2024年1月24日水曜日

大杉栄とその時代年表(19) 1887(明治20)年11月18日~12月 山田美妙『花の茨、茨の花』 坪内逍遥(29)、宮武外骨(21歳)の仲介によって依田学海(55)に初めて会う 子規、野球に興じる(『筆まかせ』「愉快」) 保安条例施行(自由党関係者、東京から追放) 一葉(15)の長兄泉太郎没    

 


大杉栄とその時代年表(18) 1887(明治20)年10月~11月16日 後藤象二郎、丁亥倶楽部結成、大同団結運動に乗り出す 植木枝盛、三大事件建白書起草 旧自由党派「三大事件建白派」、独自の動き開始 より続く

1887(明治20)年

11月18日

永井壮吉(荷風、8歳)の弟威三郎出生。

11月19日

土佐郡小高坂村組合戸長田岡正躬外14名、「三大事件建白書」を県庁に提出、元老院へ送達を願出

11月20日

山田美妙、言文一致体による歴史小説『武蔵野』(『読売新聞』連載~12月6日)。

11月28日

宮武外骨、『頓智協会雑誌』4号分を持って、「天保老人」こと依田学海(天保4年・1833年生)のもとを訪れる。

11月30日

外骨、再び学海邸を訪ねる。


三十日。晴。風寒し。宮武外骨来りて頓智雑誌の題辞を求む。よて、一言利人、片語救急、機智所発、鬼驚神没としるして与へき。余この人が春のやおぼろと号する坪内雄三を知るといぶによりて、紹价を求めたり。雄三も余を見むといふよし伝られたり。(『学海日録』第七巻)


55歳の老大家が、29歳の新進気鋭の作家への取り次ぎを21歳の青年に頼んだことになる。"

11月29日

斎藤緑雨『小夜しぐれ』(『めさまし新聞』連載~12月28日)。

12月

宮武外骨、自らの主宰する頓智協会から雑誌『宮武雑誌』を創刊。

大の雑誌好きだった外骨は、『日本大家論集』のお手軽振りが許せなく、それを「剽窃雑誌」とあてつけた。自信をもって発行した雑誌だったが、118部しか売れなかった。

12月

山田美妙『花の茨、茨の花』(『我楽多文庫』第15号、明治20年12月掲載)。言文一致をある程度まで完成させる。

まったくの口語体によって書かれたこの小説は、「忽ち世人の注意を促がし、殊には子が奇才を縦横に振廻はしたる結果、其名は一時に煥発して、忽にして子をして文壇上に将旗を得せしめたり」と硯友社の同人仲間丸岡九華が『硯友社文学運動の追憶』で書いている。


美妙は最初より所謂覇気勃々、名を成すに於て何人よりも性急なりしなり、文を練り想を凝らして未来に成功を期するよりも、直に進んで先発第一に新文壇の金麾(きんき)を握らんとするは結社当時より唯一の希望たりしなり、この慾望、この名誉心は子をして言文一致の創造を為さしめたる刺激と動機とを与へたれども、又為めに友を捨て情を忘れたるの不徳に陥らしめたるも亦是が為めなり。(『硯友社文学運動の追憶』)


12月

ゴッホ、年末、クリシー大通りのレストラン「デュ・シャレ」 で、ベルナール、トゥールーズ=ロートレックらと展覧会開催。大都会の喧騒の中で神経をすり減らし、冬場は体調を崩し、アルコールに依存る。テオにとっても、神経質で自分勝手な兄との生活は限界に近付く。

12月

ゴーギャン(39)、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホとテオの兄弟に再会。生涯の友ジョルジュ・ダニエル・ド・モンフレーを知る。 

12月1日

坪内逍遥(29歳)、宮武外骨(21歳)の仲介によって、文学世界の大物、依田学海(55歳)に初めて会う。


十二月一日。晴。坪内雄蔵来る。小説の談いとおもしろし。(中略)坪内は年いと若き人なり。色白き背低き男にして、言語は爽利にして、やゝ軽きかたなり。黒き羽織の紋付たるをきて、眼鏡をかけたるは短視にてありにしや。いふ所きはめて謙遜にして、余を老人とみにしや、殊に礼を厚くせり。(『学海日録』第七巻)


12月5日

石阪昌孝・鎌田納郎、出港。福井屋に入る。県下各郡の有志20名前後を、建白書の捧呈と、勧告の件で召集。

12月6日

高知県庁、戸長の建白書を却下。戸長11名は直ちに戸長辞職の上、建白書の送達を出願。三大事件建白は保守派も民権派に連動。高知では国民派代表池知春水が建白書提出。

12月16日

北村門太郎、在米の石阪公歴に向けて書簡を書き始める(中断)。「新日本」を受け取ったため。

12月16日

(露暦12/4)露、レーニン、カザン大学1年、初の逮捕。数百名の学生と穏健デモ。5月大学放校。7月カザン県コクシュキノの祖父の領地へ流罪。

12月18日

石阪昌孝、村野栄吉とともに、橘樹郡溝ノ口村の上田忠一郎家を訪問。〔「上田正次日記」〕 

12月22日

津久井屋乱闘事件。軟弱議員に対する壮士の制裁に関し小林儀兵衛と市川茂が乱闘。その場に居合わせた者、石阪昌孝・水島保太郎・水島丑之助(五名拘引=壮士の行動を監視中の巡査、と考えたほうがよいかもしれない)。軟弱議員とされたのは、古谷正橘・青木正太郎・成内穎一郎・内野杢左衛門・山口佐七郎・井上篤太郎・岩田道之助。 

