2024年1月25日木曜日

大杉栄とその時代年表(20) 1888(明治21)年1月~2月 漱石(21)夏目家に復籍 時事通信社創立 中江兆民「警世放言」(「東雲新聞」) 星亨ら秘密出版で投獄 大隈重信外相就任 一葉、家督を相続し戸主となる     


 大杉栄とその時代年表(19) 1887(明治20)年11月18日~12月 山田美妙『花の茨、茨の花』 坪内逍遥(29)、宮武外骨(21歳)の仲介によって依田学海(55)に初めて会う 子規、野球に興じる(『筆まかせ』「愉快」) 保安条例施行(自由党関係者、東京から追放) 一葉(15)の長兄泉太郎没 より続く

1888(明治21)年

1月

植木枝盛、高知県会で公娼廃止建議。1人を除き保守派を含め全員賛成。

1月29日、高知県会、植木枝盛議員提案の娼妓公許廃止建議を可決

1月

新年早々、吉野泰三、石阪昌孝を見舞う。内面は複雑(吉野は「軟弱」議員と名指しされてはいないが既に自由党系主流から距離をもち初め、「軟弱」派頭領的な存在と見られる位置にいる)。21日、吉野は、娘りうを見舞いに行かせる。りうは共立女学校で美那の後輩。2人の親交は、北村門太郎(透谷)を巻き込み、透谷と吉野泰三を繋ぐ契機となる。 

1月

漱石(21)、夏目家に復籍する。夏目金之助となる。


「上の二人が死んだため、父は当然、後継者の問題に直面した。残るは三番目の直矩(和三郎)だが、父はこの凡庸で気の弱い息子に夏目家は託せないと考え、塩原家へ養子に出してしまった金之助の戸籍を取り戻そうとした。すでに本人が夏目家へ帰っている以上、問題はないと考えたのである。

しかし塩原は抵抗した。表面上は双方ともに、「家」の継続を理由に争ったようだが、実質的には金の問題である。二人の「父」の交渉は金銭をめぐって難行し、翌年までかかった。塩原は戸長をやめて以来、金銭的余裕がなかったし、夏目の父もある会社への投資に失敗し、蓄えはどんどん減っていた。二人の女子の嫁入りや四人の息子の学資にも金が必要だっただろう。結局は七年間の養育費として二百四十円、百七十円は即金で、残る七十円は無利息の月賦で三円ずつ払うことで妥結したのだが、夏目家にとっては大きな出費だっただろう。これで夏目家と塩原の縁は一応絶たれたのだが、このとき金之助が、「私儀今般貴家御離縁に相成 実父より養育料差出候に就ては、今後とも互に不実不人情に相成ざる様心掛度と存候」と一札を入れたのが、後に塩原との厄介な関係を生じさせる原因となった。(岩波新書『夏目漱石』)


「これ(漱石が入れた一札)は漱石の自筆がげんにのこつているが、この證書を楯に後年零落した塩原が金をねだりにくる、それを百圓で買いとるいきさつが『通草』一篇の筋になっているのである。」(『漱石傳記篇』)


1月4日付橋本左五郎宛漱石書簡(下書き英文・訳文)。若い漱石(20歳11月)の自己分析と覚悟が見られる(過去の欠陥を分析して、未来の勤勉で克服しょうと前向きの人生を目指している。)。


「ぼくはいまでも頑固で熱しやすく、見知らぬ人の前に出るとはにかんで人見知りする質で、親しい友の前では冗談を言ったり語呂合わせなどして、陽気にするのが好きで、何でも試しにやってみるのは熱心なくせに途中で放り出し、実りのない空想に耽り、自負心が強く、不注意ときている。」 

「多少の取り柄があったとしても、それは日に日に失せている。しっかりしていたはずの記憶力も、急速に減退している。注意力は鋭さが鈍り、脳は思考力を大方失ってしまった。」

「だからこせこせした気懸かりなど捨てて、精励・勤勉に努めよう。」


1月4日

時事通信社、創立

1月5日

斎藤緑雨、小説『春寒雪解月』を『めさまし新聞』に連載(~2月26日)。「緑雨生」という筆名を用いる。

1月7日

米、山口俊太(畑下熊野)・石坂公歴・菅原伝・福田友作ら、70人を集め「日本人愛国有志会」結成(1889年から「愛国同盟」に解消)。週刊機関紙「第十九世紀」(1888年2月1日~1889年11月20日、93号)発行。保安条例を避けて渡米の粕谷義三らが加わる。

菅原伝:

文久3(1863)年宮城県遠田郡涌谷村に誕生。官立宮城英語学校・帝大予備校卒、日本法律学校講師。明治19年渡米。カリフォルニア州パシフィック大学政治法律科入学。「第十九世紀」編集長。明治26年ハワイ革命では孫文とハワイで知合い、後宮崎滔天を孫文に紹介。帰国後政友会代議士。明治39年以降連続16回当選。

1月15日

中江兆民「警世放言」(「東雲新聞」第1号)。

それまでの大新聞と違い平易な言葉で語りかけ、市井の雑録にも意を使い、翌22年には「大阪朝日」の年間1300万部に次ぐ883万部を算え、「大阪毎日」を追い抜く。知識層である各地の民権派人士が自発的に通信を寄せたらしく、地方通信量は「朝日」を上回り多彩で、これに刺激されて「朝日」は通信網の本格大拡充に乗り出す。

