎)、安房を発ち上総国府めざし北上。千葉介常胤、上総国府に参向し頼朝への忠誠を表明   

 


〈藤原定家の時代093〉治承4(1180)9月7日~9日 新田義重、平清盛に書状 北条時政、甲斐源氏へ派遣される 関東反逆に対し追討軍派遣を詮議 安達盛長、千葉より帰還し千葉常胤の協力を報告 より続く

治承4(1180)

9月10日

・甲斐源氏武田信義、挙兵(大田切城合戦)。

武田信義・一条忠頼等、頼朝に応じ挙兵、信濃に入り、伊那郡大田切城の菅冠者を攻める。菅冠者は城に火を放って自殺。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十日、己未。甲斐国の源氏、武田太郎信義・一条次郎忠頼以下は、石橋合戦のことを聞き、武衛を尋ねて駿河国に向かおうとした。しかし、平氏方が信濃国にあるという。そこで、まず信濃国に出陣した。昨夜は諏方上宮の庵沢付近を宿とした。・・・(諏方上宮の大祝篤光の)この夢のお告げに従い、すぐに出陣して平氏方である菅冠者の伊那郡大田切郷の城を襲撃した。冠者はこれを聞き、戦うことなく館に火を放ち、自害したので、各は根上河原に陣を敷き、評議して言った。「去夜、諏訪上官の祝に夢のお告げがあった。今にして思えば、菅冠者が滅亡したのは、諏訪明神の罰を蒙ったからであろう。だから、上下両社に田畠を寄進し、事態を頼朝に報告しよう」。誰も異議はなく、執筆する者を呼んで寄進状を書かせた。・・・その後、平家に志を寄せていると噂があった者たちを、多く追及し鎮めたという。」。

○忠頼(?~1184元暦元)。

武田信義の男。一条次郎を称す。

○武田信義(1128~86):

清和源氏。父は武田清光。治承4年9月、甲斐源氏一族を率い信濃に侵攻、平氏余党を討ち、ついで駿河国では平氏の目代橘頼茂と戦い、生虜にする。10月の富士川の戦いでは、平維盛軍を夜半に背後から奇襲し、平氏を敗走させる。翌養和元年3月、後白河院が信義に頼朝追討の下文を与えたとの報があり、頼朝は信義を鎌倉に召喚して真偽をただす。信義は陳謝し、忠誠の起請文を書く。元暦元年(1184)6月、子の忠頼が謀反の企てありとして誅せられる。翌文治元年正月、頼朝が九州にいる範頼に送った書状の中に、信義は「平家に付き、また木曽に付きて心ふぜんにつかひたりし人」とあり、その行動は頼朝から疑いの目でみられる(「吾妻鏡」元暦2年正月6日条)。文治2年(1186)3月9日、子の忠頼の反逆の件で頼朝から勘気を蒙り、これをはらせずに没(59)。

9月11日

・この日、上総権介平広常や足利忠綱以下の坂東の豪族が頼朝に与力し、大庭景親の方が劣勢であるとの情報が京都に届く。これは全くの誤報。『吾妻鏡』は、房総半島に退いた三浦氏、安西氏以下安房国を本領とした義朝の旧臣、以仁王事件の張本の一人と目された律静房日胤(にちいん)の父千葉常胤といった人々しか頼朝のもとに集まっていなかったと伝える。

実態は、広常は流人として預かっている娘婿平時家(平大納言時忠の子、後白河院政派の廷臣)を担いで頼朝を討つか、頼朝に合流するか判断に迷っていて、軍勢は集めたが動かずにいた。足利忠綱は平氏与党として軍勢を集め、木曽義仲の上州進攻に備えていた。

この誤報により、容易ならざる事態との判断から清盛の安芸詣は延引された。

9月13日

・木曽義仲が源頼朝に与したという誤報が福原に伝わる。

「筑前の守貞俊来たりて云く、東国追討使の中に罷り入り、来二十二日発向すべしと。信濃の国すでに與力しをはんぬと。夜に入り、基輔福原より還り、人々の報旨等を示す。」(「玉葉」同13日条)。

