2024年5月10日金曜日

大杉栄とその時代年表(126) 1894(明治27)年11月9日~11日 後備第19大隊(東学農民軍討伐隊)へ訓令、東路,中路,西路の3路を進む 一葉家の"家計の逼迫続く 「家は今日此頃、窮はなはだし。」  

韓国ドラマ「緑豆の花」より
 
大杉栄とその時代年表(125) 1894(明治27)年11月1日~8日 孫文、ハワイで興中会設立 第2軍第1師団、金州城陥落 米、調停表明 北接東学農民軍(4万)を二手に分ける より続く

1894(明治27)年

11月9日

仁川兵站監(軍部) 、日本公使館(外交部) と合議して,後備第19大隊へ「訓令」

①東学党は,目下,忠清道忠州(チュンジュ)、槐山(クェサン)、清州(チョンジュ)地方に群集し,なほ与党は,全羅・忠清両道所在各地に出没するの報告あるを以て,その根拠を探究し,これを剿絶(そうぜつ、根絶やし)すべし。

②朝鮮政府の請求に依り,後備歩兵第十九大隊は,次項に示す三道を分進し,韓兵と協力し,沿道所在の同党類(東学農民軍) を撃破し,其禍根を勦滅し,以て再興,後患を遺さしめさるを要す。……尤も脅従者に至ては,緩急其度を計量し,その従順に帰するものに在ては,これを寛恕し敢えて苛酷の処為に陥るを避くべし

11月9日

一葉、萩の舎納会に出席。出席者30名。はじめて佐々木信綱と話す。帰宅後、再び中島歌子に生活費のことを相談するために再訪。中島倉子も来て、一葉が自宅へも来訪するように刺そうと、是非とのこと。いろいろな思いが胸に迫りなかなか寝付けず。

11月10日

一葉家の"家計の逼迫続く

村上浪六から借金をする約束の日。9月末から頼んでいたが、今日まで伸びてしまった。『征清軍記』の原稿料が入る筈だったが、原稿がまだ出来上がらず、あと1~2日はかかるとのことで、貰えずに帰る。家系は窮乏はなはだしく、妹邦子は腹をたて、母たきは愚痴を言い、今更ながら心苦しい。村上の所では、研友社の事や「東京朝日新聞」関係の人のことなど、面白い話を聞いた。


「家は今日此頃、窮はなはだし。くに子は立腹、母君の愚痴など、今更ながら心ぐるしきはこれ也。なみろくがもとにて種々をかしき物語ありき。」(村上浪六の家で色々滑稽な話があった。)


桃水、伊東夏子、村上浪六らに援助を求めるがうまくゆかない。浪六とは親しい間柄ではないが、借金を申し込むとはっきりとは断らず、しかも言を左右にして応じず。一葉はこれに激怒。

11月11日

一葉、田中みの子と滝の川の紅葉を観に行く約束をしていたが、気乗りせず、市川千代や関藤子などが稽古に来るかも知れないという口実で断る。夕方まで来客なし。夜、穴沢清次郎が「徒然草」の質問をしに来て、夜遅くまで話して帰る。戸田成年死去。

12日、昨夜からずっと雨。父則義の命日なのでやつがしらを供える。終日晴れない。

13日、新聞で福岡の戸田医学士病死の報を見て桃水の妹婿ではないかと思う。そのうち桃水から端書が来て、「本日出発、福岡へ行く。心中察せよ」とある。桃水は8月に弟茂太を脚気で亡くし、また妹婿の死にあい、大きな痛手を受ける。

11月13日~翌年4月17日 創作による多忙の為か、日記が途切れている。


11月11日

〈日本軍の兵站線、農民軍(北接・南接)の本拠地(概要)と戦いの始まり〉

日本軍の兵站線は,朝鮮の西南部,釜山がある慶尚道を北上し,朝鮮中央山岳地帯にある小白山脈を越えて忠清道を西北へ横切り,京畿道のあるソウルへ向かう。

東学の本拠は,中央山岳地帯の忠清道報恩にあり,この忠清道,慶尚道,江原道,京畿道の東学農民軍を通説では,北接東学農民軍と呼ぶ。

一方,東学農民軍の主力は,韓国西南部の全羅道の勢力,いわゆる南接であり,10月下旬から11月上旬には,ソウルへ向かって北上する蜂起の準備中であって,最大の戦いとなった公州戦争に決起し,日本軍と戦いはじめるのは,公州戦争の前哨戦になった11月21日からである。

これに対して北接東学農民軍は,10月25日には,小白山脈一帯で兵站線の日本軍守備隊 (後備第10聯隊第1大隊)に対して一斉蜂起している。また、後備第19大隊と戦いはじめるのも,可興の東幕里において,南接より早い11月17日から。

