2024年1月15日月曜日

大杉栄とその時代年表(10) 1886(明治19)年7月~8月 坪内逍遥(27)、加藤センと結婚 漱石、腹膜炎に罹る(留年) コレラ流行 谷崎潤一郎生まれる 徳富蘇峰(23)と植木枝盛(29)が高知で会う 一葉、萩の舎に入門      

 


大杉栄とその時代年表(9) 1886(明治19)年5月~6月 末広鉄腸「夢ニナレナレ」(のち「二十三年未来記」と改題) 全米労働者、8時間労働・8時間休息・8時間教育求めデモ(メーデーの発端) 高村智恵子・石坂泰三・岡本一平生まれる 雨宮製糸場女工ストライキ より続く

1886(明治19)年

7月

坪内逍遥(27)、学生時代に根津遊廓でなじんだ女性加藤セン(花紫、一旦、友人の士族、鵜飼常親の養女となり)と結婚。

10月22、23日披露宴。以後夫人は、逍遥の最もよき理解者となる。昭和8年、相次いで没するまで50年間、添い遂げる。この年、「内地雑居未未之夢」「京わらんべ」など刊行。演劇改良運動にも強い関心を寄せる。

7月

漱石、腹膜炎に罹る。第一高等中学校予科第二級から一級への進学試験を受けられず留年する。しかしこの時から発奮して勉学に集中、卒業まで首席を通す。

「追試験を受ければ進級も可能だったかもしれないが、彼は追試の時を待てという友人の勧めを振り切って「自分から落第」したのである(「落第」)。その理由は、追試の通知がないのは自分に「信用」がないからで、信用を得るためには勉強しなければならない、もう一度同じ学年をやり直して出直そうと思ったのだそうである。」(岩波新書『夏目漱石』)


「人間と云ふものは考え直すと妙なもので、真面目になつて勉強すれば、今迄少しも分からなかつたものも瞭然と分る様になる。(中略)恁んな風に落第を機としていろんな改革をして勉強したのであるが、僕の一身にとつて此落第は非常に薬になつた様に思はれる。」(「落第」)


7月

馬場辰猪、オークランドで日本紹介の講演活動。11月21日ニューヨークに移る。

7月9日

日本橋に、同月13日、本所区・浅草区にコレラ発生。

8月3日以後は1日100人以上、8月18日以後は1日200人以上、8月30日には300人以上と新記録。9月中旬から衰え、10月中旬には1日10人以下と減り、12月24日に消滅。東京府下では、患者総数1万2,071人。死者9,879人。全国死者108,400人。この年、天然痘も流行。死者1万8千。腸チフス・赤痢で死者2万。

7月24日

谷崎潤一郎、誕生。東京市日本橋区蛎殻町。父倉五郎(27)、母関(22)。4男3女の長男。本家谷崎活版所の活況の下、婿(分家)倉五郎は以後いくつかの事業に着手、失敗。並行して本家も徐々に衰退への道を辿る。明治20年、父倉五郎は祖父久右衛門の援助で日本橋青物町に洋酒店を開業、間もなく経営不振、店を閉じ再び蠣殻町の本家に戻る。

7月24日

「将来之日本」(10月刊行)草稿携えた熊本出身徳富蘇峰(23)と植木枝盛(29)が会う。高知。月末まで5回。

7月31日

ハンガリー作曲家フランツ・リスト(74)、没。バイロイト。ワーグナー亡き後もバイロイト音楽祭支援、21日病身のままバイロイト入り、コージマ演出「パルジファル」「トリスタン」鑑賞後、容態悪化。

この年1月22日ローマ発~ブダペスト~3月11日戻り。休みもせず夜行列車でウィーンのショッテン・ホーフに住む叔父エドワード・リスト博士を訪ね3月12~15日、宿泊。その後、、パリ、アントワープ、パリに戻り、ロンドンに3週間滞在パリではエドワール・コロンヌ指揮による慈善演奏会で「グラン・ミサ」を上演、若いクロード・ドビュッシーにも会う。また好評に応え4月2日に第2回目の演奏会。ロンドンにおける「聖エリザベス」も、1週間後に第2回が再開、翌日ウィンザー宮殿に召されて、リストがピアノを演奏。もう一度パリに戻り、上演された「聖エリザベス」には聴衆7千が集まる。5月17日ワイマール帰還。そこへコージマがバイロイトから訪ねて来る。コージマは、この年夏のバイロイト音楽祭の「トリスタン」「パルジファル」の初日に是非来て貰いたいと招待。