1月18日

鴎外「日記」、「夜、早川(大尉)きたる。余のためにクラウゼヴィッツの兵書を講ず。・・・その書、文旨深遠、ドイツ留学の日本将校等これをよく解することなし。」。早川大尉は後の田村怡与造参謀次長。川上操六の人選でクラウゼヴィッツの講義を聞くことになった田村が鴎外に翻訳を依頼。鴎外は、帰朝前後して翻訳を完成、明治36年末3巻を合わせて刊行。日露戦争での日本の作戦に貢献したといわれる。

明治17年大山陸軍卿の欧州視察に川上操六大佐が同行、ドイツ参謀総長モルトケに会う。明治20年川上が乃木と共にドイツを再訪、モルトケに指導を受ける。モルトケ及び弟子達(ブルーメ将軍、ゴルツ将軍、メッケル少将など)は全てクラウゼヴィッツの信奉者と知り研究の必要性を通感。鴎外に翻訳させて田村にクラウゼヴィッツの講義を受講させる。

クラウゼヴィッツ:

ライン戦争でフランス革命軍と戦う。ベルリン陸軍士官学校入学、キーゼヴェッター教授に哲学を学ぶ。卒業後、フリードリヒ2世甥アウグスト公(プロイセン)の副官となり、イエナ会戦に参加、ナポレオンの捕虜となる。釈放後、陸軍省付けとなりプロイセン国防軍編成に参画、後、ベルリンの一般士官学校(後、陸軍大学)校長。少将で没後、妻が著作集全10巻を整理刊行。最初の3巻が「戦争論」。ナポレオン1世によって変貌した戦争形態(国民戦争)を分析、近代戦の特質を明らかにする。エンゲルス、レーニンにも影響を与える。

1月24日

北村門太郎(透谷)、石阪昌孝に書簡。27日、石阪美那、昌孝の代理で吉野泰三に見舞いの礼状。24日付けの透谷書簡を同封。1月29日、吉野、昌孝に返書。

1月26日

浅草、国産自転車製造のための帝国自転車製造所が設立


2月

星亨ら10名、秘密出版で投獄

星は前年大晦日に横浜へ退去、ここで新聞「公論新法」を発行。横浜には中島信行、竹内綱らも退去。追放を機に、星はかねての希望通り欧米再訪を計画し、明治21年3月出発予定であったが、2月25日横須賀での洋行送別会後、三浦郡警察署に逮捕され、東京に護送される。政府は井上条約改正の際の秘密出版事件の捜査を続け、条約改正草案、ボアソナード意見書などの秘密出版者逮捕から、星のも司直の手が伸びる。星の容疑は、谷干城、板垣退助、勝安芳の意見書、政府法律顧問ロエスレルの憲法草案の秘密出版と頒布による出版条例違反と、出版条例違反の犯人を匿った罪人隠避罪で、7月3日、東京軽罪裁判所は被疑事実を認め、出版条例違反により軽禁固1年6ヶ月、罪人隠避罪で軽禁固4ヶ月・罰金5円の判決を言い渡す。

2月

二葉亭四迷「浮雲」第2編(金港堂)。

2月1日

大隈重信、外相就任。伊藤の抱きこみ。改進党は政府の外交政策攻撃の理由を失い、旧自由党系とは袂を分かつ。

2月2日

「朝日」、「時事新報」から転載した府県別「全国餓死人員表」掲載。18年の餓死者212人、19年は1212人、大阪府の餓死者がトップ。

2月3日

徳富蘇峰「隠密なる政治上の変せん」(「国民之友」~3月16日4回連載)。

①旧自由党は「士族民権」である。「秩序的進歩党」は「田舎紳士(農村地主)に基盤を求めるべき」。②三大事件建白のような示威運動でなく、国会開設に備えての選挙母体作りに専念すべき。「自からは一升の酒も造らずして酒税軽減に奔走し、自らは掌大の田園も有せずして地租軽減の請願に従事し…」。植木枝盛を念頭においた批判(同じ事は蘇峰にもいえるし、民権派にも多くの農村地主が存在する。後藤の批判の的は民権派リーダに対するもの)。

2月3日

文部省、高崎正風作詞・伊沢修二作曲「紀元節歌」を学校唱歌と定める。

2月6日

在米石坂公歴ら発行の「新日本」発売頒布禁止。3月、秘かに帰国の山口俊太(畑下熊野)は捕縛、また、石坂公歴は欠席裁判で有罪。

2月14日

中江兆民「新民世界」(「東雲新聞」25日も)。部落差別問題を取上げる。第1回衆議院議員選挙では大阪渡辺村の被差別部落住民が兆民の選挙を応援。

2月18日

窪田久米、獄中の村野常右衛門に宛て書簡。

「放菴先生ハ県会中殴打事件ニて一時拘引之末、発狂之模様ニて、色々手を尽し、此頃漸ク全快相成候趣ニ御座候、御典医ハ平野君ニ御座候」。公歴が1月23日に米国を発ち帰朝の予定と報告。

2月19日

ゴッホ(35)、パリを去る。翌日、アルルに到着。「ホテル=レストラン・カルル」に下宿。

2月22日

父・則義を後見人にして、故泉太郎に替わり一葉が家督を相続、戸主になる

2月28日

斎藤緑雨、小説『うたひ女』(『めさまし新聞』に連載(~3月31日)。


つづく


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