2022年8月22日月曜日

〈藤原定家の時代095〉治承4(1180)9月15日~19日 「九月十五日。甲子。夜ニ入リ、明月蒼然。、、、天中光ル物アリ。其ノ勢、鞠ノ程カ。其ノ色燃火ノ如シ。忽然トシテ躍ルガ如ク、坤ヨリ艮ニ赴クニ似タリ。須臾ニシテ破裂シ、炉火ヲ打チ破ルガ如シ。火空中ニ散ジ了ソヌ。若シクハ是レ大流星カ。驚奇ス。」(「明月記」) 上総介広常が頼朝軍に合流       

 


〈藤原定家の時代094〉治承4(1180)9月10日~14日 甲斐源氏武田信義挙兵(大田切城合戦) 頼朝(300余騎)、安房を発ち上総国府めざし北上。千葉介常胤、上総国府に参向し頼朝への忠誠を表明 より続く

治承4(1180)

9月15日

・北条時政、武田信義のもと(逸見山)に頼朝使者として援軍派遣要請のため到着。

「武田の太郎信義・一條の次郎忠頼已下、信乃の国中の凶徒を討ち得て、去る夜甲斐の国に帰り逸見山に宿す。而るに今日北條殿その所に到着し給う。仰せの趣を各々等に示さると。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十五日、甲子。武田太郎信義・一条次郎忠頼以下は、信濃国中の凶悪な者たちを討つことができ、昨夜甲斐国に帰り、逸見山に宿をとった。そして今日、北条殿がそこに到着された。命じられた趣旨を信義・忠頼等に伝えたという。」。

9月15日

・この日の定家(19)「明月記」。月光蒼然、青侍等を連れて、六条院の辺りに遊歩、大流星か、新星爆発かと想われる天象をまざまざと見る。

「九月十五日。甲子。夜ニ入リ、明月蒼然。故郷寂トシテ車馬ノ声ヲ聞カズ。歩ミ縦容トシテ六条院ノ辺リニ遊ブ。夜漸ク半バナラントス。天中光ル物アリ。其ノ勢、鞠ノ程カ。其ノ色燃火ノ如シ。忽然トシテ躍ルガ如ク、坤ヨリ艮ニ赴クニ似タリ。須臾ニシテ破裂シ、炉火ヲ打チ破ルガ如シ。火空中ニ散ジ了ソヌ。若シクハ是レ大流星カ。驚奇ス。大夫忠信・青侍等卜相共ニ之ヲ見ル。」(「明月記」)。

この頃、大流星や星と星とが重なって異常な光りを発する事件が起きる。

「月、鎮星(土星)ト度ヲ同クス」(玉葉)、「太白(金星)、哭星ヲ犯ス」(「同」)、「大小星相聞フ」(「山愧記」)。

9月16日

・宋船、摂津大輪田泊に入港。

9月17日

・頼朝、上総介広常の参入を待たず下総に向かう。千葉常胤300余騎に迎えられ、国府に入る。常胤、平氏方判官代藤原親政を引き立てる。頼朝600余となる。

「廣常の参入を待たず、下総の国に向わしめ給う。千葉の介常胤、子息太郎胤正・次郎師常(相馬と号す)・三郎胤成(武石)・四郎胤信(大須賀)・五郎胤道(国分)・六郎大夫胤頼(東)・嫡孫小太郎成胤等を相具し、下総の国府に参会す。従軍三百余騎に及ぶなり。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十七日、丙寅。広常が参るのを待たず、下総国に向かわれた。千葉介常胤は、子息太郎胤正・次郎師常〔相馬と号した〕・三郎胤成〔武石〕・四郎胤信〔大須賀〕・五郎胤道〔国分〕・六郎大夫胤頼〔東)、嫡孫小太郎成胤等をともない、下総の国府に参り合流した。従う軍勢は三百余騎に及んだ。常胤は、まず捕虜となった千田判官代親政をお目にかけた。その後、食事を差し上げた。武衛は、常胤を座右に招き、「これからは司馬(常胤)を父のように遇したい。」と仰ったという。常胤は一人の若者をともない、御前に進めて言うには、「この者を用いて下さい。本日の贈物です。」といった。これは、陸奥六郎(源)義隆の息子で、毛利冠者頼隆である。紺の村濃の鎧直垂を着て、小貝足を身に着け、常胤の横に控えていた。その様子を御覧になると、まことに源氏の血筋のものである。そこで、これに感じ入り、すぐに常胤の上の座に招いた。父の義隆は、去る平治元年十二月、比叡山の竜華越で故左典厩(義朝)のために戦って命を落とした。この時、頼隆は産まれてからわずかに五十余目のことであったが、その後、義朝の縁坐に処せられ、永暦元年二月、常胤に命じて下総国に流さていたという。」。