リストは、7月23日の「トリスタン」、25日の「パルジファル」を観る為に21日バイロイト着、知人フレーリヒ家に泊。夜、ジータフリート・ワーグナーがヴァーンフリートでの夜会に迎えに来る。翌朝6時コージマが迎えに来て、ヴァーンフリートまで朝食。翌日午後4時「トリスタン」、25日「パルジファル」を観る。その日真夜中少し前一度昏睡状態に陥る。26日、起きることができず。27日夜一睡もできず。翌朝コージマが来た時、リストが重態と知る。肺炎を併発。絶対安静と面会謝絶。30日も昏睡状態続く。31日夜中の少し前に没。

8月

末広鉄腸政治小説「雪中梅」(博文堂)

8月

ニーチェ、「善悪の彼岸」をC.G.ナウマン社から自費出版(翌年夏迄に100部余しか売れない)。かつての出版主フリッチュ、シュマイツナーからニーチェの著作の在庫(「ツァラトゥストラ」は夫々60~70部程度しか売れず、「人間的」は500部余り売れ残る)を買戻す。「ツァラトゥストラ」の最初の3部を1巻に纏めてフリッチュから刊行。同様に「反時代的考察」4編もこの年の後半に刊行。

8月

グスタフ・マーラー(26)、ライプツィッヒ市立歌劇場第2指揮者に就任(第1はニキシュ)。ウェーバーの孫から未完のオペラ『3人のピント』の完成を依頼される。

8月5日

末松謙澄、演劇改良会設立。8月6日趣意書

8月7日

金玉均を小笠原の孤島へ移送すべく帆船に乗せられる。9日品川発。明治21年7月29日札幌へ移送。亡命当初は福沢諭吉らが匿い、東京・横浜・栃木県佐野を転々とする。朝鮮政府・袁世凱の刺客の横行。

8月20日

則義の治療医でかつて真下専之丞とともに大沼枕山の下谷吟社に居たことのある脚気の名医遠田澄庵(麹町飯田町)の紹介で、小石川区水道町14番地(通称安藤坂)の中嶋歌子の歌塾「萩の舎」にテスト生として入門、20日から当座稽古に通う。最初は毎週金曜日の初心者の稽古に出ていたが、10月からは土曜日の一般稽古に加わる。

塾は華族実業家の夫人令嬢など上流階級のサロンのようなもの。階級の異なる一葉と伊藤夏子・田中みの子が平民3人組と自称して固まる、歌会の時には、3人が次の間に控えて細々した用をしたり、おしゃべりに興じる。

一葉が西黒門町の家から「萩の舎」まで通うには、湯島の切通坂を本郷台へ上り、本郷3丁目を経て春日町へ下り、さらに急な富坂を上る。富坂の西側一帯、旧水戸藩邸の跡は陸軍砲兵工廠となっていた。女の子の脚で30分~40分の距離。夏子は、「父君も又我が為にとて和歌の集などを買ひあたへたまひけるが終に万障を捨てゝ更に学につかしめんとし給ひき」(「塵之中」明26年8月10日)との父の理解と期待に応えようと気負ったに違いない。

遠田澄庵は玄米と小豆を使った粥を治療に使う事を発見した人物で、東黒門町15番地に出張所を設けており、樋口家に立寄り自分の五女汎が適っている安藤坂の歌塾「萩の舎」の中嶋歌子を教える。

歌塾「萩の舎」:

安藤坂の中腹、第4大区3小区水道町14番地(現・文京区春日1丁目9番27号)に明治10年(1788)、中嶋とせ(幼名)が「うた」と改名して、加藤千浪の死去とともに開いた歌塾である。歌子の稽古は、鍋島家、前田家、松平家など高貴の華族の子女は出稽古で行い、一般の稽古は塾で行った。千蔭(ちかげ)流の書跡指南は最も早くから行っていたが、歌塾を始めてからは和歌の指導や古典の講義も行うようになった。門人は鍋島家を始めとする華族の子女や三井家など富商や知識人が多く名を連ねていた。特に歌人、伊東祐延が世を去ってからは水野家や伊東延などその門人が大勢「萩の舎」に移って来て一時はその数、千人を越すともいわれた。

