2023年11月25日土曜日

〈100年前の世界135〉大正12(1923)年9月5日 〈1100の証言;墨田区、台東区、港区〉 「5、6人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けども少しも話さず、下むきいるので、通りがかりの者どもが我も我もと押し寄せ来たりて、「親の敵、子供の敵」等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時しか死して行く。 死せし者は隅田川にと投げ込む。その物凄さ如何ばかり。」

 



大正12(1923)年

9月5日

〈1100の証言;墨田区/請地・押上・横川〉

戸沢仁三郎〔社会運動家、生協運動家〕

〔兵士を交えた亀戸署の逮捕をのがれて、5日朝〕請地を横切りました際、ここでついに昨日自警団の立話を現実に見せつけられてしまいました。それは、池をとりまく人たちが兇器を手にし、喚声をあげていました。もう朝からこんなことをやっているのです。私は急ぎ足でそばを通過しました。いうまでもなく、それは朝鮮人を池へ追い込み、手を合わせて助けを乞う者を惨殺するのです。

請地につづく向島の法泉寺は、大島の羅漢寺と同様の大きい寺で、私はこの基地を横切ったとき、その空地には惨殺死体がいっぱいで、墓道にまでおよんでいました。大島の羅漢寺ではこれ以上だろうと思ったりしながら、私は、手や足をふまないように気をつけて、死体をまたいで逃げました。

(「純労働組合と大震災」『労働運動史研究』1963年7月震災40周年号」、労働旬報社)


〈1100の証言;墨田区/旧御蔵橋・安田庭園〉

成瀬勝〔当時20歳〕

5日の日であった。「朝鮮人が来た」と言うので早速飛び出して見れば、5、6人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けども少しも話さず、下むきいるので、通りがかりの者どもが我も我もと押し寄せ来たりて、「親の敵、子供の敵」等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時しか死して行く。

死せし者は隅田川にと投げ込む。その物凄さ如何ばかり。我同胞が尼港にて残虐に遭いしもかくやと思いたり。ああ無慙なるかな。中には良き人もありしに、これも天災の為にて致方なし。

後にて聞けば、朝鮮人の致せし事は少なく、我が日本の社会主義者の者どもがやりしと言う。(1924年9月1日記)

(成瀬勝著、成瀬嘉一編『大震災の思い出』私家版、2000年)

〈1100の証言;墨田区/鐘ヶ淵周辺〉

福島善太郎

5日の午後、向島にあった鐘紡の向島工場の正門前を通ったとき、門をはいった広場に500〜600人の朝鮮人が収容されていた。ひとびとにきくと、あまりにも朝鮮人にたいする虐殺がひどいので、保護収容しているのだとのことだった。私はなにかしらホッとしたことを憶えている。そしていまでも、それが本当に保護収容だったと信じている。

(日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 閑東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)


〈1100の証言;墨田区/本所被服廠跡辺〉

白井茂〔記録映画作家〕

〔9月5日、被服廠に。死体の山のそばに警察官がいて撮影を求めると「よろしい、しかしこの死体だけは私の家族だから撮らないでほしい」と〕どのくらい時がすぎだろう。遠く近くに人の声が聞こえる、みんな身寄りを探す人らしい。しかし何か気配がおだやかでない。「朝鮮人だ! 殺してしまえ」。2、3人が叫んでいる。それがどうも我々に向けられているらしいと気のついたとき、先ほどの警官がやって来た。「みんなの空気がどうも面白くない様子だから、今日は引揚げた方がいいですよ」と親切に注意をしてくれた。その後方には杖を持った17、8人の人々の険しい眼が、こちらを見て光っている。厩橋方面に歩き始めると、その人々も、何やら叫びながら、5、6間はなれてぞろぞろついて来る。2人〔助手と自分〕は次第に早足になる - 後の人々も早足になる。これは駄目だ、と思ったとたん、私たちは着剣した兵隊5、6人にぐるりと取り囲まれて銃剣を突きつけられた。

〔警官をたくさん乗せたトラックが通りがかり、それに乗せられて仮警視庁〔府立一中〕へ連行され留置場へ入れられた。翌朝放免されたが、フィルムは半分接収された〕。

〔略〕当時は世の人々の認識も少なく、言論の自由もなく官憲のきびしい取締りの目が光っているだけだった。

(『中央公論』1964年9月号、中央公論社) "


柘植秀臣〔大脳生理学者。幾災当時、父親が品海病院(現・北品川病院)院長〕

私は5日目、本所方面の知人の安否を尋ね、被服廠跡の累々たる焼死体に目を被い、また途中虐殺された朝鮮人の焼死体を多数目撃した。今日もなおこの悲惨な情景を忘れられない。

(『サンデー毎日』1976年9月12日号、毎日新聞社)

〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉

篠塚行吉

9月5日、18歳の兄と一緒に2人して、本所の焼けあとにいこうと思い、旧四ツ木橋を渡り、西詰めまで来たとき、大勢の人が橋の下を見ているので、私たち2人も下を見たら、朝鮮人10名以上、そのうち女の人が1名いました。兵隊さんの機関銃で殺されていたのを見て驚いてしまいました。

人びとのデマで死んだこと、くやしかったことでしょう。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

〈1100の証言;台東区/入谷・下谷・根岸・鶯谷・三ノ輪・金杉〉

岩尾研

5日の日に村の駐在所の巡査と一緒に浅草にその巡査の家族をさがしに行ったんです。三ノ輪を通って浅草に行ったんですがね。三ノ輪っていうところでもって、朝鮮人が針金でしばられて荒川に生きたまんまほうり込まれているのをみたんです。

(日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)


中浜東一郎〔医学者。当時中野在住〕

9月6日〔略〕初めて東京に行きしは去る5日にて、〔略〕上野より田端に行く途中死人3人を見たり、一人は朝鮮人ならん印し判(半)天を着し頭部は大石を以て砕かれたり。

(中浜明編『中浜東一郎日記・4』冨山房、1994年)

〈1100の証言;台東区/上野周辺〉

鹿島龍蔵〔実業家、鹿島組理事。当時田端在住〕

9月5日〔略〕御徒町手前の左側に不逞鮮人(ママ)であるといって、殺害した死骸、道の傍に放棄してあるのを見る。

(武村雅之『天災日記 - 鹿島龍蔵と関東大震災』鹿島出版会、2008年)


『山形民報』(1923年9月8日)

「逃げ遅れた鮮人不忍池に飛び込む」

某避難者の談によると、殺気立ったる東京市民のため逃げ場を失いたる不逞鮮人数十名は、死体が累々として浮漂せる不忍池に飛込全身を水中に没し頭より蓮の薬をかぶり市民の眼を避けていたが、5日朝に至り警視庁巡査のために発見され一網打尽に検挙された。

〈1100の証言;港区/白金台・三田・田町・芝浦〉

金鐘在〔麹町で被災、四谷駅わき外濠土手に避難〕

〔5日朝、帰国するために田町駅へ行くと〕彼ら〔まわりの5、6人〕の会話の内容は、おそるべきものだった。「朝鮮人を何十人も、自警団員がクシ刺しにして殺す現場を見て痛快だった」とか、「東京や横浜の火災の原因は朝鮮人のしわざだ」とか、「朝鮮人が井戸に毒薬を投げこんでまあるというふれが出たから、大勢で警戒した」「朝鮮人ほど恐ろしい人間はいない。いつもはアメ売りや行商をして、おとなしそうに見えるけれども、内心で何を考えているのか信用がおけない」といった話でもちきりであった。

(金鍾在述・玉城素編『渡日韓国人一代』図書出版社、1978年)


つづく



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