9月13日

・源頼朝300余騎、安房を発ち上総国府めざし北上。千葉介常胤、上総国府に参向。頼朝への忠誠を表明。千葉常胤6男胤頼(千葉六郎大夫。東氏の祖)と嫡孫成胤、国府(市川市国府台)の上総目代館を包囲、攻撃。国府周辺は完全に千葉氏の支配下となる。14日、千葉成胤、1千率い千葉庄に侵入、下総守藤原(千田)親政を生け捕り。

「安房の国を出て、上総の国に赴かしめ給う。所従の精兵三百余騎に及ぶ。而るに廣常軍士等を聚めるの間、猶遅参すと。今日、千葉の介常胤子息・親類を相具し、源家に参らんと欲す。爰に東の六郎大夫胤頼父に談りて云く、当国目代は平家の方人なり。吾等一族悉く境を出て源家に参らば、定めて凶害を挟むべし。先ずこれを誅すべきかと。常胤早く行き向かい追討すべきの旨下知を加う。仍って胤頼並びに甥小太郎成胤、郎従等を相具し、彼の所を競襲す。目代は元より有勢の者なり。数千許輩をして防戦せしむ。時に北風頻りに扇くの間、成胤僕従等を館の後に廻し放火せしむ。家屋焼亡す。目代火難を遁れんが為、すでに防戦を忘る。この間胤頼その首を獲る。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十三日、壬戌。安房国を出て、上総国に赴かれた。従う軍兵は三百余騎に及んだ。しかし広常は軍士を集めているため、しばらく遅れて参上するという。今日、千葉介常胤が子息・親類をともない、源家に参ろうとした。東六郎大夫胤頼が父に申すには、「当国の目代は平家方です。我々一族がすべて国を出て源家に参れば、必ず危害を加えてくるでしょう。まず目代を誅殺すべきです。」という。常胤は、すぐに目代のもとに行き追討せよと命じた。そこで、胤頬と甥の小太郎成胤は、郎従等を率いて競って目代を襲撃した。目代は、もともと勢力のあるものであり、数十人に命じて防戦させた。この時、北風が激しく吹いていたので、成胤は僕従等に目代の館の後から放火させた。家屋は焼失し、目代は火を逃れようとして防戦もままならず、この間に胤頼が目代の首を刎ねた。」。

「下総の国千田庄の領家判官代親政は、刑部郷忠盛朝臣の聟なり。平相国禅閤にその志を通ずるの間、目代誅せらるの由を聞き、軍兵を率い常胤を襲わんと欲す。これに依って常胤孫子小太郎成胤相戦う。遂に親政を生虜りをはんぬ。」(「吾妻鏡」同14日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十四日、癸亥。下総国千田庄(現、千葉県香取郡多古町千田付近)の領家である判官代(藤原)親政は、刑部卿(平)忠盛朝臣の聟である。平相国禅閤(清盛)に志を通わせていたので、目代が殺されたと聞き、軍兵を率いて常胤を襲撃しようとした。そこで、常胤の孫である小太郎成胤が戦い、とうとう親政を生け捕りにした」。

○成胤(1155久寿2~1218建保6)。

千葉胤正の男。常胤の嫡孫。千葉小太郎を称す。

○親政。

藤原親盛の男。平忠盛の婿、下総国千田庄に本拠を置く。千田判官代と称す。成胤に生け捕られた後の動静は不明。○忠盛(1096永長元~1153仁平3)。平正盛の1男。父正盛に続き白河院・鳥羽院の信任を受けて昇進、美作・尾張・播磨・備前などの守を経て正四位上・刑部卿。西国に勢力を拡大し、日宋貿易にも関与して富を蓄積。


つづく


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