2023年11月5日日曜日

〈100年前の世界115〉大正12(1923)年9月4日 火曜日 夜 熊谷(埼玉県熊谷市) 「万歳」の声とともに(『9月、東京の路上で』より) 「熊谷と同じ4日に起こった本庄市(100人前後殺害)や神保原村(現・上里町、42人殺害)の事件をはじめ埼玉県内で殺された朝鮮人は、山岸のまとめによれば200人を超える。」   

 

埼玉県上里町の安盛寺にある朝鮮人犠牲者の慰霊碑の前で焼香する人たち

=2023年9月1日、埼玉県上里町、佐藤純撮影

〈100年前の世界114〉大正12(1923)年9月4日 亀戸事件(6) 『9月、東京の路上で』 『関東大震災朝鮮人虐殺の記録: 東京地区別1100の証言』より より続く

大正12(1923)年

『9月、東京の路上で』より

9月4日 火曜日 夜 熊谷(埼玉県熊谷市)

「万歳」の声とともに

(埼玉県熊谷市の中心部にある熊谷(ゆうこく)寺の、1923年9月4日夜の光景)

熊谷寺では、生から死まで見ました。寺の庭では、1人の朝鮮人を日本人がぐるって取りまいたグループが、5つほど出来ました。そして殺すたびに「わあ、わあ」「万才、万才」と喚声があがるのです。

柴山好之助(熊谷住民)


埼玉県でも東京から流入する避難民を通じて朝鮮人暴動の流言は広まっていった。

「東京では、今朝鮮人と日本の軍隊が戦って、日本の軍隊がだいぶ殺されちやって、朝鮮人は優勢ですよ」といった荒唐無稽な言葉も、着の身着のままの避難民から発せられれば、切迫した信憑性を帯びた。

また、2日には、埼玉県は不逞鮮人に備えよとの通牒を発し、各地には自警団が結成された。

同時に、県は、県内に避難してくる朝鮮人を川口で検束し、蕨に移送。その後、さらに北への護送を各町村の自警団にゆだねた。各町村の自警団が少数の警官とともに駅伝式に隣町まで護送するというもの。目的地は群馬県の高崎連隊だったと見られる。

残暑の下、家族連れも含む朝鮮人たちは、延々と歩かされ、途中、逃亡した者が合わせて10数人、殺害された。

蕨・大宮・桶川と歩き続け、4日夕方、蕨から50kmを30時間かけて熊谷に到着。

この時、熊谷町の自警団は東京の仇を討とうと殺気立った烏合の衆と化していた。

群衆は、引き継ぎ場所である砂利置場付近に現れた朝鮮人の群れにどっと殺到、20人以上がここで殺害された

熊谷市在住の研究者、山岸秀はこの時の状況を「中心部入り口における殺戮に加わった民衆は、その昂奮をそのまま市街地へ持ち込んだ。彼らは血がついた刀、竹槍、棍棒を持って逃げた朝鮮人を探し、みつけ出しては殺す。」と描写する(山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』)。

逃げずに縄で縛られ、おとなしく連行されていく者も容赦まく暴行を受けた。

「その時私は、眼の前で、日本刀を持って来た人が、『よせ、よせ』というのをふりきって、日本刀で朝鮮人を斬ったのを見ました。家にあった日本刀を持ち出し、こんま時に斬ってみなければ切れ味がわからないといって、斬ったのだそうです」(住民の証言)

彼らが最終的にたどり着いたのが深夜の熊谷寺の境内だった。ここで残りのほとんどの朝鮮人が「万才、万才」の声のなか、殺害された。

山岸は、このとき殺害された朝鮮人の数を、40~80人ほどと見ている。「殺された人数すらはっきりとわかっていないのだから、名前、年齢、性別、職業、山身地などは何も残されていない」。

熊谷と同じ4日に起こった本庄市(100人前後殺害)神保原村(現・上里町、42人殺害)の事件をはじめ埼玉県内で殺された朝鮮人は、山岸のまとめによれば200人を超える。

それらを裁く公判は11月には判決を迎えたが、最長の懲役4年の1人と、2~3年の懲役が20人、執行猶予が95人と無罪が2人という結果だった。証人として出廷した本庄署の巡査は「検事は虐殺の様子などに触れることは努めて避けていたようで、最初から最後まで事件に立ち合っていた私に、何ひとつ聞こうとはしなかった」と述懐している。

〈『9月、東京の路上で』引用おわり〉


この日(4日)午後4時、第1師団司令部は朝鮮人の習志野移送を決定、同日午後10時に具体的を命令が下された。内容は、かつて戦時捕虜を収容していた習志野収容所などに朝鮮人を収容すること、各隊はその警備地域の朝鮮人を「適時収集」して移送すること、というもの。

自警団による虐殺をこれ以上拡大させないために朝鮮人を習志野に集中隔離しようとした。

実際には、朝鮮人だけでなく、中国人も習志野に送られ、9月17日の収容最大人数が朝鮮人3000人以上、中国人約1700人。


〈『9月、東京の路上で』引用おわり〉


*本庄市、神保原村の事件は後出します。


つづく





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