2024年5月14日火曜日

大杉栄とその時代年表(130) 1894(明治27)年12月1日~12日 一葉、再度久佐賀義孝に借金を申し込むが不首尾 山縣有朋、大本営訓令に反して海城攻撃命令 東学農民軍への苛烈な討伐作戦「六里間,民家に人無く,また数百戸を焼き失せり,且つ死体多く路傍に倒れ,犬鳥の食ふ所となる」 農民軍第2次攻撃、農民軍は全羅道へ退却 第1軍司令官山縣から野津道貫中将に交代 第3師団、海城占領          

 

大杉栄とその時代年表(129) 1894(明治27)年11月26日~30日 陸奥外相、清国との交渉には遼東半島割譲を要求すると述べ、伊藤首相も同意 公州救援に向かう南小四郎大隊長、文義に反転 「去る十一月二十九日,第三中隊のために退撃せられ,故に六里間,民家に人無く,また数百戸を焼き失せり,且つ死体多く路傍に斃れ,犬鳥の喰ふ所となる」という苛烈な掃蕩戦 旅順虐殺事件報道 より続く


1894(明治27)年

12月

坪内逍遙「小説家は実験を名として不義を行ふの権利ありや」(早稲田文学)。

11月、黒岩涙香の万朝報が上流社会の「築妾調べ」を連載。山田美妙と妾石井留のことが記事になり、山田は小説題材研究のためとの弁明文を万朝報に掲載。娼婦を妻とした逍遥が山田を峻烈に攻撃。

12月

大隈重信、北京進軍を強調、休戦承諾は北京占領を条件とするべきと主張。

12月初旬

一葉、天啓顕真術会の久佐賀義孝に大金の借金千円を申し込む。

12月7日、久佐賀から手紙で、月15円の手当で妾になるよう申し込まれる。拒絶。

毎月の手当として15円送るのは、「君を恋ひ慕ふ処なれば」「交はりの情」をもってであるとされていた。一葉はこれを断る(その手紙は残っていない)。久佐賀はそれに対して、「女となる事は出来ざるとの御事なれば是非もなし」と言いながらまだ未練を残す手紙を寄越した。

12月1日

第1軍司令官、第3師団(桂師団長)に海城攻撃命令。大本営は第1軍を将来の大作戦まで現状のまま待機させる方針。この旨の訓令を11月29日に発する。3日この訓令が山県司令官に届くが、山県は決心を変えず。

12月1日

東学農民軍討伐隊「陣中日誌」より


「明治二十七年十二月一日,前八時十五分,清安発足。后五時清洲に着す。前に竜山にて別行せし第一小隊鉄道測量護衛隊,三木軍曹以下十余名に面会す。この所に鎮南兵営とて,朝鮮の鎮台あり。兵一千人有……城砦は石壁なるも多く崩破せり……。」


12月2日

東学農民軍討伐隊「陣中日誌」より


「同月二日,前七時三十分,清州発。是より沃川に至るの間は,東学の組員多きと,三木軍曹の報に依て,一曽(ママ)警戒を厳にし,且つ前日第三中隊通過の際,多数の東党を撃退せし由。后四時に至り,文義郡に着す。その夜中,殊に警備厳重,各所を視察し,その夜,沃川え向け,韓人の人夫を以て大隊え通報せし所,則ち大隊本部より,香川軍曹以下,卒十名を引率,十二時三十分,当文義迄金櫃迎として来れり。清州,文義間は,行程四里半。」


12月3日

東学農民軍討伐隊「陣中日誌」より

沃川に着いて大隊長本部隊と出会う。「従軍日誌」には,文義から沃川までの村落の惨憺たる様子が記されている。


「同三日八時,出発。則ち,迎隊,香川軍曹及以下兵卒と共に沃川に向ひて行進す。文義より沃川に至る間の村落,悉皆東学党に組し,去る十一月二十九日,第三中隊の為めに退撃せられ,故に六里間,民家に人無く,また数百戸を焼き失せり,且つ死体多く路傍に倒れ,犬鳥の食ふ所となる。