一葉は、明治19年8月の入門以来、死没するまでの10年間、萩の舎との関係に濃淡粗密さまざまあったが、完全に切れることはなかったと言ってよい。とくに明治23年には、5月から九まで萩の舎の内弟子となって住み込んだことがある。

中嶋歌子:

弘化元年(1844)12月14日、武蔵国入間郡森戸村で絹織物商中嶋又右衛門、幾子の長女として誕生。母福島氏の実家は、江戸店持ちの豪商で、父又右衛門はその江戸店を預かって郷里との間を往来していたが、のち江戸に定住し、小石川安藤坂の池田屋を買収して旅館も経営する。池田屋が水戸藩の郷宿でったことから、歌子は文久元年(1861)18歳で、水戸藩の尊皇攘夷の急進派林忠左衛門と結婚。3年後の元治元年(1864)、天狗党の乱で夫が没し、歌子も一時投獄される。

21歳で未亡人となった歌子は、江戸の実家に戻り、加藤千浪(萩園)の門に入り江戸派の和歌と国学を修業。書は千蔭流という。明治10年、千浪没を契機に、自ら萩の舎を開く。歌塾「萩の舎」の名は、その庭に萩を多く植えて愛しんでいたことから名付けられた。

歌子は同門の歌人伊東祐命と親しく、彼を通じて江戸派の小出粲と知りあい、宮中御歌掛で御歌所初代所長となる高橋正風の援助を受け、皇族、貴族、上流階級の女性たちを門下に集めるに至る。夏子の入門時は、歌子45歳の全盛時代で、門下には、梨本宮妃伊都子、鍋島侯爵夫人栄子、前田侯爵夫人朗子、綾小路子爵姉妹、中牟田子爵令嬢などが名を連ね、総勢千人余の門人がいた。毎週土曜日の稽古日や月1回の例会には、黒塗りに金の家紋の入った名家の人力車が、門前に並んだという。

中嶋歌子の師加藤千浪は文化7年(1810)11月19日陸奥国白河(現・福島県)の貧家に生まれた。江戸に出て奉公中、岸本由豆流(ゆづる)に学んだ。後に千浪は荻園と号して、『荻園詠草』やたくさんの短冊を遺し、伊東祐命(すけのぶ)、中嶋とせ(歌子))などの門人を育て、明治10年(1877)11月18日、66歳で世を去った。書道の千蔭流の達人でもある。墓は江東区清澄3丁目臨川寺にある

千浪は村田春海(はるみ)門下の国学者岸本由豆流の弟子で、加藤千蔭と同じ賀茂真淵門下の江戸派に属する。江戸派の歌は国学の伝統の中にありながら古代風の歌風とくらべて穏やかで、桂園派が強調する調べを取り入れて、題詠の中にも「真情」の表出を重んじた。この理念は歌子にも反映されており、弟子の一葉にも受け継がれた。一葉は、俳句の正岡子規や、与謝野鉄幹、晶子等明星派が登場した明治30年の近代短歌史幕開けの前夜に位置する。旧派に身を置きながらも題詠の矛盾に気づき、詞書の歌を多く作り、現代の言葉で心情を真実に表現する方法を模索した。佐佐木信綱・萩原朔太郎は彼女の恋歌を高く評価した。

一葉の書は「千蔭流」と呼ばれ、加藤千蔭によって編み出された流派である。和歌や和文を鑑賞用にしたためるときの書芸として幕末から明治にかけて特に江戸派の系統の人々によって継承された。明治30年代には千蔭の筆跡の影印もたくさん流布して、直接の継承者でなくても千蔭風の書を嗜む人々が現れた。加藤千浪は千蔭の直系の歌人ではないが、千蔭流の達人として知られ、中嶋歌子とその門下の鍋島栄子、田邊花圃、伊東夏子、一葉などはすべて千蔭流の書を身に付けていた。


つづく

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