○師常(1139保延5~1205元久2)。

千葉常胤2男。母は秩父重弘の娘。相馬御厨を名字の地とし、相馬次郎を称す。

○胤成。

常胤3男。武石三郎を称す。

○義隆(?~1159平治元)。

源義家の男。陸奥六郎・毛利冠者と称す。平治の乱で討死。

○頼隆。

毛利義隆の男。胤信。常胤4男。千葉四郎・大須賀四郎を称す。

○胤道。

常胤5男。千葉五郎・国分五郎を称す。

下総藤原氏と千葉常胤の所領を巡る諍いは、親政の祖父藤原親通が常胤の父常重から相馬郡などを強奪した保延2(1136)年7月以来のもの。常胤は45年間の戦いに勝利。

9月18日

・平維盛・忠度ら、頼朝追討の為福原出発(「富士川ふじがわ」(平家物語」巻5)。

但し、史実は、22日福原発、2日六波羅着、29日六波羅進発。

9月19日

・隅田川辺で上総介広常、上総周西・周東・伊北・伊南・庁南・庁北郡の武士団2万余騎を引連れ参陣。頼朝、遅参を咎める。この頼朝の態度で、広常は頼朝方につく事に決めたとも言われる(「吾妻鏡」)。頼朝2万7千余。

「上総権の介廣常、当国周東・周西・伊南・伊北・廰南・廰北の輩等を催し具し、二万騎を率い、隅田河の辺に参上す。武衛頗る彼の遅参を瞋り、敢えて以て許容の気無し。廣常潛かに思えらく、・・・仍って内に二図の存念を挿むと雖も、外に帰伏の儀を備えて参る。然ればこの数万の合力を得て、感悦せらるべきかの由、思い儲くの処、遅参を咎めらるの気色有り。これ殆ど人主の躰に叶うなり。これに依って忽ち害心を変じ、和順を奉ると。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十九日、戊辰。上総権介広常は、上総国の周東・周西・伊南・伊北・庁南・庁北の者たちを率いて軍勢二万騎で隅田河の辺りに参上した。武衛は、広常の遅参に非常に腹を立て、全く許す様子が無かった。広常が密かに思うには、現在では日本国中すべて平相国禅閤の支配下にある。ここに頼朝は、さしたる用意もなく、流人の身で義兵を挙げられたので、その形勢に高みに上る相がなければ、すぐに頼朝を討ち取り平家に差し出そうということで、内心では離反の思いを抱きながら、外面は帰伏したように参上したのである。そこで、この数万の合力を得て、さぞや喜ばれるであろうと思っていたところが、遅参を告められた。まったく人の主となるに相応しい様子をみて、(広常は)たちまち殺害しようとしていた心を改め、進んで従ったという。陸奥の鎮守府前将軍従五位下平朝臣良将の息子将門が東国を不当に占領して叛逆を企てた昔、藤原秀郷が偽ってお味方いたしますと言って将門の陣に入ったところ、将門はうれしさのあまり櫛で椀かしていた髪を結うことなくすぐに烏帽子に入れて秀郷と対面した。秀郷は将門の軽々しい様子をみて、討伐しようと決意して退出し、その考えの通りに将門の首を得たという。」。

「平家物語」の異本の一つとされる「源平闘諍録」では、千葉氏・上総氏の動向が詳しく記され、広常・常胤が競うように参陣を申し出たとあり、「吾妻鏡」とは異なる。

○上総介広常(?~1183):

父は平(千柴)常澄。桓武平氏の一支流で平忠常の子孫。上総国の在庁官人として代々上総介を称し、房総地域の平氏の族長で一族を統率。保元・平治の乱では源義朝に属すが、義朝敗北後は平氏に従う。しかし、上総が平氏の有力家人藤原忠清の知行となり京の平氏と対立。頼朝挙兵後、上総の武士団2万騎を率い参降。10月、富士川の戦で勝利した頼朝の西上を諌止し、常陸佐竹氏征伐を主張、11月、勝利に導く。戦後、常陸にも勢力を拡大するが、その巨大な勢力故に頼朝から警戒される。寿永2年(1183)末頃、頼朝に下馬の礼をとらなかったことから謀反を疑われ、嫡子能(良)常と共に誅殺。しかし、翌年正月、広常が上総国一宮に頼朝の武運を祈る願文と甲を奉納していたことがわかり、嫌疑が晴れ、一族は赦される(「吾妻鏡」寿永3年正月17日条)。


つづく

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