11月11日

「東学党討伐隊」,後備第19大隊(大隊長南小四郎少佐)、この日夜に命令を受け、翌12日朝,ソウル,龍山(ヨンサン)の日本軍陣営 を出発。大隊の任務は,東学農民軍「鎮滅」である。3中隊が,それぞれ東路,中路,西路の3路を進む

東路を進第1中隊は,14日に昆池岩(コンヂアム)を出て,利川(イチョン、ソウルの東南約60km)に入る。利川で討伐を実施し,利川東学農民軍指導者の子息を投獄して銃殺。村落を襲撃して東学農民軍拠点の村民を銃殺した。

以後,進軍途中で,東学農民軍の集結する村落を襲撃し,また,別の朝鮮守備隊が襲撃して,村落をすべて焼き払った現場を目撃して,日誌に記した。(「明治二十七年日清交戦従軍日誌」)

南小四郎少佐は、12 日、竜山出発、中路清州街道を前進し、新院竜仁を経て14日陽智県着。


〈「明治二十七年,日清交戦従軍日誌」について〉

筆者は,徳島県阿波郡(現,阿波市) の吉野川南岸にある村出身の兵士。日誌は、日清戦争下,第2次東学農民戦争から6年後,1901年1月に親族の助けも得て,巻物に清書された記録で、長さ9メートル23センチ,幅34センチ,墨書された長大なもの。記された戦場最前戦の苛酷な有様は,それまで公的文書に記されていた第2次東学農民戦争像と大きく異なるもの。

日本軍各部隊が,戦時にはかならず記すこととされた「陣中日誌」には,「陣中日誌例式」が決められていた。日誌は,各部隊長が,「点検シ,毎日,記載ノ結尾」に捺印または花押を押し,戦争後,謄写一冊が陸軍省に提出され,抄出を作成,その謄写本が参謀本部の「陸軍文庫」に収蔵された。日誌作成の「目的」は,甲乙の二項あり,「甲」は二つで,一は「後来戦史ニ用ヒ」であるが,二は「各人ノ任シタル勤務」について陸軍省で戦功「詮衡ノ参考」にするためであった。上官の点検を受け,陸軍省での戦功審査の資料にされる。

そのような「陣中日誌」に,最前線の凄惨をきわめる様相がほとんど記されないが、従軍した一兵卒が戦場を一個人の記録として記した「従軍日誌」は,貴重な資料である


「11月11日,(ソウル,龍山(ヨンサン) ……同夜,命令あり,今般,東学党討伐隊(後備第19大隊)の行進路を三つに別ち,すなわち東路・西路・中路と三道より分進すべし。すなわち第一中隊・松木大尉は,東路兵站線を進み,第二中隊・西森大尉は,西路を進み,第三中隊・石黒大尉は,中路を分進し,各隊共,忠清・全羅にある所の東徒(東学農民軍) を鎮滅し,慶尚道洛東兵站部に出て待命す可し。よりて,各隊其準備をなし,我が第一中隊は,通弁二名,道案内弐名,皆な韓人,通の内壱名は,対州人伊藤長太郎にして,これを連卒し,十二日,前七時三十分,竜山を出発す,このとき第一中隊附桑原少尉は電信護衛兼鉄道側(ママ)量の守衛として中路線を行進す。」(従軍日誌)

*日誌の筆者兵士は,第1中隊の第2小隊第2分隊に所属

*第2中隊の「西森大尉」は,森尾大尉が正しい。

*日誌のなかで,第2小隊第1分隊は15名,同第3分隊は18名とあり、第2分隊も15名から20名程度であったと推測できる。


〈その後の作戦経緯(概略)〉

東路を進む第1中隊はその後,中路を第3中隊とともに報恩方面へ進軍した大隊長の本部隊に軍資金を運搬する任務にあたって,第3中隊の討伐戦争,文義・沃川戦争の激戦直後の戦場を目撃し,その様子を「従軍日誌」に記した。

ついで,第1 中隊本隊に戻って,小白山脈を越えて南下し,慶尚道へ入る。東学農民軍に対する苛酷な討伐を慶尚道でも各地で実行し,南部で西へ転じ,ふたたび小白山脈の南部を西へこえて全羅道雲峰から南原へと入り,南原で本部隊第3 中隊と合同する。南原以後,討伐は,拷問,銃殺,焼殺,村の焼き払いなど,さらに激しく実施されている。

南西海岸にある長興で,東学農民軍の最後の組織的抵抗が行われた長興戦争が戦われ,兵士が参戦した戦争が詳しく記されている。長興戦争の詳細な実像は,この「従軍日誌」ではじめて明らかにされた。その後も,拷問,銃殺,焼殺などが記される。

全羅道の伝統ある都市,羅州には,大隊本部が1ヵ月滞在,南西部の討伐を指揮していた,羅州で処刑された農民軍が山積みされて放置された様子も記されている。


つづく


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