2024年5月15日水曜日

大杉栄とその時代年表(131) 1894(明治27)年12月13日~22日 威海衛攻撃命令 第2次金弘集内閣(開化派・中道派と急進派連合) 缸瓦寨を占領 海城の第3師団は苦戦 一葉『大つごもり』     

 

樋口一葉『大つごもり』

大杉栄とその時代年表(130) 1894(明治27)年12月1日~12日 一葉、再度久佐賀義孝に借金を申し込むが不首尾 山縣有朋、大本営訓令に反して海城攻撃命令 東学農民軍への苛烈な討伐作戦「六里間,民家に人無く,また数百戸を焼き失せり,且つ死体多く路傍に倒れ,犬鳥の食ふ所となる」 農民軍第2次攻撃、農民軍は全羅道へ退却 第1軍司令官山縣から野津道貫中将に交代 第3師団、海城占領 より続く

1894(明治27)年

12月13日

『日本』12月13日付け「慶尚道西南部東学撃攘の報告(掲第二二三号)」を掲載。釜山港の「兵站兼碇泊場司令官今橋少佐」から大本営川上兵站総監宛の12月1日付報告で、10月23日から11月27日までの釜山守備隊から抽出した鎮圧部隊の活動を細かく報告している。

11月7日,約400名の東学との金剛山の戦闘で「賊の屍体六人生擒二十七人,武器若干を押収」,「後に土民の言に拠れば,賊の死体七十許,山間に集めありし」。

11月12日,約5,000 人の東学と晋州西方の水谷村で戦闘となり,「賊の死体は戦場に遺棄せるもの百八十六,傷者は詳かならず(土人の説に退走しつゝ途中に斃れたる者数十人ありしと云ふ)。其他生擒二人,賊は武器弾薬糧食品等夥多を棄てゝ走れり」。

11月16日,「鷹峙及び三峯山」の東学と戦うため小舟を入手したが,その際「軍夫一名溺死」した。

19日数百の東学と百城洞付近で戦闘に入り,「賊の死者七人,生擒五名」となった。

この間の戦闘では,東学が頑強で,水谷村の戦闘では,山上の石塁に拠り「防戦堅くして動く色なし」の一方,別の部隊が日本軍の右を衝く作戦に出るなど,日本軍の将校は「此の如きの動作は従来東徒の所為にあらず,頗る意外なりし」と判断するようなレベルの高いものだった。

この報告には「討捕使大邱府判官池錫永より通報の写(訳文)」が加えられ,「晋州キウカイエイ」で捕縛した「魁首林碩俊」は11月8日に「梟首」,昆陽金剛山で捕縛した「魁首崔学元」は11月13日に銃殺,晋州で捕縛した「魁首金商奎」は11月13日に「梟首」,同じく「童蒙金巷順」も同日銃殺,「隊長金在僖」と「金達徳」,「倀鬼(組長の意) 金成大」は韓暦の10月24日に銃殺した,という報告を掲載している。

以上は,12月1日今橋少佐が打電し,12月12日大本営着電のもの。

12月13日

『東朝』12月13日付は,「朝鮮時事十二月二日京城発」として「東学党乱彙報」を特派員青山好恵の名で掲載。それは「国王の勅語」「地方官罷免」「教導中隊の働き」「黄海監司罷めらる」「難を京城に避く」という小見出しの下にほぼ一段の記事だった。「国王の勅語」は,「厚く東学党征討日本兵を待つべしとの御主意」として漢文の勅諭をそのまま掲載した。

また「教導中隊の働き」では,

「教導隊とハ日本陸軍将校より日本風の教練を受けたる韓兵を云ふ,曩きに東学党征討兵を出すの事あるや,朝鮮政府特に此教導兵一中隊を選びて其任に当らしめ,同中隊ハ日本士官数名の監督を受けて出発せしが」

と日本軍の指導・教育による部隊であると説明し,

「去月二十三日忠清道懐徳に於て右の教導中隊と我兵一小隊との連合軍が東学党四千余名と衝突したる時の如き,右の韓兵ハ能く働き為めに一方の首領朴聖燁なるものを生擒し六十余名を殺すを得たり」

