2024年8月24日土曜日

大杉栄とその時代年表(232) 1898(明治31)年3月6日 ドイツ、膠州湾租借条約締結 〈ドイツの中国植民地の歩み(2)〉 2神父殺害を口実にした占領 「租借」概念の案出 軍事的優位を頼みにした恫喝による租借条約交渉 

 

ドイツ膠州湾租借地の範囲

大杉栄とその時代年表(231) 1898(明治31)年3月6日 ドイツ、膠州湾租借条約締結 〈ドイツの中国植民地の歩み(1)〉 第一次アヘン戦争(1840~42年)~膠州湾占領計画承認(1896年12月22日) より続く

1898(明治31)年

3月6日

ドイツ、膠州湾租借条約締結

〈ドイツの中国植民地の歩み(2)〉

1896年12月、占領計画が承認されると、ただちに占領の準備が進められた。フランツィウスの派遣後、膠州湾占領を実行すべくディーデリヒスが東アジア巡洋艦隊司令官に任命された。1897年6月、ディーデリヒスは、北京公使館でドイツ公使ハイキングと会談し、現地に駐留する中国軍の指揮官に陣地の明け渡しを要求するための書状と占領後に住民に対して発せられる占領の布告文案について協議した。

1897年11月1日、山東省曹州府鉅野県でドイツ系カトリック・ミッションのシュタイル・ミッションより派遣されていた二人の宣教師(ニースとヘンレ)が殺害された。そのとき、ハイキングは当時湖広総督であった張之洞に面会するために上海付近の呉淞にいた。10月31日に呉淞に上陸しようとしたドイツ水兵が投石を受けるという事件が発生したが、ハイキングはそれを口実に清朝政府に対して賠償を要求するつもりであった。宣教師殺害の知らせがハイキングに伝えられたのは、その数日後の11月4日であった。

11月6日、ヴィルヘルム2世は電報を通じてディーデリヒスに、直ちに膠州湾に向けて出発し同湾を占領するように命じた。11日、ディーデリヒスは、巡洋艦隊3隻を率いて上海より膠州湾を目指して出港した。

占領命令がすでに発せられたことを知った宰相ホーエンローエ、海軍省長官ティルピッツ、外務省で指導的な立場にあったホルシュタインらは、ロシアとの関係悪化、あるいは清と本格的な交戦状態に入ることを憂慮し、ヴィルヘルム2世に清朝政府がドイツの要求をすべて容認したならば占領行為を見合わせるように進言した。ヴィルヘルム2世はこれに譲歩し、12日に海軍軍令部より電報を通じて占領の中止が上海まで伝えられたが、その前日にすでに艦隊は出航していた。

13日、ドイツ艦隊を確認した現地の駐留部隊の指揮官章高元は、ディーデリヒス宛に自分の名刺を送り、ディーデリヒスも表向きは返礼として、実際は偵察の目的で、名刺を預けた将校を使者として送った。

14日朝、現地の住民が見物するなか、上陸部隊はプロイセン式に行進しながら、中国軍が駐留する衙門隣の練兵場に向かった。章高元も一部隊を率いて練兵場に出向いたところで、ディーデリヒスは彼に撤退を求める最後通牒を手渡した。その最後通牒では、宣教師殺害に対する賠償の担保として占領を行うこと、小銃以外の武器を置いて3時間以内に撤退を開始することが記されてあった。正午には衙門は占領され、それを示す軍旗が掲げられた。さらに付近の住民に対する占領の布告が各地に掲示された。ディーデリヒスが占領命令の変更を知ったのは、占領後に電線が復旧した後であった。

〈占領から「租借」植民地化への過程〉

ドイツ人宣教師殺害を口実とした膠州湾占領後、ドイツ政治指導層に求められたのは、いかに国際関係上、占領行為から継続的な領域支配への移行を正当化させるかということであった。

1898年3月6日の膠州湾租借条約のうち、植民地支配を正当化した条項は、その第1部第2条「清国皇帝は膠州湾の湾口両側を租借の形式で、暫定的に99ヵ年、ドイツに移譲する」、および同第3条「何らかの衝突を回避するために、清国政府は租借期間中に租借された領土で主権を行使せず、その行使をドイツに移譲する」の個所である。

1898年4月27日、この条文に基づき、ヴィルヘルム2世は、膠州湾租借地を他のドイツ植民地である「保護領」と同様に帝国の「保護」の下に置くと宣言した。この宣言は、膠州湾租借条約にもとづき、清朝政府に通告することなく一方的に発せられた。これによって、膠州湾租借地は植民地と同等の法的地位に置かれ、そこに総督を頂点とした植民地行政機構が設置された。租借は植民地支配の一形態であって、ドイツ-清朝間の間で締結された膠州湾租借条約は、膠州湾の植民地化を国際関係のレベルで正当化するものであった。

