2022年8月29日月曜日

〈藤原定家の時代102〉治承4(1180)年10月20日~21日 「新都の作事、竹柱の外一切候うべからず」(「玉葉」) 頼朝と甲斐源氏が合流 義経の参陣 源氏勢力についての小さな纏め   

 


〈藤原定家の時代101〉治承4(1180)年10月18日~20日 頼朝・武田信義合流 富士川の合戦(水鳥の羽音に驚いて追討軍は潰走したと言われているが、、、)の実相 より続く

治承4(1180)年

10月20日

・福原(離宮)造営は遅々として進まず。「新都の作事、竹柱の外一切候うべからず」(「玉葉」10月20日条)。

10月20日

・頼朝、駿河国賀鳥(がしま、富士市)で甲斐源氏と合流、甲斐源氏が駿河・遠江両国を実効支配とすることを承認し、坂東へと引き返す。両者の関係は、平氏に対して協力して戦うことを目的とした同盟とみるのが適切である。この後、甲斐源氏の安田義定は遠江国に軍勢を進め、勢力圏に収める。

10月21日

・甲斐源氏安田義定は遠江守護に、同じく武田信義は駿河守護に任じられる。甲斐源氏と頼朝との関係は、この時点では同盟に近い。

頼朝、上洛回避(関東経略・源氏の正統を問う戦いを優先、義仲の上洛戦略とは異なる)。頼朝は追撃指示するが、千葉介常胤・三浦義澄・上総権介広常らが反対。常陸佐竹氏(新羅三郎義光を祖とする佐竹秀義)・常陸源氏(大掾氏・多気氏・吉田氏)追討優先とする。兵衛尉義廉などが頼朝から去り源義仲へ合流。他に、頼朝の叔父志田三郎義広、上野の新田義重(寺尾城)も去就定かでない。

「小松羽林を追い攻めんが為、上洛すべきの由を士卒等に命ぜらる。而るに常胤・義澄・廣常等諫め申して云く、常陸の国佐竹の太郎義政並びに同冠者秀義等、数百の軍兵を相率いながら、未だ武衛に帰伏せず。就中、秀義が父四郎隆義、当時平家に従い在京す。その外驕者猶境内に多し。然れば先ず東夷を平らぐの後、関西に至るべしと。これに依って宿を黄瀬河に遷せしめ給う。安田の三郎義定を以て、遠江の国を守護せんが為差し遣わさる。武田の太郎信義を以て駿河の国に置かるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「二十一日、庚子。小松羽林(惟盛)を追いかけて攻めるため、(頼朝は)兵士たちに上洛するように命じられた。しかし(千葉)常胤・(三浦)義澄・(上総)広常たちが諌めて申した。「常陸国の佐竹太郎義政と同冠者秀義等が、数百の軍兵を率いて、いまだに服従しておりません。とくに秀義の父である(佐竹)四郎隆義は、平家に従って在京しております。その他にも(自らの武勇に)驕る者が東国にまだ多くおります。そうでありますので、まず東国を平定してから、西国に到るべきです」。(頼朝は)この諌めに従い黄瀬河に戻って宿とし、安田三郎義定を守護として遠江国に遣わされ、武田太郎信義を駿河国に置かれた。」。

