2024年9月10日火曜日

大杉栄とその時代年表(249) 1898(明治31)年9月5日~20日 渡良瀬川大洪水 尾崎文相、桂・西郷の忠告に従い参内、侍従長を通じて「共和演説」を謝罪 オーストリア皇后エリザベート暗殺 朝鮮で毒茶事件     

 

大韓帝国(李氏朝鮮) 高宗と皇太子(純宗)

大杉栄とその時代年表(248) 1898(明治31)年9月1日~4日 子規、東京版「ホトトギス」発刊準備で多忙 永井荷風、広津柳浪に入門 農商務省、工場法案公表 尾崎文相に対する共和演説攻撃のキャンペーン より続く

1898(明治31)年

9月5日

桂太郎陸軍大臣(山縣直系)が、西郷従道海軍大臣(薩摩閥)も同意見であるとして、尾崎の演説は「苟も身文教の大任に膺る大臣の口に発すべきにあらざる事、若し此の如き不穏の言論をも尤めざる時は閣僚皆之れを是認することとなり、至尊に対し奉りて恐れ多き次第」であるとして、大隈首相に対して何事か厳重に迫るところがあったという。


我は一日大隈伯を訪て左の如き忠告をなせり、日尾崎の演説問題に就ては宮中府中共に喧囂する事となれり、中に就く貴族院の如きは此を一の問題となせるは判然たる事にて、尾崎其人の心事は知らざれども、既に顕はれしことを弁解に依て免かれんとするは宜き所に非す、苟も事宮中に係る上は,臣子の分として弁解を須ゆべきに非ず・・・されば尾崎を参内させ、事の宮中に及びLは深く恐入奉ると謝せしめなば、寛厚仁慈の朝廷に於かせられては、猶その上にも追究せらるる事はあらせらるまじと推察し奉る所なり、然らんのちは輿論は尚囂しきも、又貴族院に此問題の起るありとも、事既に終了したるものを何の恐るる所かあらむやと、切に忠告しければ、大隈伯は大に我が言を容れ、直ちに尾崎を招き之に告るに我が忠告の趣を以てし、且つ其言の如くせんことを望めりとぞ、されば尾崎は参内して其趣を陳べたるが、弁解の言辞を加へて陳謝したり・・・その陳謝せしものは全く無効に帰し、此事の問題は益す激しきを加へたり(『故内閣総理大臣桂太郎自伝』)

9月6日

渡良瀬川大洪水。鉱毒被害地では洪水氾濫があり、再び鉱毒被害が拡がった。この洪水は29年洪水に比べると規模は小さいが、西谷田村などで破堤した。また足尾銅山の予防工事で設置された沈殿池が破壊したとの認識を持ち、被害地住民運動は再び「東京押出し」に向けて活発化していった。

9月8日

朝鮮、駐韓国公使加藤増雄、韓国と京釜鉄道敷設に関する京釜鉄道合同条約調印。

9月9日

仏、詩人マルラメ(56)、没。

9月9日

尾崎文相、桂・西郷の忠告に従い、徳大寺侍従長を訪問、侍従長を通じて「共和演説」に関して謝罪。尾崎は、宮内庁からの帰途、西郷海相・桂陸相邸を訪れ、侍従長を通じて謝罪した旨を述べ、かつ両相の「忠告」に謝辞を述べたという。

しかし、閣内の自由党系は、尾崎を罷免して、後任文部大臣の椅子を進歩党系から取り上げて、自派で占めようという思惑もあったから、この謝罪で収まるはずもなかった。

9月10日

レマン湖畔、墺フランツ・ヨーゼフ1世(67)皇后エリザベート(60)、イタリア無政府主義者ルイジ・ルッケニ(25)に刺殺

9月11日

(光緒24年7月26日)伊藤博文、私人の資格で清に旅行、天津着。光緒帝は維新断行のため伊藤を顧問に迎えて軍機処に入れるという噂。14日(29日)、伊藤、北京着。国賓なみの歓迎。

9月11日

朝鮮。毒茶事件

この日夜、高宗と皇太子(のちの純宗)が晩餐の際に吐き気を催し、皇太子は人事不省に陥る。高宗は、コーヒー匂いの異変に気づいて殆ど口をつけなかったが、皇太子は半椀ほど飲んでしまった。同じコーヒーを飲んだ内侍、女官などにも中毒症状がでた。

宮内大臣が警務庁に命じて大膳部の14名を拘束し、取調べたところ、免職となっていた金鍾和という人物が浮かび上がった。金鍾和は、前典膳司主事の孔昌徳より多額の報酬を受ける約束でコーヒーに毒物を混入したと自白。孔昌徳は、金鴻陸から協弁職を受ける約束で、毒入りの飲料により高宗を殺害するよう指示され、金鍾和を買収して犯行に及ばせたと自供。