膠州湾租借条約が締結された後、中国における勢力範囲の設定および利権獲得競争をめぐる列強の争いは激化し、1898年3月27日にロシアは旅順・大連を、イギリスは6月9日に香港に隣接する九龍半島に設定された新界および7月1日に威海衛を、そしてフランスは1899年11月16日に広州湾を、それぞれ清朝と条約を締結し、租借地とした。これらの条約においては、膠州湾租借条約中にみられる租借期間中の主権の移譲にかかわる条文は、同条約とほぼ同じ文面で転用された。膠州湾租借条約は、この新たな植民地支配の形態のモデル・ケースとなったとみることができる

〈「租借」概念の案出〉

中国におけるドイツ拠点を租借の形で獲得するという発想は、すでに三国干渉の時点で存在していた。元北京公使M.ブラントは、1895年4月8日に、ドイツ艦隊拠点に目した場所を「割譲あるいは賃借」する可能性について言及していた。外務大臣マーシャルも、1895年10月に在ペテルスブルク大使ラドーリンが清の外交代表と交渉にあたった際に、もし領土の割譲が要求できない場合には、「租借の形式の移譲」で満足するようにと指示していた。

膠州湾占領の翌日、1897年11月15日にヴィルヘルム2世が参席した善後会議で決定された方針のなかにも、中国がドイツに開戦することを防ぐために、中国の主権を維持する方法として「長期的な租借の形で」獲得する可能性が指摘されていた。

占領翌日の善後会議の2日後に、膠州湾を獲得する形式について検討した資料には、膠州湾をドイツに割譲させるA案と、ドイツ租界を設置してドイツ海軍とドイツ商業に開放させるB案を比較検討するものであった。

この資料では、導かれる結論は割譲を推奨するものであったが、さらにもう一つの可能性として、99ヵ年間の主権の移譲に言及されていた。資料では、このような主権の移譲の先例として、ハンザ都市ヴィスマル(スウェーデンより移譲)やドイツ東アフリカ会社などの植民地会社への主権の移譲が指摘されていた。

この形式を適用すれば、法的には中国に「空白の権利」が残り、ドイツに「所有権」としての権利が移譲されるために、租界よりもこの方が好都合であると主張されている。

租借条約の草案は、1897年12月13日に外務省より海軍省に送付された。その後、何ヶ所かの訂正を加えて、18日に8ヵ条からなる草案が北京公使館に電送された。

この8ヵ条は、のちに締結される租借条約の要点(99ヵ年の租借、清朝政府による主権行使の禁止、膠州湾周囲50km区域の設定、鉄道・鉱山利権、膠州湾が不要になった場合の代替地の保証規定)がほぼ含まれていた。

〈膠州湾租借をめぐる交渉〉

ドイツ外交代表と清朝政府との交渉は、1897年11月20日に始まった。同日、在北京ドイツ公使ハイキングは、通訳官フランケらとともに、総理衙門を訪れ、ドイツ政府の6ヵ条の要求を提示した。総理衙門は、宣教師殺害事件に際して、中国側は迅速に対応しており、落ち度はないと主張し、ただちに膠州湾からのドイツ軍の撤兵を要求した。

この最初の会談後、ハイキングは総理衙門に、ドイツ側の要求が受け入れられるまで、膠州湾占領地を担保とすると通達した。

その後、数次の会談を経て、12月7日にドイツ公使館にて、ハイキングと総理衙門から派遣された代表翁同龢と張蔭桓の間で合意が成立した。この合意にもとづき、翁同龢らは膠州湾からのドイツ軍の即時撤退を要求した。総理衙門は、ドイツ側が膠州湾占領を継続する意図を察しており、ハイキングに膠州湾の代替地を提供することを伝えた。ハイキングは明確な返事をできないまま、上陸した兵を撤退させることを認めた。

そして、さらに、総理衙門が全ての艦船の膠州湾外への撤退を要求した時点で。ハイキングは、占領がヴィルヘルム2世の意思であることを明らかにし、ヴィルヘルム2世より指示を待つと返答した。

その後、15日以降、ハイキングと翁同龢・張蔭桓の会談は数次にわたるが埒があかず、結局、1月4日、ハイキングは、もし租借が認められなければドイツ軍は占領地域を拡大すると恫喝し、この軍事的優位を頼みにした恫喝によって、総理衙門は租借条約の交渉を受け入れることになった。


つづく


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