2023年11月14日火曜日

〈100年前の世界124〉大正12(1923)年9月4日 「元本庄署巡査の語る事件の全ぼう」(『かくされていた歴史-関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』) 「裁判もいいかげんだった。殺人罪でなくて騒擾罪ということだった。刑を受けたのは何人もいたが、ほとんど執行猶予で、つとめたのは三、四人だったと思う。私も証人として呼ばれだが、検事は虐殺の様子などつとめてさけでいたようで、最初から最後まで事件に立合っていた私に何も聞かなかった。」   

 


〈100年前の世界123〉大正12(1923)年9月4日 【埼玉県本庄警察署の事件】(藤野裕子『民衆暴力』より) 「署内の虐殺について、当時の巡査は、「その残酷さは見るに耐えなかった」と回顧している。署内にいた朝鮮人の子どもたちは並べられて、親の見る前で首をはねられた。その後、親も「はりつけにしていた」という。この巡査以外にもその場にいた複数の人が、生きている人間の腕をのこぎり・鉈(なた)で切っていたと証言している。「朝鮮人暴動」のデマを信じてしまったからというだけでは片付けられない残虐さが、ここにある。」 より続く

大正12(1923)年

9月4日

元本庄署巡査の語る事件の全ぼう     新井賢次郎

本庄署〔埼玉県本庄市〕では前夜(三日夜)から保護していた朝鮮人が四三名いたが、電話で、デマにおびえた人達から出動要請があって警官は出はらっていた。私が、警察に残って外からの電話に出ている時、警察がからっほであることを見ていった奴がいたのだ。

[略]本庄署へ引きかえしてきた三台のトラックは、朝鮮人を満載していた。私もそのトラックに乗っていたが、集まってきた群衆のなかに青木紋九郎というギュウタロウがいた。その紋九郎が、「あいつは、朝鮮人の偽巡査だ。あいつからやっちまえ」と煽動した。それが合図となって、一斉に群集が襲いかかり、あの惨劇がはじまったのだ。

[略]惨劇の模様は、とうてい口では言いあらわせない。日本人の残虐さを思い知らされたような気がした。何百人という群衆が暴れまわっているのを、一人や二人の巡査では、とうてい手出しも出来なかった。こういうのを見せられるならいっそ死にたいと考えたほどだ。

子供も沢山いたが、子供達は並べられて、親の見ているまえで首をはねられ、そのあと親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも、途中までやっちゃあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。後でおばあさんと娘がきて、「自分の息子は東京でこのやつらのために殺された」といって、死体の目玉を出刃包丁でくりぬいているのも見た。
当時演武場は、警察署の方からではなく、町役場の方から電灯をひいていたので、演武場の電気は警察の方からは、消すことができなかった。私は演武場の中の四三人が見つかっては大変だからと、電気を消すように役場の方へ頼んだが、一向に通せず、そのうちに、演武場の中の朝鮮人も見つかってしまったのだ。「ここにいた」というわけで、詳衆は演武場へおしかけ、四三人ことごとく殺してしまった。朝、私が演武場へ行ったとき、立てかけてあった畳の陰にいて助かった二人の婦人から水をくれ、と頼まれ、小使に持たしてよこすから、といっている間に、朝早くからやってきた群集に見つかり、昨夜の凶行場所につれて行かれ、ベンチの上でさし殺されてしまった。私はどうすることもできなかった。

警察署の構内は前夜の凶行で血がいっぱいだった。長靴でなければ歩けなかったほどだ。
警察署の構内で殺されたのは八六人だが、本庄市内で殺されたのもいた筈だ。死体も見たが、一五、一六人位・・・二〇人まではいなかったと思う。

署内の留置場の中にいて一人助かったが、これも群衆が「凶行を見られてしまったからには、朝鮮へでも帰って話されたら大変」というわけで、留置場の鉄棒の間から、竹槍で突こうとしたのだが、あっちへ逃げ、こっちへ逃げて、とうとう助かったのだ。これは後でどこかへ送られた。

私は長い間、朝鮮人の「アイゴウーアイゴウ」という悲痛な叫びが耳からはなれなかった。

死体は、翌日、県からの命令で、朝鮮から調査にくるから至急にかたづけろといってきた。私は町長と相談したが、宮下林平町長は、「一〇人や一五人ならすぐにでもどうにかなるが、これほど多くては・・・」というわけで私にまかされてしまった。私は日頃夫婦げんかの仲裁などで世話をしていた上野金作という請負師に頼んだが、仲々引受けてもらえなかった。上野は、はだかになってやっでもいいというならやろうということで引受けてくれた。死体は一二台の荷馬車で運んだが、火葬場へもっていっても仕方がないので、台町の山林に、幅七尺、長さ三六間の穴を掘り、下にまきをしき、その上に死体を並べて、上から石油をかけて火をつけた。焼いたのは夜だったが、朝になっていってみると、頭や、足、手首などがほとんど残ってしまっていた。残った頭など五〇位あったろうか。何しろ「数がわからないようにしろ」というお上の命令なので、残ったのは、またやりなおした。中には長靴をはいたままの足が残っていた。かめにつめて埋葬されたのは、ほんの一部の灰だ。
警察署に保護した中に、御茶の水の女学生というのが二人いたが、我々は、なんとかして助けてやりたいと思って別な旅館に移そうとしたのだが、私には夫がいるので、離れたくないというので指さすのを見ると大学生だった。それでは仕方があるまい、というわけで、演武場に一緒にしておいたのだが、とうとうその人達も殺されてしまったわけだ。可哀そうなことをしたと思っている。

凶器は、後であつめて見ると、尺まるきにして一〇束位あった。加害者の中には相当の名士もいたようだが、私が、顔や名前を知らないのは報告できなかった。

[略]事件後人々は、この事件でのおとがめはあるまい、もし何らかのきたがあるとすれば論功行賞だと考えていた。虐殺事件の翌日などある人間は、私にむかって「不断剣をつって子供なんかばかりおどかしやがって、このような国家緊急の時には人一人殺せないじゃないか、俺達は平素ためかつぎをやっていても、夕べは一六人も殺したぞ」と、いったりした。

[略]裁判もいいかげんだった。殺人罪でなくて騒擾罪ということだった。刑を受けたのは何人もいたが、ほとんど執行猶予で、つとめたのは三、四人だったと思う。私も証人として呼ばれだが、検事は虐殺の様子などつとめてさけでいたようで、最初から最後まで事件に立合っていた私に何も聞かなかった。そして、安藤刑事課長など、私に本当のことを言うなと差しとめ、実際は鮮人半分、内地人半分だったと証言しろ、それ以上の本当のことは絶対に言うな、と私に強要した。私も言われた通り証言した。

(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会編『かくされていた歴史-関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会、一九七四年)


つづく



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