「この日迄,都合七日の行軍中,金櫃を背ふ韓人,二十九名,駄馬三頭,而して,その牛馬は能く歩進すと雖とも韓人夫は東党に恐れ,進行を否む者多し。依て護送中,監守に困却,筆に尽し難し。而して沃川に着せしは午后四時,大隊に金櫃を引渡し,官宅に泊し,その夜,友人杉野虎吉に面会し,戦闘の話種々,且つ是迄の困苦を語合ひ数時間に及ぶ,大隊本部より朝鮮酒及牛肉を多く給えり。」


*「日誌」筆者の「友人」杉野虎吉上等兵は、徳島県阿波郡香美村出身の後備兵で,やがて12月11日,進軍した連山の戦闘で,3万名と見られる大軍の東学農民軍と戦った。正面から進撃する水原小隊(水原熊三中尉,小隊) に属して闘い,東学農民軍の銃弾が顎に当たって戦死した。筆者兵士と面会した8日後である。後備第19大隊660名以上の兵士中,ただ一人の戦場での戦死者であった。

筆者兵士は,その後,進軍する南原で,杉野虎吉の戦死を聞いた

「同(12 月) 二十八日,同所(南原) 滞在……不幸にも我中隊に付す杉野上等兵,去る十日,連山の戦ひ,敵弾に中り戦死せりと聞き,驚愕落涙,水魚の友を失ひ,悲嘆せり。」



12月3日

『日本』12月3日付け「黄海二州の小戦」

11月27日「黄州より載寧地方に派遣せる半小隊」が約600人の東学と戦い,「十五人を仆し五人を生擒し」て載寧を占領したことと、この部隊がさらに安岳へ向かい,金州から派遣した部隊は平山付近で警戒していたが,何事もなかったため引き上げたという。

12月4日

井上馨公使、陸奥外相に上申。

①京釜・京仁・京義鉄道敷設権、②電信線管理権、③海軍要港の租借、④古阜港・大同港開港と居留地設定、⑤30万円貸与の代償として、海関税と抵当にして日本人税関監督官の派遣、⑥全羅・忠清・慶尚3道の租税を抵当にし500万円貸与、元利払い済みまで3道の税務などの監督官に日本の官吏を招聘する。

12月4日

農民軍第2次攻撃。7日間、農民軍は敗北し、全羅道へ退却。

12月4日

伊藤首相、大本営に意見書「威海衛を衝き、台湾を略すべき方略」提出。講和に不利な直隷作戦に代えて、遼東半島での冬営持久、陸軍一部と艦隊による威海衛作戦・台湾作戦を提案。

伊藤は、異例のことながら、既成事実を作る為に「威海衛を衝き、台湾を略すべき方略」を大本営に提出。統帥部が計画中の直隷作戦は、清国政府を「土崩瓦解」に導く危険があり、そうなれば、商民・貿易保護を理由に英露が合同干渉を試みると判断し、直隷作戦を中止し、代りに威海衛を占領して残存北洋艦隊を撃滅し、清国政府に「恐懼の志想」を起こさせ講和を促すい、台湾作戦で講和条件の「基底」を得ようとする。伊藤は、政略に戦略が従属する事を要求、統帥部は、威海衛攻略後は天皇親率のもと大本営を大陸に進め直隷作戦実施を賛成の条件とする。伊藤は統帥部を「頑冥社中」と批評し、天皇の健康を理由に皇族の参謀総長を征清大総督とし大本営幕僚全部が総督府付となって旅順に進出することで妥協。伊藤は戦勝で意気上がる統帥部を抑えて早期講和を図る為に、講和条件には、統帥部の意向を大幅に受入れねばならない。

12月4日

小泉信吉(41)、没。横浜正金銀行副頭取・慶應義塾塾長。

12月4日

一葉、禿木より「暗夜」連載終了に伴う、次の原稿を依頼される。

12月4日

『日本』12月4日付け「公州の東徒」(掲二一五号)と「平山の東徒」(掲第一二七号)