11月23日忠清道懐徳の戦闘での朝鮮軍の「働き」を報道した。"

12月14日

大本営、伊藤首相の提議の基づき、伊東連合艦隊司令長官に第2軍と協力して威海衛攻撃命じる

12月14日

米、ユージン・デブス、陰謀と法廷侮辱により禁固刑判決。 

12月15日

文相西園寺公望、朝鮮駐在特命全権公使井上馨(前外相・内相)宛て書状。

朝鮮国は「天然」に恵まれているが、政治上の命令や法令が「腐敗」しているので今日のありさまになった、私たちの「人類仲間」として残念である、と。西園寺は、閣僚経験者のプライドを捨てて公使となった井上に、朝鮮の近代化を助ける期待をする。

12月17日

第2次金弘集内閣。領議政(総理)金弘集、外部大臣金允植、度支部大臣魚允中は留任。甲申政変の生残りである2人、内部大臣朴泳孝(日本への亡命者)、法部大臣徐光範(米への亡命者)。親日派軍部大臣趙義淵。<開化派・中道派と急進派連合>

新内閣成立前、閔妃は4衙門の協弁(次官)を撰び国王の名で任命。井上は国王に謁見して抗議。国王・金弘集ともに「王妃(中殿)の政治干渉を禁ずる」と約束。

12月19日

缸瓦寨の戦闘。四川総督宋慶の抵抗強く、第3師団は予備役まで投入して激戦5時間、4回の突撃ののち占領。鳳凰城方面の黒竜軍も逆襲、第5師団を牽制。海城進出の第3師団は遼陽・田庄台・蓋平の3方から圧迫され敵中に孤立

早暁、第3師団諸隊、前進。11時50分、大迫少将の部隊、下加河に到着、缸瓦寨に清軍集結を知る。午後1時25分、まず、歩兵第18連隊第1大隊(石田少佐)は馬圏子攻撃に向う。猛烈な応戦の中、1時55分頃、清軍は退却。石田大隊の死傷75人(1/5の損害)。

一方、歩兵第6連隊第2大隊長小野寺少佐率いる第3・5・6中隊は簡単に干官屯を占領。第6連隊第1大隊長岡本少佐は第1・2・4・8中隊を率い缸瓦寨に向う。3時50分頃、日本軍砲兵隊の砲撃により、缸瓦寨の清軍の砲撃は少し緩慢になる。2時、大島少将は歩兵第19連隊第2大隊を率い、大迫部隊救援のため大道八里河子から下加河に向う。3時30分、師団長は下加河西端に到着し、缸瓦寨の清軍が大迫部隊に優っていると判断し、3時50分、大島少将に攻撃を命令。大島少将は歩兵第7連隊(三好少佐)第2大隊を進ませる。これに呼応して大迫少将は歩兵第6連隊長塚本大佐に予備隊2中隊の展開を命じる。4時20分頃、三好大佐命令で銃剣突撃した予備の第5中隊が敵の第1陣を破る。砲兵の猛射撃の応援下、歩兵第6・7連隊は予備隊あげて突撃し、5時30分缸瓦寨を占領。但し、海城を空にできないため、6時30分師団長は帰還命令を出す。21日午前11時30分頃着。

日本軍戦死69・負傷339。この他に、海城には凍傷の重傷539・軽傷523。

12月20日

清国、張蔭コウらを講和全権任命

12月20日

山県有朋、元勲優遇となる

12月20日

一葉、「大つごもり」原稿を戸川秋骨に郵送する

樋口一葉『大つごもり』(青空文庫)

12月20日

『日本』12月20日付け第2面、「大本営掲示」3本(第236〜8号) の合体記事。

12月5日海美方面の東学数百名を捕え,「五十余名を斃す」,9日清州に向かう数万の東学と戦い撃破して,「賊の死者廿余名,負傷者無数」だった。清州での戦いでは「大砲二門火縄銃四十余,其他弾薬槍等を分捕り」なので,東学の軍事的準備も侮りがたいものになっていた。

12月21日

全羅道泰仁の三山、農民軍の最後の抵抗・失敗

12月22日

ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」初演。


つづく

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