○義政(?~治承4)。

佐竹隆義の長子か。

○秀義(1151仁平元~1225嘉禄元)。

佐竹隆義の子。母は藤原能通の娘。四郎。頼朝の討伐を受けるが、後に許されて御家人に列す。

○隆義(1118元永元~1183寿永2)。

父は新羅三郎義光の孫にあたる昌義、母は藤原清衡の娘。太田四郎。北常陸に強力な勢力を築く。

[反平氏の3つの源氏勢力]。

東国に土着した源氏の庶流としては、義家の弟義光に系譜をひくものと、義家3子の義国に系譜をひくものがある。義光系では甲斐の武田氏や信濃の小笠原氏、常陸の佐竹氏などがある。義国系には上野の新田氏、下野の足利氏がある。これらは、いずれも在地の豪族との婚姻関係でその地盤を形成。富士川合戦以後、東国での源氏勢力の統合が進むが、北関東の情勢は複雑、常陸には新羅三郎義光を祖とする佐竹秀義や頼朝の叔父志田三郎義広がおり、独自の動きがある。上野の新田義重また、自立の志をもって寺尾城に籠る。かれらは源氏一族ながら去就定かではない。この点では、安田義定・武田信義を中心とする甲斐源氏も同様。東海道の駿河・遠江方面の要として、甲斐源氏への期待は大きく、平家東征軍迎撃の勝敗は、かれらの動向にかかっている。頼朝は、9月20日、甲斐源氏との共同作戦の為の使者を派遣。表面上、頼朝の軍門に入ったとはいえ、その関係は同盟に近い。富士川合戦後、駿河・遠江両国を守護させる為に武田・安田を派遣するが、これは当時の力関係において頼朝が甲斐源氏を是認せざるを得なかった状況を示す。以仁王の令旨は諸国の源氏にもたらされるが、なかでも木曽義仲は、この甲斐源氏勢力同様に大きい。

治承4年10月段階では、反平氏の旗色を鮮明にした勢力は、

①相模・伊豆方面の頼朝傘下の勢力、

②信濃の義仲を中心とした勢力、

③これらに呼応する形で応じた甲斐の源氏の3勢力がある。


[頼朝と義仲]。

血脈の正統性では、頼朝が優位ではあるが、絶対的なものではない。頼朝は、平家との対決を目前にして、自己の正統性を問う戦いの内にある。義仲とは、年齢は7~8歳の隔りしかなく、挙兵時期もほぼ同じで、父の時代からの因縁もある。義仲の父義賢はかつて上野国多胡郡に住し、武蔵方面進出を狙う義朝と対立。義賢の妻の父は桓武平氏秩父氏流の重隆であり、これと結び勢力拡大を狙う。義朝は両総・相模を基盤として、北関東を射程にする。久寿2(1155)年、義朝の長氏義平と義賢は戦い、義賢・重隆は敗北。義仲は乳母の夫中原兼遠のもとで成人し、この時期(10月半ば)、信濃一帯を押え、義賢ゆかりの上野に進出。

義仲は上洛という方向で自己をアピールし、頼朝は上洛を回避し関東経略に向う。上総・千葉・三浦など有力諸氏の総意により上洛を回避するが、叛乱を内乱に転換する為には関東における頼朝への反対者を屈服させる事は必須と考えられる。

[東国武士団内部問題]。

相馬御厨(現.取手市を含む相馬郡と手賀沼以北の安孫子市全域)となる地域は千葉氏(平良文を祖とする坂東平氏の一流)の常重(常胤の父)の代になり、幼少のため一時上総氏系の常時に譲られる。その後、常重が常時の養子となり相馬郡を譲られ、大治5年(1130)同郡布施郷を皇太神宮に寄進し相馬御厨が誕生。常重は御厨の下司職を確保し、保元元年(1135)他の諸権利を子の常胤に譲る。翌年、国守藤原親通が御厨の税滞納を理由に常重を捕縛、御厨を国司私領とする。この時、義朝と、常重の従兄弟の常澄がこの御厨領有問題に介入。その後の経過は不明だが、保元の乱では千葉氏・上総氏共に義朝に参じている。しかし、平治の乱で義朝が没落、相馬御厨は没官領となり、新たに常陸から源義宗(父昌義は佐竹氏の祖)が介入しこれを帰属させる。千葉常胤の佐竹攻略の進言の裏には常胤の相馬御厨回復の問題が含まれる。加えて、甲斐源氏と佐竹との連携の分断、頼朝勢力の結束力強化。

10月21日

・義経(22)、85騎率い駿河黄瀬川(沼津市)の頼朝陣に参陣、対面。

秀衡は義経を出すのを渋るが、義経が振りきって出奔すると、伊勢三郎義盛・佐藤継信・忠信兄弟らの勇士をつける。頼朝に影響を及ぼす意図もあり、頼朝は義兄の到来を心強く感じるとともに、背後に奥州藤原氏があるために複雑な心境であったと考えられる。

