2022年8月30日火曜日

〈藤原定家の時代103〉治承4(1180)年10月23日~11月2日 頼朝、相模国府にて勲功行賞 大庭景親斬首 頼朝、佐竹討伐に出発 「今日、小松少将惟盛朝臣以下平将、功無く入洛すと。」(「吾妻鏡」)

 


〈藤原定家の時代102〉治承4(1180)年10月20日~21日 「新都の作事、竹柱の外一切候うべからず」(「玉葉」) 頼朝と甲斐源氏が合流 義経の参陣 源氏勢力についての小さな纏め より続く

治承4(1180)年

10月23日

・頼朝、相模国府にて勲功行賞。安達盛長、北条時政・義時父子ら頼朝より恩賞を戴く。下河辺行平は下河辺荘司に、三浦義澄は三浦介に任じられる。

「相模の国府に着き給う。始めて勲功の賞を行わる。北條殿及び信義・義定・常胤・義澄・廣常・義盛・實平・盛長・宗遠・義實・親光・定綱・経高・盛綱・高綱・景光・遠景・景義・祐茂・行房・景員入道・實政・家秀・家義以下、或いは本領を安堵し、或いは新恩に浴せしむ。また義澄は三浦の介に為す。行平は元の如く下河邊庄司たるべきの由仰せらると。大庭の三郎景親遂に以て降人としてこの所に参る。即ち上総権の介廣常に召し預けらる。長尾の新五郎為家は岡崎の四郎義實に召し預く。同新六定景は義澄に召し預けらる。河村の三郎義秀は河村郷を収公せられ、景義に預けらる。また瀧口の三郎経俊は山内庄を召し放ち、實平に召し預けらる。この外石橋合戦の余党、数輩有りと雖も。刑法に及ぶの者僅かに十に一つかと。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。「二十三日、壬寅。相模の国府にお着きになり、初めて勲功に対する恩賞を行われた。北条殿(時政)・(武田)信義・(安田)義定・(千葉)常胤・(三浦)義澄・(上総)広常・(和田)義盛・(土肥)実平・(安達)盛長・(土屋)宗遠・(岡崎)義実・(狩野)親光・(佐々木)定綱・(佐々木)経高・(佐々木)盛綱・(佐々木)高綱・(工藤)景光・(天野)遠景・(大庭)景義・(工藤)祐茂・(市河)行房・(加藤)景員入道・(宇佐美)実政・(大見)家秀・(飯田)家義以下の者は、本領を安堵されたり、新恩を給与されたりした。また(三浦)義澄は三浦介に、(下河辺)行平は元の通り下河辺庄司となるように命じられたという。大庭三郎景親はついに捕われの人となり相模の国府にやってきた。そこで、上総権介広常をお呼びになり、身柄をお預けになった。長尾新五為宗は岡崎四郎義美に、同新六郎定景は義澄にそれぞれお預けになった。河村三郎義秀は、河村郷を収公され、景義に預けられた。また滝口三郎(山内首藤)経俊は山内圧を取り上げられ、実平に預けられた。このほかに石橋合戦に関係する残党が数人いたが、処刑されたのは、わずかに十分の一程度であったという。」。

○三浦介:

三浦を名字の地とする相模国の在庁官人。三浦半島で繁栄した三浦一族の惣領をさす語。

○下河辺庄司:

下河辺庄は下総国葛飾郡の南北方向に長い広大な庄園。開発領主である藤原秀郷流下河辺氏が源頼政を通じて鳥羽天皇もしくは美福門院に寄進して成立。下河辺氏は同庄園の現地責任者である庄司に任じる。

10月24日

・平家の侍大将上総介忠清、時期を失して畠山・大庭一族を味方にし得ざりしことを悔む(「平家物語」)。

10月26日

・大庭景親、片瀬川で斬首。弟(俣野)五郎景久は密かに上洛。

10月27日

・頼朝、佐竹義政討伐に鎌倉を出発。佐竹氏は常陸に独立した勢力をもつ源氏一族、当時「権威、境外に及び郎従、国中に満つ」と云われる強勢を誇る。

八幡太郎義家の子孫である頼朝は、佐竹氏とは清和源氏の同族。同じ義光流の同族の甲斐武田氏は源頼朝の挙兵に従い頼朝麾下に入るが、佐竹氏を継ぐ昌義4男隆義は、平清盛への恩顧や常陸平氏との親交から、頼朝と敵対。

10月27日

・藤原定家(19)、高倉院の七瀬御祓(ななせのみはらい)の使を勤める。

「十月廿七日。天晴ル。閑院殿ニ参ズ。七瀬ノ御祓。蔵人兼業奉行ス。下官兄弟・盛実等三人、参ジ勤ム。遷都ノ後幾バクモアラザルニ蔓草庭ニ満チ、立蔀(たてじとみ)多ク顛倒シ、古木黄葉(もみち)薾索(しようさく)ノ色アリ。傷心、箕子(きし)ノ殷墟ヲ過グルガ如シ。昏黒、土御門末法成寺ノ辺リニ向フ。弥々以テ冷然。」(「明月記」)。

箕子;殷の紂の庶兄。紂の暴虐をいさめて囚禁された

10月29日

・「伝聞、坂東逆賊の党類、余勢数万に及ぶ。追討使オウ弱極まり無しと。誠に我が朝滅尽の期なり。悲しむべし。」(「玉葉」同日条)。


11月

・平盛国、富士川から敗走した侍大将藤原忠清の責任問題の評定で忠清を弁護し助命。

・下旬、北陸道に連動して三井寺衆徒・新羅源氏(源頼義3男義光を祖とする源氏)などが近江を制圧(山本義経・柏木義兼兄弟らの近江源氏が挙兵し園城寺に参軍、延暦寺の一部の堂衆も加わる)、琵琶湖東西の船を東岸に着け、北陸道からの運上物を差し押さえる。

国衙領・荘園を基礎とする社会体制は、「京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼める」から、「絶えて上るものなければ」、飢えと欠乏に繋がる(「方丈記」)。また、「若狭国経盛卿、吏務を掌るの有勢の在庁(稲庭権守時定のこと)、近州に与力す」(「玉葉」11月28日条)との報も入る。

太良保公文の丹生出羽房雲厳も稲庭時定に従い反平氏に付く(後、幕府後家人となる)。近江の反平氏勢力の蜂起は平知盛らが鎮圧。

・肥後の豪族ら600余、反乱(1180~82年)。

肥後の菊池隆直(弟赤星経俊、子永野隆長・菊池隆定・砥川秀直・合志直方・八代隆俊)・木原次郎盛実法師・南郷大宮司惟安・相具惟能・大野六郎家基・高田次郎隆澄・山崎六郎・山崎次郎・野中次郎・太郎資安ら。

11月2日

「今日、小松少将惟盛朝臣以下平将、功無く入洛すと。」(「吾妻鏡」同日条)。追討使の敗退が古京に伝わり動揺広がる。

(*『玉葉』は維盛帰京は11月7日とする。)

「いよいよ官軍弱きの由を見て、各々逐電す。残る所纔に京下の輩なり。世以て遂帰の由を称す。古今追討使を遣わすの時、未だこの例を聞かず。尤も悲しむべき事なり。」(「吉記」同日条)。

この頃、延暦寺の衆徒は遷都を止めるよう奏上。もし遷都を止めないのならば、山城・近江を占領すると告げる。

11月2日

・未刻(午後2時頃)、平清盛、厳島参詣から福原に帰京。


つづく



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