12月25日

子規、野球に興じる。


十二月二十五日のことなりけん、学校の試験もめでたく終へげれば此日を期して朝八時より美土代町自由亭に於て一々会といぶ同級生の演説会を開たり。学校の課業の気にかゝらぬ時なれば、人々皆うれしがりて会する者も三十人余ありたり。扨正午に学校の寄宿舎に帰ればはやベース・ポール大会の用意最中なり。余もいつになく勇みたちて身軽のこしらへにて戦場へくり出すに、いとも晴れわたりたるあたゝかき日なりければ、駒の足もイヤ人の足も進みがちなり。此日余は白軍の catcher をつとめ菊池仙湖は pitcher の役なりしが、余の方は終にまけとなれり。それにも拘らず仙湖と余とは pitcher をやりしかばうれしさも一方ならず、夕刻にこゝを引き揚げ、これよりめざす所は連雀町の今金なり。進めや進めと同級の寄宿生一同こゝに集ひたり。(『筆まかせ』の明治20年の項「愉快」)


明治11年に日本初の本格的な野球チーム「新橋アスレチックス倶楽部」を作った鉄道技師、のちに大実業家となる平岡熙が、子規が上京直後に世話になった藤野漸と謡(うたい)の友達だったので、その縁で子規はよく平岡の息子と野球をやったと、藤野の夫人、藤野磯子は語っている(「始めて上京した当時の子規」)。

12月25日

石阪昌孝、留置場で発狂の気味(独り演説を為し、又悲歌を詠しなどし居り)。26日午前1時10分ころ、「狂乱の末自分の睾丸を引裂き鮮血淋漓(りんり)として滴るをも顧みず、眼を怒らし益々荒回る」。昌孝、治療の上、親戚に下げ渡される。

12月26日

保安条例施行。

片岡・星の建白書提出前。建白運動活動家中島信行(初の衆議院議長)、自由党関係400余名(星、林有造、尾崎行雄、片岡、竹内綱、中江、幸徳)。皇居外3里追放。内相山県・警視総監三島の弾圧政策。三大建白運動首領格後藤や側近大石正巳・末広重恭には適用なし(運動分断狙う)。片岡健吉ら16名の上京土佐人、東京からの退去を拒否して下獄。

秘密結社・集会の禁止、警察官が必要と認める場合の屋外集会の禁止などを定め、第4条で「皇居または行在所を距る三里以内の地に住居または寄宿する者で、内乱を陰謀し、または治安を妨害する慮れありと認むるときは、警視総監または地方長官は、内務大臣の認可を経て期日または時間を限り退却を命じ、三年以内同一の距離内に出入寄宿または住居を禁ずることを得」という規定を定める。

建白書運動の中心となった土佐の有志総代片岡健吉らは、「正々堂々と建白の志望を貫徹するために数万人の総代となって上京したのだから、内乱を陰謀したり、治安妨害といった理由での退去には応ぜられない」と拒否、片岡・坂本直寛ら15人は捕えられ軽禁固3年に処せられる。「朝野」の尾崎行雄は、この追放で欧米への旅に出、中江兆民は大阪に去って「東雲新聞」の論説を書く。

石阪昌孝、満2年の退去処分。(昌孝は釈放後、横浜郊外大田村の寓居に引きこもり、民権家医師平野友輔の治療を受ける)。その後次々に退去者が続き、3日間で570人に達する。特に標的にされたのは土佐派の政客・壮士だが、高知県人であればカツオ商人・中学生まで追放。幸徳伝次郎(18)もその一人。

三大事件建白運動は沈静化。後藤象二郎・末広重恭・大石正巳ら穏健派の大同団結運動を中心に展開。

12月27日

樋口一葉(15)の長兄男泉太郎(23、大蔵省出納局配賦課雇)、肺結核で大喀血し、3ヶ月後のこの日、没。一家に衝撃を与え、この頃より家運が傾き始める。この年6月、父警視庁を退職。

一葉には2人の兄。長男泉太郎は頭も良く素直で、本郷学校・松本塾と通い、小永井小舟主宰の濠西精舎で5年間漢学の修行。次男虎之助は勉強嫌いで素行も悪く、教育熱心で几帳面な父と反りが合わず、15歳で勘当同然に分籍、17歳で陶工成瀬誠至のもとへ年季奉公に出る。明治16年、泉太郎が濠西精舎での修業を終えると、父則義(52、警視庁勤めの現役)はこの長男(19)に家督を譲る。後、泉太郎は明治法律学校へ入学するが、中途退学。大阪で一旗あげるべく親を説き伏せ出立するが、2ヶ月で金も使い果たし、再び親に泣きつき旅費を無心、帰京(明治20年2月)。戻った泉太郎は父のつてで大蔵省出納局に職を得、これ機に則義は20年の役人生活を退職。しかし、泉太郎は気管支炎のため11月9日退職する。

葬儀の香典換えには、夏目漱石の父直克の名がみえる。直克は警視庁で則義の上司であり、彼の長男大一と一葉との縁談を口にしたこともあったと

12月30日

社説「明治二十年の大事記」(「朝野新聞」)。新聞条例(許可制を届出制にするなど、部分的に緩和、20年12月28日公布)と保安条例を取上げる。

「一方に於ては成可く新聞出版の取扱いを寛大にして穏当なる言論の発達を誘導して世の文化を進めんとするの主意に出るならんか。然れども保安条例も之を永遠に維持する法案なりや明白なりとす。吾輩は此の厄運ある明治二十年をサラリと西の海に流し・・・」

12月31日

横山又吉ら5人の上京土佐人、保安条例廃止建白のため入京を企て逮捕され下獄


つづく

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