前者は仁川から派遣され牙山に上陸した中隊が公州へ向かった。11月28,29日、「東学党数万」が公州を襲撃し,「我軍及朝鮮兵千余名」によって撃退,「数千人を仆し其巨魁リセウキウ及びリクシンの二人を殺したり」という情報が「牙山県の官吏並に土民より」伝えられたとする。

後者は,11月30日に平山付近で工事中の技手が「東徒三百余」に襲われ,「金圓其他の物品尽く掠奪せら」たが,翌日応援に来た守備兵8名が加わり,「平山に籠れる賊を攻撃し十二名を斬り殺し火器刀剣等数多を分捕」たと報じた。

12月6日

『日本』年12月6日「京城近状」は、朝鮮政府の混乱を報じ,各地の東学が蜂起し,首都の「人民動揺す」と報じた。

また、同日の「東学党の撃退」では,「西路分進中隊」が11月21日に公州で数万の東学と交戦し,撃退したが,翌日未明からも再襲撃があり,午後3時にようやく撃攘して「賊六名を倒し大砲一門小銃弾薬二千発を分捕」た,東学は日没とともに敬天定山方向に退却した,と報じた。27日に公州に到着の筈の大隊本部と合流するともあるので,これは南小四郎少佐の率いる後備歩兵独立第十九大隊の動向を報告した記事である。

12月6日

「タイムズ」、欧州公論は「勝利者の正当な権利を承認すると同時に、また勝利者の権利に制限をおく」と指摘。日本の過大な要求を牽制。

12月8日

第1軍山県司令官、義州で勅使侍従武官中佐中村覚と会う。9日、義州を出発。この日、第5師団長野津道貫中将、第1軍司令官代理として安東県の司令部入り。

17日、山県は広島の大本営に帰着。第1軍司令官を解かれ監軍に任命。野津中将は第5師団長を解かれ第1軍司令官に任命(29日の後任第5師団長奥中将の到着まで兼任)。

12月9日

正午、第3師団大迫少将支隊、岫嶽を出発。10日朝、師団主力も出発。11日午後4時、大迫支隊は花紅峪に到着。師団本隊は午後2時30分、西羊拉峪に到着。10時30分、清軍が退却した後の折木城に到着。

12月9日

軍国機務処・承政院、廃止。中枢院、設置。

12月9日

川上音二郎一座、東京市主催旅順占領祝賀会に招かれ上野公園野外劇「戦地見聞記」上演

12月9日

一葉、野々宮菊子から、職場を退職する人への送別文の作成を依頼される。

12月10日

中路を進む後備歩兵独立第19大隊南小四郎少佐、この日、魯城県に向かって前進すると、賊徒が四方の山上に現れて襲来。応戦数時にわたりこれを撃退する。森尾大尉へ本隊の戦闘および賊徒の包囲に関する命令を下す。

翌11日、森尾大尉より賊徒は退走して論山付近に集合しているとの報告を受ける。

12月10日

東京市第1回祝捷大会。

12月10日

『日本』12月10日付け「公州滞在兵の進退」は,仁川からの応援中隊が12月3日に公州に到着し,赤松少尉の支隊の合流と共に魯城敬天付近の東学を攻撃する予定と報じている。

12月12日

午後0時30分、第3師団本隊、折木城を出発し揚家屯に露営。

13日午前5時、歩兵第7連隊第4中隊宍道小隊、蕎麦山付近偵察のため営城子北端を出発。第19連隊第5中隊(今村中隊)、水鴨屯東南高地(唐王山)占領のため出発。9時20分、大島前衛司令官、清兵5~600が守備する蕎麦山攻撃命令。10時50分蕎麦山占領。大島司令官は張家元子の清軍の退却を知り、追撃を命令。歩兵第7連隊長三好大佐が第1大隊第1・2中隊を率い急進、海城南門外に達する。11時10分、三好大佐は海城に侵入、清軍は逃亡。第3師団長も海城に入り、午後10時海城占領報告を大本営に送る。


つづく



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