「今日、弱冠一人御旅館の砌に佇む。鎌倉殿に謁し奉るべきの由を称す。實平・宗遠・義實等これを怪しみ、執啓すること能わず。刻を移すの処、武衛自らこの事を聞かしめ給う。年齢の程を思わば、奥州の九郎か。早く御対面有るべし。てえれば、實平に仰せ彼の人を請ず。果たして義経主なり。即ち御前に参進す。互いに往事を談り、懐旧の涙を催す。就中、白河院の御宇永保三年九月、曽祖陸奥の守源朝臣義家奥州に於いて、将軍三郎武衡・同四郎家衡等と合戦を遂ぐ。時に左兵衛の尉義光京都に候す。この事を伝え聞き、朝廷警衛の当官を辞し、弦袋を殿上に解き置き、潛かに奥州に下向す。兄の軍陣に加わるの後、忽ち敵を亡されをはんぬ。今の来臨尤も彼の佳例に協うの由、感じ仰せらると。この主は去ぬる平治二年正月、襁褓の内において父の喪に逢ふの後、継父一条大蔵卿長成の扶持によつて、出家のために鞍馬に登山す。成人の時に至りて、しきりに会稽の思ひを催し、手づから首服を加へ、秀衡の猛勢を恃みて奥州に下向し、多年を経るなり、しかるに今武衞宿望を遂げらるるの由を伝へ聞きて、進發せんと欲すのところ、秀衡強(あなが)ちに抑留するの間、密々にかの館を遁れ出でて首途(かどで)す。秀衡悋惜(りんしゃく)の術を失ひ、追つて継信・忠信兄弟の勇士を付け奉ると。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「今日、若者が一人、御宿所の辺りにたたずんでいた。鎌倉殿(頼朝)にお会いしたいという。(土肥)実平・(土屋)宗遠・(岡崎)義実たちはこの若者を怪しみ、取り次ぎせずにそのまま時が移っていたところ、武衛(頼朝)自らがこの事をお聞きになり、「年齢を考えるに、奥州の九郎(源討経)ではないか、早く対面しよう。」といった。そこで実平が取り次ぐと、果たしてその人は義経主であった。すぐに御前に進み、互いに昔を語り合い、懐かしさに涙を流した。白河天皇の御代の永保三年九月、曽祖父の陸奥守源朝臣義家が奥州で将軍(清原)三郎武衡・同(清原)四郎家衡らと合戦を交えた(後三年の役)時に、左兵衛尉(源)義光は京都で仕えていたものの、この事を伝え聞き、当時ついていた朝廷警護の官職を辞し弦袋を解いて殿上に置き、密かに奥州に下向して、兄の軍陣に加わり、たちまちのうちに敵を打ち破ってしまった。今回やってきたのはその吉例に叶うものであると、(頼朝は)感激されて仰ったという。義経は、去る平治二年正月には襁褓の内にいた。父の死にあってからは継父の一条大蔵卿長成に保護され、出家するために鞍馬山に登った。成人する年となってから、しきりに仇討ちの思いを抱くようになり、手ずから元服し、(藤原)秀衡の強大な勢力を恃み、奥州に下向してから今まで、多くの歳月が流れた。しかし今回頼朝が宿望を遂げられようとするのを聞き、出発しようとしたところ、秀衡が強く留めたので、密かに秀衡の館を抜け出してきた。秀衡は引き留める術を失い、追って義経に(佐藤)継信・(佐藤)忠信の兄弟の勇士を付けてきたという。・・・」。

○長成。

父は参議忠能、母は大蔵卿長忠の娘。正四位下大蔵卿。義経の生母常盤を妻とし、従三位能成をもうける。

○継信・忠信の兄弟。

陸奥国信夫郡の豪族、佐藤元治の子という。義経に従って各地を転戦。継信は屋島で戦死。義経が頼朝と不和になった後、忠信は京都で糟屋有季に討たれる。

○佐藤忠信(?~1186):

佐藤庄司元治の4男。四郎兵衛尉と称す。藤原秀衡の郎従であったが、義経が頼朝のもとに参陣した際、秀衡の指示で兄継信と共に義経に従う。以後、義経のもとで戦功をあげ、兵衛尉に任じられる。頼朝は、秀衡の郎従が衛府に任じられるのはかつてないことであると、「是ハ猫ニヲツル」と非難(「吾妻鏡」文治元年4月15日条)。文治元年(1185)、義経と共に京から西国に下るが、京に引き戻し、同2年9月22日、中御門東洞院で糟屋藤太有季に襲撃され自害。忠信が通じていた女の密告により、その所在が知られたという。

・頼朝、由比浜の八幡宮を小林郷北山に移す(鶴岡八幡宮)

10月21日

・延暦寺、還都しないならば山城・近江を押領すると脅迫。大衆(座主明雲他)と堂衆(下層)対立激化。


つづく



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