黒幕の金鴻陸は、高宗の信任厚かったロシア語通訳官(親ロシア派の人物)で、権力濫用により民衆から糾弾されることもあった。金は、この年(1898年)の親露派の没落にともない、官職を失った。8月23日、ロシアとの通商に際して着服した疑いで流刑の詔勅が出され、8月25日、全羅南道の黒山島への配流が決定した。

金鴻陸は、流罪にされたことで高宗を恨み、高宗と皇太子の毒殺を指示した。

9月14日、孔昌徳、金鍾和と妻が逮捕され、その後、金鴻陸も逮捕され犯行を自供、コーヒーに混入された毒物は「砒石」(アヘンまたはヒ素化合物)であると判明した。

10月10日、金鴻陸、孔昌徳、金鍾和は絞首刑に処せられた。

この事件は、独立協会の知るところとなり、皇国中央総商会、万民共同会などによってよって強く指弾されることになる。これらの団体は、高宗と政府を猛烈に批判、外勢に依存しすぎる高宗の政治姿勢がこうした毒殺未遂事件を発生させた、こうした状況を打破するためには帝権の制限と民主の実現が急務であると主張した。

人事不省の重態となった皇太子の李坧(母は閔妃、24歳)は、この事件により知能障害を起こし、判断能力を失った。

9月11日

室田忠七の鉱毒事件日誌より

9 月11日 雲竜寺事務所で「村税補助願」の陳情書提出のための協議、及び「九月六日ノ洪水ニテ予防工事ノ破壊ニ付キ視察トシテ銅山ニ上ルコト」を決める。

9 月13日 農商務省に出頭したが、大臣・次官がいなかったため面会できず。大蔵省・内務省に出頭し、「洪水ニ付鉱毒浸入シタルニヨリ検分被下タシト(ノ)件ニ付陳情」する。

9 月14日 農商務省で参事官に面会し、「被害地検分願」について陳情する。

9 月15日 大蔵省に出頭して参事官に面会し、「被害地検分願」および「免訴継年期限」の陳情、内務省に出頭し「自治破滅ニ付村税補助」を陳情する。

9月15日

フィリピン、ブラカン州マロロスに革命議会開催。

9月18日

(光緒24年8月3日)光緒帝の密詔を託された譚嗣同、天津・法華寺に袁世凱を訪れ慈禧への威圧など変法維新への協力を求める。袁世凱は光緒帝への忠誠と政変への協力を誓うが、「帝党」を裏切る。

9月18日

「該問題(尾崎文相の共和演説)に就き憤慨以て其非を鳴らしたる貴族院中一部の人士は、尾崎文相にして此際其失言を取消して其罪を謝する処あらば好し、苟も然らざるに於ては、断々乎として将に来らん第一三議会に提出して其責を間はざる可からずとて、己に決心を堅め協議を整-たる者少なからず」(『京華日報』)。

憲政党が初めて迎える議会(第13議会)で、貴族院では尾崎文相への、延いては内閣へのの弾劾案が登場するのは避けられそうにない情勢となる

9月18日

スーダン、ファショダ事件、ファショダ占拠狙う仏軍と英軍、衝突寸前

9月19日

内村鑑三「主義の腐れ易き社会」(「萬朝報」)。

9月19日

室田忠七の鉱毒事件日誌より


9 月19日 雲竜寺事務所で「三日大洪水ニ付キ足尾銅山除害工事既チ沈殿池破壊セシニ付」き、今後の方針について協議し、「堤防増築・救助窮済・自治破減ノ三件ニ付キ大運動スルコトニ決シタリ」。

(*要求内容に鉱業停止は掲げられていない)

9 月20日 久野村役場で「自治破減ノ件」につき協議する。

9 月21日 雲竜寺事務所で山田友二郎、須永金三郎、野口春蔵より「銅山視察ニ登山セシ報告アリ」。

9 月23日 「渡良瀬川堤防増築ノ請願書並ニ自治破滅ニ付、村税国庫補助請願」提出のため、地方庁の添書を得る行動に移る。久野村長の調印、足利郡長の添書を得る。

9 月24日 佐野郡長の添書を得る。栃木県庁に出頭して課長に面会し、知事の添書を願うが得られず。

9 月25日 県知事の添書を得る。


9月20日

(光緒24年8月5日)光緒帝・伊藤博文会見。屏風の後ろに西太后が居るため具体的議論にならず。軍事援助や失敗の際の亡命受入れ提案あうる可能性あり。

この日、袁世凱、天津にいる栄禄にクーデタ計画を密告。栄禄は光緒帝・伊藤会見「傍聴」を終えた西太后に知らせる。


つづく

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